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「物語とふしぎ」

「物語とふしぎ」(河合隼雄/岩波書店)

→考えてみたら、我われはふしぎに取り囲まれていると思えなくもない。
まず「わたし」という存在がふしぎである。
どうしていまの名前、性別、国籍、貧富として生まれてきたのかふしぎとしか言いようがない。
家族もふしぎではないか。
いちおう夫婦のみはそれぞれが選択したと言うこともできなくはないが(しかしこれもふしぎ)、
それ以外の一切の兄弟姉妹、親戚等、家族は運命的と言うほかないふしぎがある。
人はなぜ死ぬのか。死んだらどうなるかというのもふしぎである。
たとえば以上のようなふしぎをおさめるのが物語であると河合隼雄は言うのだ。

小さな子どもと母親の会話を河合隼雄は紹介する。
子ども「お母さん、なぜせみはミンミン鳴いてばかりいるの?」
母親「なぜ鳴いているんでしょうね」
子ども「お母さん、お母さんと言って、せみが鳴いているんだね」
子どもは自分の答えに納得してこれ以上「なぜ?」と聞いてこなくなったという。
おそらくカウンセリングの現場では、この子どもがクライエントで、
「なぜ?」に「なぜ」と聞き返すのが臨床心理士なのだろう。

クライエント「なぜわたしは不幸なんでしょう?」
カウンセラー「なぜなんでしょうね」
クライエント「(自分の物語)」
   ☆
クライエント「子どもが問題児で困っています。なぜうちの子だけ?」
カウンセラー「なぜなんでしょうね」
クライエント「(自分の物語)」
   ☆
クライエント「死ぬのが怖いんです。なぜ人は死ぬのでしょうか?」
カウンセラー「なぜなんでしょうね」
クライエント「(自分の物語)」

物語は「そのときに、その人にとって納得がいく」答えだと河合隼雄は言う。
ならば、みんなおなじ答えでなくてもいいのだろう。
しかし、我われはなかなか自分の物語(答え)を創りだすことができない。
本書で著者は児童文学の名作を例に出して「物語とふしぎ」について語る。
結論は冒頭に書いてあってふしぎ(=なぜ?)が物語を生むのである。
そうだとしたら、まずいろいろなふしぎに気がつくことから物語が生まれるのかもしれない。
ふしぎとは常識的な考え方を疑ってみることで、ふしぎであると認識される。
もしかしたら世界はいま見えているような世界ではないのかもしれない。
もっともっとふしぎがあると考えてみたら少しは豊かな生き方ができるのではないか。
「ふしぎの国のアリス」を例に出して河合隼雄は時間と空間のふしぎについて述べる。

「しかし、われわれは実際、時間も空間もまったく一様な世界に生きているのだろうか。
同じ一時間でも、長く感じるときと短く感じるときがある。
同じ距離も遠かったり近かったりする。
人間の生きている時間と空間はそんなに一様ではない。
そのことを忘れてしまうと、人間は時計や巻尺に縛られるような、
面白みのない生き方をすることになるのではなかろうか。
アリスの行った「ふしぎの国」から、こちらの方を見返すと、
自分の住んでいる世界のほんとうの姿がよりよく見えると思われる。
アリスの体験は「ふしぎ」かも知れないが、
空間も時間も一様な世界があれば、それこそ変なものではなかろうか」(P140)


時間と空間が一様ではない「ふしぎの国」とは、たとえば死後の浄土がそうである。
人間の目には見えないが妖精の国があるとすれば、これも「ふしぎな国」であろう。
もし妖精がいるのだとしたら、いろいろなふしぎ(なぜ?)に説明がつくのではないか。
妖精が見えたら「そのときに、その人にとって納得がいく」答えが得られやすくならないか。
それは豊かな生き方とも言えるのではないか。偶然は妖精の仕業かもしれない。

「たとえば、中年の女性が「不定愁訴」と呼ばれる症状をもって相談に来られる。
医学的には原因は見つからないのだが、
体のあちらが痛くなったり、こちらが痛くなったりして何もできない。
現代の医学では原因が見つからないと、すぐ「心因」などと言われ、
まるで「心がけ」が悪いように言われたりするが、
これはその家に住む妖精にいたずらされているからだ、
などと思ってみた方が事態がよくわかるのではないだろうか」(P170)


「あるいはふしぎな偶然によって大成功したり、大失敗したりすることがある。
そのときに自分は大したものだと威張ったり、身の不幸を嘆いたりするよりは、
そのことにはたらいている超自然的な意図や意志について考えてみる方が、
その後の役に立つのではなかろうか」(P171)


