「対話する家族」

「対話する家族」(河合隼雄/潮出版社)

→むかしあるところである人から連日のように「前向きになれ」と指導されたことがある。
(たぶん創価学会員だったと思うが、さすがにストレートには聞けなかった。
お読みの方で彼を知っている人がいたら伝えてほしいのだが、いまでは感謝している)
「前向きになれ」とぼくは数歳上の彼から毎日指導された。
カタカナで言えば、ポジティブになれ。ポジティブ、ポジティブ、ポジティブは正しい。
いまだから白状するけれど、え、ぼく、そんなネガティブに見えるの? と驚いた。
もちろん、第三者の目のほうが正しいのだから、
そのときぼくはネガティブだったのは間違いないが、
本人の意識としてはけっこうポジティブにやっているつもりだったのである。
いまでも自分がポジティブなのかネガティブなのかわからない。
こちらポジティブな人、あちらネガティブな人、なんて簡単に区分できるのは、
わかりやすいテレビドラマの世界だけではないかと思う。
テレビドラマは視聴者のためにわかりやすいキャラクター造形が必須だという。
ポジティブな人がいきなりネガティブになったりしたら、視聴者が戸惑うからだ。
しかし、現実はどうだろうか。
ポジティブな人もそう見せているだけで実はネガティブなところもあるのではないか。
ネガティブな人もそうで、ネガティブな言動をできるのは
根がポジティブだからのような気がしてならない。
河合隼雄先生、人間のポジティブとネガティブの関係ってどうなっているんですか?

「ただし、ネガティブ、ポジティブと言いますけども、
このマイナスとプラスというものは、思いのほか一緒の時があります。
大嫌いというのは大好きになりやすいし、大好きは大嫌いになりやすい。
こういうものを越えた所に、何か本当のものがあるというところがありますから
マイナスだからと言って、そうびっくりする必要はないので、
こだわらない方がいいかもしれません。
患者さんに接してると、これはしょっちゅう起こります。
ものすごくポジティブだと思った人が次にネガティブになったり、
ネガティブだなと思ったら、ポジティブになったりする。
それから、よく言うのですが、絶対に何とかはしないといって否定した人は、
大体それをやるんじゃないかと思います(笑)」(P62)


ならば河合隼雄によると「絶対に創価学会に入りません」なんて口にする人は、
危ないのかもしれない(入るのがいいのか悪いのかぼくにはわかりませんが)。
あの人とは絶対に話さないとかわざわざ宣言する人もその絶対を破るらしい。
きっと人間って矛盾のかたまりなんだろうな。
ぼくだって将来、創価学会に入って人間革命しちゃうこともあるかもしれないわけで。
創価学会は好きで嫌いだから。嫌いで好きだから。
ここだけの話、掃除するときYouTubeで「威風堂々の歌」をかけている(秘密にしてね)。
「邪を打ち砕く」のところが「ゴミをやっつけてやる」という気分にマッチするのだ。
くれぐれも秘密厳守でお願いしたいが、
動画で踊ってる名誉会長を見ながら楽しそうだなとか思う。
(創価学会が入れてくれないという可能性もあることをいちおう断っておきます)
自分で自分がわからない。
「出世したい」も「出世はもうあきらめた」もどっちも本気として心のなかにある。
「死にたい」も「生きたい」も嘘じゃない本音である。
考えてみると、どっちも嘘でどっちも本当みたいな矛盾ばかり抱えているけれど、
河合隼雄によるとそれは精神が分裂しているわけではなく、当たり前にそんなものらしい。

「矛盾するものを「私はこのようにかかえているのです」と宣言することによって、
その人の「私」つまり個性がはっきりする。
そこに「物語」が生まれるということも考えているが、その点は今回は触れない。
ともかく、そのような現代の個人の心を示す上で、
仏教が重要な役割を果たすと筆者は考えており、
今後もその方向で研究を続けてゆきたいと思っている」(P22)


