「笹舟日記」

「笹舟日記」(三浦哲郎/新潮文庫)絶版

→1年かけて連載されたという短編小説ふうの自伝的エッセイ集。
年譜を見ると、三浦哲郎6歳のときがいちばんの暗黒時代だろう。
まず3月、三浦哲郎の誕生日に次姉の貞子が青函連絡船から投身自殺している。
これが三浦哲郎の決定的な、いわゆるトラウマになったようである。
自分の誕生日を祝えなくなってしまった。
同年夏、長兄の文蔵が突如失踪する。同年秋、白子症だった長姉の縫が服毒自殺。
三浦哲郎の残っているきょうだいは次兄の益男、それから三姉のきみ子である。
作者は小学校のころ、「おまえの姉ちゃんイルカに食われたんだろ」
と同級生からからかわれてショックを受けている。
丸三呉服店の娘の入水自殺は当時の地方新聞にでかでかと掲載されたそうだ。
12年後、三浦哲郎は次兄・益男の経済的援助もあり早稲田の政経に通っている。
益男は当時34、5歳でまだ独身、材木会社に勤務し「専務さん」と呼ばれていた。
この益男が原因不明の失踪をしてしまうのだが、その直前に哲郎は次兄に逢っている。
益男の恋人らしき女性と三人でブルースの女王とやらのリサイタルに行ったのだという。
このときの思い出を描いた「もういちど逢いたい人」はとてもいい。

頼りにしていた次兄が出奔してしまい哲郎は休学届を出し帰郷する。
一度中学校に勤務するもののすぐに辞め、脳軟化症で闘病している父のもとへ行った。
もうどん詰まりで先行きがまったく見えない。
このとき立ち上がったのが、いままで引っ込み思案で、
いつも母の陰でうつむいていたような白子症の三姉きみ子である。
きみ子は自殺した長姉から琴を習い、その後は高名な師匠の弟子にもなり腕を上げていた。
障害があるためこれまで影の薄かったきみ子がだしぬけに言ったという。
「私たち、もう死んだ気になって、
自分の出来ることをやってみるより仕様がないんじゃない」
実際きみ子は行動に出る。不自由な目に薄墨色の眼鏡をかけ、
ひとりで知り合いのあいだを奔走して3つも稽古場を開設することに成功したのである。
以降は「書き初め・弾き初め」から抜粋する。本当にいい。

「「あんたも暗い顔ばかりしていないで。」
と、あるとき姉は私にいいました。
「なにかやりたいことがあったら、本気でそれをやる気になったら、どう?
東京へいきたいなら、いったっていいよ。足りない分は、私が助けてあげる。
でも、なまじっかは、私は厭(いや)だからね。それに、お金だって、
あんたが一人前になったら三倍くらいにして返して貰うんだから。」
姉は、悪戯っぽく笑っていましたが、私はそのとき、
姉にいやというほど背中をどやされたような気がしたことを憶えています。
誰よりも弱者だと思っていた姉に、私は背中をどやされたのです。
私は恥ずかしくて、顔も上げられないような気持でした。せいぜい、
「御希望なら、三倍を五倍にしたっていいんだぜ」
そんなことをいうのが精一杯でした」(P290)


次兄の失踪に衝撃を受けた三浦哲郎は当時、
「自分たちのきょうだいには、滅びの血が流れているのではないかと思い、
ならば末弟の私はその血の分析に生涯を費やしてもいい、
などと考え」(P112)ていたため、姉きみ子の経済的援助を得てふたたび上京する。
滅びの血の末弟、三浦哲郎は文学立身をめざし早稲田大学文学部仏文科に再入学する。

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