もし大成功や大失敗が自分の意志と努力の結果ではなく妖精の仕業だとしたら、
大成功をしても傲慢にならないし、大失敗をしても過度な自己卑下から逃れられる。
いや、妖精なんかいるはずがないとお怒りになる方もおられるだろう。
物事の現象は、すべて人間の意志や努力の結果なのである。
バカを言っちゃいかんよ。人間の意志や努力のパワーは無限大だ。
願うだけではいけないが、願って努力したら、人間に不可能なことはない。
不可能なのは方法がよくないのだ。
アメリカで発明された科学的な自己啓発法を用いれば人生は思い通りになる。
しかし、本当にそうだろうか。ままならぬふしぎがあるのではないか。
たとえば「時」のふしぎはどうだろう。「時」を人間の意志と努力で動かせるか。
「時」は妖精が運んでくるようなふしぎなものとは思えないか。

「われわれ現代人は自分の意志と努力によって、
自分の人生をつくりあげていくと思っている。
それが時に強くなりすぎると、何でもかんでも可能なように錯覚したりする。
しかし、ひとりの少女はどうしても女にならねばならないし、
その「時」をわれわれはとめることはできない。
大人になることは「少女の死」を意味する。
男であれ女であれ、成長に伴って何らかの死の体験は避けることができない。
何とかしてそれに抗してみても、「時の到来」は情け容赦をしない」(P224)


「時の到来」は人間にとって情け容赦なく残酷だが、
長年の臨床経験からそれはまた救いであると河合隼雄は主張するのである。
問題やトラブルが込み入った家族にも救いの「時」の訪れることがある。
「少女の死」は悲しいけれども「女への成長」は喜ばしいことだ。

「このような大切な「時」が、誰の人生にもある。
時にはそれが人生の方向を決定することにもなる。
そのような「時」はこちらが求めて得られるのではなく、
どこかからやってくる、という感じがすることもある。
ずっと待っていて、時が熟してくると、どこからかその「時」が到来する。
しかし、せっかくのその到来に気づかずにいたり、
受けとめる力がないときは、それは無意味に終わってしまう」(P215)


河合隼雄といえば、怪しげな共時性=シンクロニシティなる概念を
日本に紹介したことでも広く知られている。
ユングの提唱したシンクロニシティを河合ははじめ同時性と訳し、
次に共時性に変えたとファンであるわたしは記憶している。
本書で「述語論理」なるものが紹介されているが、
シンクロニシティはまさしく「述語論理」によっているのである。
「述語論理」は精神病患者の妄想を説明するものとして最初は注目された。
本書にならうならば、こういう論理展開を「述語論理」というらしい。
「私はマリアである」という妄想を持っている患者になぜかと質問する。
1.マリアさまは処女である。
2.私も処女である。
3.ゆえに私はマリアである。

自分で作ってみるとよくわかるだろうから、ひとつ考案してみる。
1.日蓮は法華経を熱愛した。
2.僕も法華経を熱愛する。
3.ゆえに僕は日蓮である。
うーん、下手くそでごめんなさい。じゃあ、ストーカーを「述語論理」で説明する。
1.彼女は歌舞伎が好きだ。
2.僕も歌舞伎が好きだ。
3.ゆえに彼女は僕を好きになるはずだ。好きにならないのはおかしい。
これは結構よくできた狂った「述語論理」ではないか。

要するに「述語論理」とはこういうことだ。
1.AはXである。
2.BはXである。
3.ゆえにA=Bである。
これは当てはまるときもなくはないだろうが、かならずしも正しい論理展開ではない。
さて、シンクロニシティはほぼ「述語論理」によっていると言ってもよいのではないか。
1.Aという現象がX時に起きる。
2.Bという現象がX時に起きる。
3.ゆえにAとBには深い意味がある。
シンクロニシティは「述語論理」に近い「怪しげな論理」である。
このまやかしの「怪しげな論理」にどう付き合えばいいか河合隼雄は説く。

「われわれはものごとを証明するときは正しい論理を使わねばならない。
しかし、ものごとを発見しようとするときは、
敢(あえ)てまやかしのなかにも入りこんでいく態度をもっていなくてはならない。
そんなとき怪しげな論理が発見の手助けをしてくれるのである。
もちろん、発見したことを他人に伝えるときは、
それにふさわしい表現法や論理を考え出さねばならないのだが」(P143)


ものごとを発見するときは、怪しげな論理がむしろ有効になるのであろう。
あえて間違えることで新発見をする。
我われの意識は間違えないよう間違えないよう努めている。
だとしたら、新発見は無意識にまかせてみたときに生じるのかもしれない。

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