「中年クライシス」

「中年クライシス」(河合隼雄/朝日文芸文庫)

→ユングのところに来る患者は中年が多かったそうである。
財産、地位、家族に恵まれたものが、それでもなお不満を感じてユングのもとを訪れた。
日本経済がまだいまのように落ち込んでいなかった本書執筆時(1993年)、
河合隼雄はそろそろ日本の中年にも心理的な問題を抱えるものが増えてきたと感じる。
このため、中年期の問題を文学作品を用いて語ろうというのが「中年クライシス」だ。
河合隼雄が文学作品を例に出して心理問題を説明するのは守秘義務のためである。

正直な感想を述べると「中年クライシス」は贅沢病としか思えなかった。
財産、地位、家族に恵まれた中年の心の問題はあまり共感できないのである。
というのも、こちらがそのようなものに恵まれていないし、
もうあきらめに境地にいたってしまった初期中年だからなのだと思う。
よく知らんが本書によると財産、地位、家族に恵まれた中年は「私とは何か」に迷うらしい。
たしかに「○○会社の部長」「○○の夫」「○○の親」「年収は○○」で説明できるが、
それはほかの人との比較で有効なだけで、根源的な「私とは何か」の答えにはならない。
そこで贅沢にも「私とは何か」に思いをめぐらす悩める中年がいるそうだ。
肩書や年収、家族を追っ払った「私」なるものを河合隼雄はこう説明する。

「たとえば「私」とは、今ここに一人で山小屋の前に座って、高い山々の峰を見ている。
それだけでまったく十分なときがある。これが「私だ」と感じることができるのだ。
そんなとき、その山の空気や、そして自分の体の状況や、
それらすべてが混然一体となり、「私」の感覚を支える。
このような感覚がわからない人は、
自分がそのときに見た山が「海抜何メートル」であるのか、
自分はそこに行くためにどれほどの費用を使ったのか、
その場所は「有名」かどうか、などを強調する。
こうした人は、同じような山を見ている「私」について考えるにしても、
その尺度は先に述べた一般的尺度に頼っている」(P133)


「ふたつよいことさてないものよ」は河合隼雄の名言のひとつだが、
純然たる「私」と世間的に評価された「私」のどちらをも獲得するのは無理ではないか。
わたしは「山と一体化した私」のような感覚はわからなくもないが、
財産、地位、家族とはまったく縁がない。
財産、地位、家族に恵まれた幸運な人は、そちらの「私」はあきめらてもよいのではないか。
幸運で裕福な中年が突然に心を病んだり自殺したりするのは、
純然たる「私」の希薄さが関係しているらしいが、まあザマアミヤガレと思わなくもない。
両方の「私」をどちらとも備えようとするのは欲張りが過ぎるような気がする。
「寝た子を起こすな」とも思う。
一生、財産や地位をがむしゃらに追っていれば、心の病にはかからないのではないか。
河合のような心理学者が「本当の私」などに言及するから、
うっかりその内容を雑誌などで読んでしまった中年の心が病んでしまうのではないか。
いや、河合隼雄に言わせれば、いわゆる社会的成功者は無意識に復讐されて
困難な家族問題や心理問題に直面するということだが、そうだったらどんなにいいことか。
もしそうであるならば、こちらの嫉妬も少しは慰められる。
しかし、果たして本当に河合隼雄の言うようになるのか。
社会的成功者が家族の問題に直面しやすいのは事実だろうが、
ほとんどの成功者は家族を犠牲にして自分の成功を維持するだけで病んではいない気がする。
とはいえ、家族がそれぞれたとえれば星座(コンステレーション)の関係にあるとは、
過去の記憶に照らしてまったく事実だと思う。

「家族というものは不思議なものである。別に示し合わせたわけでもないのに、
それぞれの内的な心のあり方に、見事な対応関係が生まれてくるのである。
コンステレーションというのは、星座の意味である。
家族の関係は星座のように、お互いが適当な距離と引力関係をもち、
全体としてひとつの布置を形成している。
したがって、そのなかのひとつだけが単純に変化することはできない。
その変化は、どれが原因、結果などと言えないままに、全体として生じるのだ」(P125)


これをわかりやすく言うと、たとえば兄弟はなかなか全員は成功しないのだ。
複数の兄弟がいたらひとりだけ出世して、
あとのふたりはぜんぜんダメということがよくあるのではないか。
タレントのゴマキではないが、ひとりが突出した地位や富を得てしまうと家族がダメになる。
しかし、全体としてみたら禍福のバランスが取れている、ということである。
親がずば抜けた成功をおさめると、元東大教授の某氏のように子どもが自殺したりしてしまう。
家族、財産、地位に恵まれた中年さんは贅沢にもエロスと分別の相克に悩むらしい。
これもまた「中年クライシス」なのだろう。

