「わが山本周五郎」

「わが山本周五郎」(土岐雄三/文春文庫)絶版

→「いやなやつがいい小説を書く」「作家の周りは死屍累々」は、
どちらとも筒井康隆氏のお言葉と判明する。
本書はいわゆる暴露本と言っていいだろう。
生前山本周五郎からかわいがってもらい家族ぐるみのつきあいまであった著者が、
文豪が生きていたら決して言えなかった本当のことを没後3年にして公開した。
著者の土岐雄三は三井信託銀行に勤めながら副業として売文にも手を染めたという人物。
山本周五郎のほうから著者に関心を持ってきたということである。
独善的な山本周五郎は没後に「サル山の大将」と批判されたらしいが、
ボスは複数の子分を必要とする。
その子分として山本周五郎に選ばれたひとりが4歳年下の土岐雄三であった。

山本周五郎が大嫌いで大好きという人が書いた本でとてもおもしろかった。
要するに、などと簡単にまとめてはいけないような名著だが、
それでも読者の便宜のためにわかりやすい表現を使うならば、
表現者と生活者のたたかいの経緯を長生きしたほうがなかば勝ち誇りながら書き残した。
表現者の山本周五郎は銀行員の土岐雄三に幾度か、
仕事なんか辞めて文筆専業にしろとアドバイスしたという。
無頼の文学者へのあこがれもあったが土岐はおのれの才能を見切り生活のほうを重視した。
この生活者的態度をだいぶ山本周五郎からやり込められたらしい。
そのときの著者の怨念が「死んだ人の悪口」というかたちで結晶したものである。
そんなに文学者は偉いのか? 
たしかに小説はすばらしいが、山本周五郎よ、おまえは何人のものを犠牲にしたのか?
そういう生き方は格好いいのだろうが、おまえの芸のこやしになったものはどうなる?
土岐雄三は生活者として、つまり銀行員として最高峰の重役にまで出世した。
この生活者トップという立場から、かつて親交のあった孤高の表現者を断罪するのである。

「山本周五郎は小説を書くために生れ、小説を書き尽くせぬままに生涯を終えた。
彼にとって、生活のすべてが小説のために在った。
それ以外に、なんの意味もなかった。
肉親も、友人も、酒も女も、愛欲でさえ、
小説のこやしにならないものはよせつけなかった」(P7)


いかにも作家らしい演技がかった臭みのある無頼を山本周五郎は好んだ。
知り合って間もないとき著者は山本周五郎が山岡荘八と殴り合いの喧嘩をするのを目撃する。
このとき抱いた違和感を生活者・土岐雄三は最後まで大切にして本書を描いたのだろう。
多少長い引用になるが、ここを落とすと、
この名著が文豪への嫉妬から書かれた単なる暴露本、悪口本に思われてしまうのでお許しを。

「作家とは、スゲエもんだ、と思った。
感銘する反面、バカらしい気がしなくもなかった。
私はもともと文学者でも、芸術家でもない。ごくありふれた一介のサラリーマンだ。
ものに感動することはあっても、
それを暴力に結びつけるほどの深刻さは持ち合わせないのだ。
尤(もっと)も文学者や、小説作者が、軽蔑するであろう
(それが軽蔑に値するかどうかは別として)常識の世界、サラリーマン社会にも、
人並みな感動も怒りも哀しみもある。
しかし、それはそれ、生活は生活だ。
感動や感激を殴り合いにまでエスカレートさせるには、
いま云われる平衡感覚というやつが邪魔をする。
怒りや哀しみを顔にも行動にも現わせないのが、サラリーマンの習性である。
われわれは、殴り合い以上の陰湿な葛藤を、内に外に、くり返している。
怒りを忘れたのではなく、哀しみを知らぬのでもない。
むしろ、それらは殴り合い程度では、おさまらぬほど深刻なのだと思うこともある」(P40)