最近テレビはめったに見ないのだが、
いつだったかNHKのいかにも秀才といった感じのニュースキャスターが言っていた。
「いかなる場合も体罰は絶対にいけません」――。
もちろん、河合隼雄だっていま生きていたら空気を読んで反対はしないだろうが、
1986年(昭和61年)段階では意外や意外、体罰を肯定しているのである。
さすがに全文転載はできないから、一部引用になるため、
河合隼雄の真意をうまく伝えきれていないかもしれないが、それでも抜き書きしておく。
体罰は絶対にいけないわけではない。
なぜなら体罰は――「身体と身体が触れるというのは一種の一体感があるでしょ」。
「体罰は身体に触れて教育しているということでしょう」。
ちなみに河合隼雄は高校教師から職業履歴をスタートしている。

「だから、私が教師だったら、ひょっとしたら殴るかもしれません。
殴るときは私を全部賭けます。これはどういうことかというと、
例えばそれが教育委員会に知れてクビになったって構わないと、そこまで賭けます。
殴ったことが知れた時に、私は教育的情熱でやったんやから
こらえてくれというんだったら全然話になりません。自分を賭けていないんです。
あとでブツブツ言うんだったら殴らん方がいい
父性原理も何もないし、我関せずで殴らない人にくらべたら、
頑張って殴ってる人の方がちょっと熱心だとは認めますけれど、
殴ったからといって偉いわけではありません」(P78)


いったい河合隼雄さんって、どんな人だったんだろう。
村上春樹によると、どうしようもないオヤジギャグばかりペラペラしゃべるおっさん。
河合隼雄が死んでからの最近の発言だから、これはもう信憑性が非常に高いと思う。
もうお亡くなりになっているから講演会に行こうと思っても無理だ。
河合さんは、なにかを「好き」になることが人を育てると考えていたようだ。
たとえば、問題児は自発的になにかに関心を持つことから変わっていくという。
だったら、河合隼雄本人は果たしてなにが好きだったのか。
本書に村上春樹の証言を裏づけることが記載されている。

「つまり、私の好きなもの、それは「雑談」である。
私はあまり趣味のない人間だが、趣味の第一は雑談ではないか、と思っている。
それに適当にアルコール飲料がある方がいい。
飲みすぎて、泣いたり、わめいたりするのは好きではない」(P328)


「長い時間を何やかにやとしゃべって、大いに楽しんだ後で、
さて何の話をしてたのかと考えると、ほとんど覚えていない。
楽しかったという想いだけが残っている。そんなのが私は好きである。
いったいそれが何の役に、と言われても、
無駄なことに時間と金をかけるのが趣味というものの特徴なのだから、
まさにピタリというわけである」(P329)


運よくぼくもたまに酒をのんでどうでもいい話を一緒にしてくれる人がいるけれど、
なにを話したか覚えていないことがあって、相手の迷惑じゃないかとか、
もう少し実のある話をしたほうがいいのかとか思ったこともなくはないが、
河合隼雄さんの言う通りで、そういう無駄な雑談がいちばん楽しいのかもしれない。
異業種交流会とか行って価値ある情報をやり取りするのもきっと大切なのだろうけれど。
有名人の講演会に行ってどうしたら成功できるのか情報を集めるのもいいのだろうけれど。
創価学会の座談会に行って勝利した人の体験発表を聞いて発奮するのもいいのだろうけれど。

しかし、人生まったくうまくいかない。ぼくの人生全体が病んでいるようなところがある。
どうしたらうまくいくのだろう。どうしたら病んだ人生が治るのだろう。
ぼくも熱心に成功者のセミナーとかに行き散財したほうがいいのかな。
それとも現世利益をうたう新興宗教団体へでもあたまを下げて入れてもらおうか。
どうすればかならずよくなるのだろう? いい方法はないか?

「「――すれば必ず――になる」というようなことを信じることによって、
安易に偽科学が偽宗教の道に迷い込んでしまうのだ。
人間のこころのことは、それほど簡単にわかったり、
「よい方法」によってうまく変えられたりするものではない。
確かに、心から祈ることによって自分の願いが聞きとどけられたと思うときや、
知人の死を「虫の知らせ」によって知ることができる事実があることを私は否定しない。
しかし、そのようなことがあるからと言って、
そこから単純な「理論」や「信心」を導き出すのは、まことに安易なことである。
ましてや、そのようなことを種にして、お金をかせごうとするのには、
どうもついてゆけない」(P28)


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