「中年の「分別」という言葉は、ともに「わける」ことを
意味する分と別という字を組み合わせてつくってある。
分別とエロスは敵対関係にある。
分別の強すぎる人は、エロスをおさえこもうとする
(もっとも、そんなことは不可能であることは、後に述べる)。
エロスの強すぎる人は、分別がなくなってしまう。
青年期ならともかく、中年になると、
いかにして自分を超えるものとしてエロスを体験しつつ、
自分という分別をなくしてしまわずにいるか、
という課題に取り組むことになる」(P90)


そうであるならば、会社のお偉いさんが盗撮で捕まったり、
水商売の女に夢中になって会社の金を使い込んだりするのは、
エロスが分別に勝(まさ)ってしまったということなのか。
地位も財産も家族も放り捨ててひとりの女に熱中するとか体験してみたいけれども、
そもそも捨てるべきものがない中年だから、そんな男には女も寄って来はしないだろう。
ああ、捨てるものがほしい。「中年クライシス」を経験してみたい。
そんなことを思ったのであります。

COMMENT

- URL @
08/22 20:31
. Yonda?さん こんばんは。
「たい焼きくんの小さな世界」のみほです。

おお、河合さんのお話!
せっかくですのでコメントさせて頂きます。

「贅沢病」「あまり共感できない」。
っていうところ、分かります!
「上流階級の高尚な悩み。」
と思うと、つい、「鼻につくなぁ。」とか思います。
私の場合、やっかみが半分です。
まぁ、不足は不幸そうに見えて、未来への希求や選択肢が様々な方向に開けていますが、
満足は幸福そうに見えて、道が行き止まったような感覚があるのかもしれませんね。
アノミー状態とか言いますし。

「本当の私」のお話。
私は河合先生が例に出されている、「旅人と、死体を取りあう2匹の鬼」の話が好きです。
自分が何者か分からなくなった旅人に、最後にお坊さんが言うのですよね。
「本当の私なんてない。」というようなことを。
自己の探求は、もちろん意義深いものなんでしょうけど、
終生「本当の私」問題に対して無頓着でいられたほうが幸せそうですね。

「ふたつよいことさてないものよ」。
好きな言葉です。
ハッピーなときも、そうでないときも、心のバランスを整えてくれる言葉ですね。

布置のお話も好きです。
面白いですよね。
問題児が、実のところトリックスターだったりして。
実際に問題の渦中にいたら、そんな物の見方をする余裕はないでしょうけどね。

分別とエロスのお話。

少なくともアニマorアニムスに夢中になる気持ちは、分かる気がします。
やはり男の人の中には女の人が住んでいるように見えますし、
女の人の中には男の人がいますから。
その片割れに出会った(と思い込んだ)ら、たまらなく嬉しいだろうと思います。
取り憑かれたら、崩壊の一途ですね。
でも、きっと楽しいでしょうね。
「誰かを苦しめてる」って意識がないまま、好きなことにのめり込めたら。
とはいえ、ファム・ファタル抜きに語れない芸術家の方もいらっしゃるし、
何が低俗で、何が高次なのか、他人が安易に判断をくだせないようにも思います。
もちろん、犯罪は犯罪ですけどね。

すいません。ついつい長々としたコメントになってしまいました。
ご迷惑になっていませんように!!
とだけ必死に祈っております。

それでは。
Yonda? URL @
08/23 21:49
みほさんへ. 

むかしブログに変なコメントしちゃって、ごめんなさいね。
ああ、あのとき貴女(あなた←おっさんくせえ)がどういう気持だったのだろう、
なんて考えて反省しちゃいました。
いえ、猛省しました。

宇多田ママの藤圭子さんが、自殺しましたが、
河合隼雄先生から教わったのは、ああいう人生だって構わないということです。
本人も周囲も非常にお苦しみになったでしょうが、
あれは藤圭子さんにしかできない、たったひとりの「わたし」だけの人生です。
「わたし」を突き詰めていると思います。
若いころの藤圭子さんをYouTubeで拝見して本当にいいと思いました。
暗い美しさが本当にいい。
お母さまが瞽女(ごぜ)でいらしたのも宿命を感じさせて身震いしました。
虐げられたものにしか歌えない情念に胸を打たれました。
ひとつの時代が終わったんでしょうね。
ネクラ(ネガティブ)は死ななければならない。

