「わたしの南無妙法蓮華経」

「わたしの南無妙法蓮華経」(ひろさちや/佼成出版社)

→法華経の教えは久遠実成と諸法実相とされているが、
例によってひろさちやさんの説明はわかりやすい。
ひろさんは本書で主に諸法実相を解きほぐす。
ちなみに久遠実成とは、実は釈迦は死んでいなかったんだよという、あの嘘のことである。
宇宙仏が2500年まえインドにたまたま釈迦として登場したに過ぎないというフィクション。
釈迦だって死んじゃうのなら我われとおなじじゃん。
だから、釈迦を偉くするために死なない永遠のブッダを大乗仏教の人は創造したのだ。

さて、諸法実相に行こう。法華経本文には諸法実相はどう説明されているか(方便品)。
「唯仏与仏 乃能究尽 諸法実相」
「唯(ただ)仏と仏乃(いま)し能(よ)く諸法の実相を究尽(くじん)したまえり」
ひろさちや氏は「唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ)」に注目する。
諸法(宇宙のあらゆるもの)の実相(本当のすがた)は「唯仏与仏」である。
諸法の実相はただ仏と仏のみしか理解できない。つまり、人間にはわからない。

引き続き法華経本文には諸法実相とは十如是(じゅうにょぜ)であると書かれてある。
ただ仏と仏のみ(「唯仏与仏」)世界の万物を十如是であると見破っている。
十如是とはなにか。世界とは如是(かくのごとき)である。
かくのごとき相、性、体、力、作、因、縁、果、報、本末究竟等を有している
如是相(見かけ)、如是性(性質)、如是体(本体)[外面]
如是力(可能性)、如是作(作用)[内面]
如是因(原因)、如是縁(ご縁)、如是果(結果)、如是報(結果の結果)[時系列]
如是本末究竟等(如是相~如是報までが究極的に等しいこと)

繰り返すが、この十如是は「唯仏与仏」の世界の見方なのである。
我われ人間には事物の本当のすがた=諸法実相=十如是は見ることができない。
せいぜい相(見かけ)くらいしか我われの目には映らないだろう。
隠された性(性質)、体(実体)程度なら見えるものもいようが、
力(可能性)や作(それがどう作用するか)まで見通せるものは「唯仏与仏」である。
さらに時系列においても我われには因(原因)くらいしか見えず、
このため因をうまく操作すれば世界は思うようになると勘違いしている。
因をうまく操れば、人生設計も会社経営も国家政治もうまくいくと錯覚している。

しかし、とひろさちや氏は言う。
因はそのまま果に直結するわけではない。縁がなければ因は果を結ばない。
この縁こそ人間には見えぬ最たるもので縁起こそ仏教思想の中心だという。
因は直接原因、縁は間接条件と説明されている。
さらに縁(間接条件)にはプラスの縁とマイナスの縁の2種類があるという。
プラスの縁はわかりやすいそのままのご縁だが、
マイナスの縁とは「~~がなかった」という縁のことらしい。
太郎が花子と結婚するには、ほかのだれかが花子に求婚しなかったという縁もある。
太郎が出世するには、だれかミスばかりする同期がいなければならない。
太郎が大学合格するためには、
他の優秀な受験生が風邪を引いていたという縁も関係している。
縁ほど我われに見えないものはなく、「唯仏与仏」のみ縁を見通しているのである。
「唯仏与仏」のみ知る諸法実相(十如是)は、我われにはわからない。

さて、因がさまざまな縁によって果になるわけだが、
さらに果が報に変化するという見方には新鮮な驚きがあった。
ひろさちやさんって、本当に仏教がわかっているんだな~。
我われは結果を求めて生きているわけである。むろん、悪い結果ではない。
良い結果をひたすらもとめて因(努力)を重ねているのが大概の日本人である。
しかし、果は果で終わるわけではなく報に変化するという考え方はおもしろい。
たとえ良い果を縁によって得たとしても、その果が悪い報になるかもしれないのだ。
たとえ出世しても多忙と人間関係で壊れてしまい心を病んでしまうかもしれない。
運よく大成功を遂げても嫉妬や中傷でひどい人間嫌いになることもあろう。
高収入のイケメンをうまく捕まえ結婚しても相手の浮気で地獄を見るかもしれない。
志望大学に落ちて三流大学に入っても、そこで人生の伴侶とめぐり合うかもしれない。
果がどういう報に変化するかは人間にはわからず「唯仏与仏」のみ知るところになる。
まとめるとこうなる。

因→(多様な縁=わからない)→果
果→(多様な縁=わからない)→報


もしそうだとしたら、どんなに善因(努力)を積んでも善果は出ないかもしれない。
さらに目標や夢(善果)を設定してそれに向かうのがいいのかもわからない。
我われには善果のように見えていても、まさしくそれが悪報になるかもしれないからだ。
するとビジネスマンの目標を立てて効率的に努力するという方法は、
法華経(=諸法実相=十如是=唯仏与仏)を知らないがための蛮行になってしまう。

いままではわたしが代理で要約してきたが、
最後にひろさちやさんのわかりやすい言葉で法華経の諸法実相を説明してもらおう。

「わたしたちが仏教を学んで、何が悟れるのかと言えば、
――わからないことがわからないことだとわかることがわかることだ――
ということなのです。
わたしたちは、はからっても、うまくいくかどうかわからないのだから、
未来のことは、おまかせする以外ない。
大いなる絶対者におまかせするんだということです。
それが、「南無」ということです」(P26)


「唯仏与仏 乃能究尽 諸法実相」
「唯(ただ)仏と仏乃(いま)し能(よ)く諸法の実相を究尽(くじん)したまえり」

「此岸の価値観は、「役に立つ」ことを至上価値にしています。
わたしたちは、役に立つものは大切にしますが、役に立たないものは軽視して、
棄ててしまいます。「諸法実相」とは、
役に立つからいい、役に立たなければ駄目だという物差しを捨てることです。すなわち、
――役に立っても立たなくても、それ自体がすばらしい――
のです。立派であっても立派でなくてもありがたいのです」(P95)


「唯仏与仏 乃能究尽 諸法実相」
「唯(ただ)仏と仏乃(いま)し能(よ)く諸法の実相を究尽(くじん)したまえり」

「病気になったときには、病気でよかった。
大学を落ちれば、落ちてよかったということが「諸法実相」です。
一年早く通っても同級生に意地の悪い者がいて、いじめられるかもしれない。
一年遅れたために、すばらしい恋人が見つかるかもしれない。
何がいいことなのか悪いことなのか、それは自分にはわからないのです。
ほとけさまだけが、わかっておられるのです。
また、不幸なことにお子さんが亡くなってしまったとします。それは気の毒なことです。
でも、きっとほとけさまが、それがいいことだと思っておられるのです。
何でいいのかと言われたって、わからないのですね。
でも、わからないことが、わからないことだとしっかりわかったとき、
本当の救いがあるのです。それが、
――「不思議」――
ということです。思議することができない。人間の知恵でもって思議できないのです。
神仏のこころは、わたしたちには思いはからうことはできません。
病気とか失敗とか挫折とか、自分ではマイナスの価値だと思っていることが、
神仏の目から見れば、違っているかもしれないのです。
それが、「不思議」ということです」(P103)


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