表現者・山本周五郎はだれを自分の芸のこやしにしたのか。
まず元「講談雑誌」編集長の風間真一である。
戦後しばらく山本周五郎はほとんどこの「講談雑誌」しか書く場所がなかった。
風間真一は自分でも細々と小説を書く作家もかねた編集長である。
風間は小説家としては山本周五郎にはるかに及ばぬことを知っていたが、
いや、そのために、だれよりも周五郎の才能に惚れ込んでいたから、
編集者として作家に意見することもあった。
とはいえ、周五郎の才能をだれよりも知っている恐れから、酒の力を借りないと意見できない。
このため、渡した巨額の原稿料を周五郎にその場で燃やされたこともあったという。
「あれはつまらない」と言ったがために周五郎の逆鱗(げきりん)に触れたのである。
また風間真一は「サル山の大将」だった周五郎の子分のひとりという位置づけでもあった。
山本周五郎とて最初から文豪だったわけではない。
むかしは新潮どころか文春、朝日にさえ
書かせてもらえない低級の読み物作家に過ぎなかった。
ブームが起こったのは山本周五郎が50を過ぎてからである。
それまで周五郎の才能と真剣に向き合い、その向上に寄与したのが風間真一であった。
しかし、山本周五郎が出世したあとは、風間は生来の酒癖の悪さも相まって、
「サル山の大将」から追放処分を受けた。
朝日や文春、新潮の編集者に取って代わられたという意味だ。
「講談雑誌」からもクビになった風間真一は専業作家になると宣言したが、
女房に働かせて毎日酒を飲むだけの男に落ちぶれ早死にしたという。
著者の分析では、なまじ山本周五郎の才能を知っているぶん、
中途半端な自分の小説が書けなくなってしまったのが酒に溺れた原因らしい。
長年、作家と編集者としての関係があった山本周五郎は風間真一の葬式に来なかった。

土岐雄三自身も犠牲になったと思っていたようだ。
山本周五郎の才能に圧倒されて、自分の下らなさが見えてしまい、書けなくなるのだという。
せっかく書いても、山本周五郎が手紙でいろいろ意見してくる。
もちろん、たくさん褒められたけれども、それだけではなかったという。
巨大な才能をまえにすると自分がなくなってしまいそうになる恐怖を著者は何度も語る。
周五郎は著者に生き方の改変まで迫ってきたという。
群れるな。会社を辞めろ。家族とも一線を引け。つまり、孤独になれ。孤独を恐れるな。
そうでないといつまで経っても一流のものは書けないぞ。

「究極のところ、人間はじぶん一人でしかない、周五郎の説話は、これにつきる。
人間は一人で生れ、一人で死んでいく。
どんなに心ゆるした友人でさえ、「死」の門をくぐるまでの道連れと思え、
私は周五郎に何度云われたか知れない。
文学とか、小説書きとかいう世界に生きる人たちは、程度の差こそあれ、
孤高の精神を尊ぶし、事実、孤高でもある。
妥協も協調もない。妥協や協調は、卑俗な常識人のすることだ。
つづめていえば、そういうことになるのであろう」(P179)


土岐雄三が孤高とは相いれない甘えた世渡り上手になったのは生い立ちが関係している。
土岐は父親の留守中に母親が若い学生と密通してできた子どもなのである。
そのうえ土岐の兄姉は3人いたが、そのうちひとりが4、5歳のとき、
土岐から湿疹をうつされて死んでしまったという。
両親からしたら自分のほうが死んでほしかったのはあきらかであろう。
土岐は4歳のとき養子にやられたが、この養母もひどく多情で、
土岐のまえで若い情夫とむつみあうこともあったという。
こういう生い立ちがあるから自分はつい人に甘えてしまい孤独にはなりきれない。
土岐雄三は、孤独を執拗にすすめてくる周五郎にこのような説明をした。
山本周五郎は土岐雄三の生い立ちをモデルに小説を1本書き上げたという。
周五郎は小説の鬼で、どんなことも小説のネタにできないかという視点で見ていたという。