こちらのあいまいな記憶ですが、河合隼雄先生が、
アニマやアニムスという用語を使っていたのは最初だけのような気がします。
きっとそんな新来のカタカナでは説明がつかない強いものが人間の心の底、
無意識(宿業)にはあるのを感じたのでしょう。

河合先生が晩年よく言っていた「たましい」と言うのは、
どうやら死後も残るようなものという意味のようですから、
それは仏教で言えば宿業なのだと思います。

晩年の河合隼雄先生は「自己実現」という言葉を使わなくなりましたが、
きっと自殺や犯罪をするような「自己実現」もあるのではないか、と思っていたような気がします。
著書には本当のことを書かないとおっしゃっていた河合先生のことですから、
本心は絶対にわかりませんけれど。

今日、思ったことをだらだら書いてしまいました。
返事にはなっていないですね。ぽよーん♪
- URL @
08/24 01:43
. お返事いただきありがとうございます。
返事になってない→そんなことないです!そもそも私のコメントが変な感じでした。
今は私が反省&撃沈中です。
自分が書いた手紙類は、たいがい読み返すと、
「ひぇー!なかったことにしてー!」って叫びたくなります。

藤圭子さん。
今まで私、ヒカルちゃんのお母さんで歌手、ってことくらいしか知りませんでした。
朝、さらっと見ただけですけど、若い頃の藤圭子さん、
とても瞳がきれいな方でしたね。
私をつきつめる生き方。
苛烈ですね。
自分がしていないから、尊敬しますし憧れます。
ネクラは死ななければならないですか。
極端にネアカばっかりの世界。
うーん、生き辛いですね。

元型のお話、最初だけだったんですか。
順番をバラバラに全集を読んでいったので、分かっていませんでした。
まあ、河合さんというよりユング心理学の基本用語ってだけですもんね…。
お恥ずかしや!!

「たましい」
仏教のことも全然分かっておりませんし、
もう河合さんのことももう一度勉強しなおさなきゃ!です~。
ただ「たましい」があって、皆あっちの世界で待っててくれると信じないと、
やっていけないなー。とは思います。
あっちの世界の皆さまへの、土産話がたくさんほしい。
嬉しいことも、悲しいことも、綺麗なものも、汚い物も、沢山見ておきたい。

と、平穏な今は思いますが、
ヒカルちゃんの立場だったらそんな呑気なこと言えませんね。

「著書には本当のことを書かない」なんておっしゃっていたんですね。
そうかー、そりゃそうですね、危険ですものね。

聞きたいことが、永遠に聞けなくなるのは、別れの淋しいところですね。
生きてるうちに質問したって、答えてもらえないのかもしれないし、
しょうがないことですけど。

ではでは、
ありがとうございました!!



Yonda? URL @
08/24 22:29
みほさんへ. 

いま藤圭子の歌をYouTubeで聞きながら、
日本酒をけっこうぐでんぐでんにのんでおります、えへっ♪

言われて答えて気づくことってあるんですね。
みほさんからコメントをいただいて、
こりゃあ答えられませんよと思ってから、
無理やり言葉にして気づいたことがあります。
それが意外に想像以上に貴重でした。
他人のおかげで自分のなかから思いがけぬものが
出てくることがあるんですね。

> あっちの世界の皆さまへの、土産話がたくさんほしい。
> 嬉しいことも、悲しいことも、綺麗なものも、汚い物も、沢山見ておきたい。

あらゆる不遇不幸を光らせる魔法の言葉だと思います。
酔っぱらったいきおいで言ってしまうと、
ありきたりな人生でいいんでしょうか?
それでいいんでしょうか?
常識的に好いて嫌って「わたし」を見ないで、それでいいのか?
いえ、いいんですよ。人生、そんなもんでしょうから。

藤圭子はいいよな~。

「元型」とか懐かしい言葉ですよね。
戦後、新しいカタカナを日本に紹介したことで売れた知識人は多くおられます。
脳科学者(?)茂木さんのクオリアは典型的でしょう。
河合さんは、それではいけないと思ったのではないでしょうか。
いま苦しんでいる人に、それはアニマだから、アニムスだから、
元型だからと言っても意味がありませんもの。

とはいえ、ユングを自分の言葉で語っちゃうと怪しくなるんですね。
そこが無学なわたしにはかえって魅力的なのですが。

まあネット交流はこのへんで。
はじめにわたしがしたんですよね。
ごめんなさい。








 

TRACKBACK http://yondance.blog25.fc2.com/tb.php/3343-9b40be53