「美しいもの、醜いもの、愛情も、裏切りも、それが人間から生まれるものである限り、
彼[周五郎]は貪婪(どんらん)に吸収する。吸収して、貯蔵する。
「人間を描く」という周五郎の小説作法の基底は、
人事百般の事実を客観視することにあるらしい。
女には惚れさせるが、自分は情に溺れないのが、
小説作者の心構えというふうに見えた」(P82)


周五郎が風間真一を見捨て出世してからは、著者とも疎遠になったという。
これは著者が支店長、重役と出世していったのとも関係しているかもしれない。
一度周五郎の娘の結婚式に呼ばれたが、
これは銀行のお偉いさんを呼びつけて飾りにしようとする意図だったのではないか、
と土岐雄三はおそらく山本周五郎ゆずりであろう意地悪な見方をする。
晩年、急に懐かしくなりアポなしで訪問したが、
秘書に門前払いされたことを恨みがましくつづる。
そのうえで山本周五郎の作品は出世するまえのほうがよかったと晩年の名作をくさす。
知り合いが文筆で出世してしまうと、いくら銀行の重役とて嫉妬するのである。

山本周五郎は家族をも犠牲にしている、と土岐雄三は弾劾する。
後妻のきん夫人は健気にも前妻の子を4人も育て上げている。
一度きん夫人が妊娠したことがあったのだが、周五郎は流産を強いたという。
土岐雄三は善人気取りで周五郎の悪人ぶりを責めたてる。
また土岐は自分の子ども4人は全員うまく社会に出たことを書いたうえで、
意地悪くも周五郎が子育てに失敗していることを指摘し勝ち誇る。
周五郎の次男、清水篌二はふらふら遊び歩くどうしようもない青年だったが、
あるときを境に脚本家になったという。この裏側はなんのことはない。
周五郎が自分の原作のドラマは息子を脚本家にしないと許可しなかったのである。
土岐によると周五郎の長男、清水徹は、
父の没後もまともな職に就かずぶらぶらしているという。
エリート銀行員からしたら、いまのニートのような存在は小気味のよい愚弄対象なのだろう。

本書で土岐雄三が公開している、山本周五郎の実際的な創作作法がおもしろかった。
周五郎は書くまえに出版社から多額の原稿料を前借して、それをすべて使い果たした後、
著者の言葉を借りるならば「金銭的に背水の陣を敷いて」(P114)執筆するのだという。
追い込まれないといいものは書けないと山本周五郎は信じていたのであろう。
これは国、時代こそ違うが、ギャンブルで金を使い果たしてから
小説を書きはじめるドストエフスキーとおなじ流儀である。
周五郎は区切りとなる小説を書き上げると、「アタマを洗う」と称して、
高級料亭で連日にわたり子分や芸妓を集めた壮大な酒宴を催し散財したとのことである。
こういう事情で山本周五郎の死後、まったく資産が残っていなかった。
周五郎は生命保険にさえ入っていなかったことを銀行屋の著者は暴露している。
65歳で死んだ山本周五郎とは異なり、
家族に恵まれ82歳まで長生きした生活者の土岐雄三はいくらの遺産を残したのか。
しかし、いま土岐雄三の作品を読み返すものは少ないだろう。
土岐がバカにしていた周五郎の息子ふたりには長いこと印税が入っていたはずだ。

孤独な山本周五郎は、甘えた性分で世渡り上手の土岐雄三が
自分とはまったく異なるがゆえに惹かれたのだろう。
周五郎は土岐を「若い友人」と呼んでいたという。
土岐雄三も自分とは比べ物にならぬほどの才能を持った周五郎に愛され嬉しかった。
ふたりは一時期交際して、そして別離した。
周五郎の才能は死後に「若い友人」から悪口をこれでもかと書かれる類のものであった。
ふざけた調子の悪口ではなく、本書は人生を賭した命がけの悪口である。
だから、よかった。山本周五郎も土岐雄三もそれぞれにいい。それぞれよろしかった。

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