「一遍上人と遊行寺」

「一遍上人と遊行寺」(日本仏教研究所編/日本仏教の心9/ぎょうせい)絶版

→本郷の古書店でこの本を見つけたときは、たいへんな掘り出し物と思ったものである。
昭和56年発行の箱入り大型本で定価5千円を千円で購入することができた。
いかにも希少本っぽいたたずまいがあった。
高額の理由はテープが付属していることで、消失していないのも嬉しかった。
テープは時衆(時宗)の行事を録音したもので、実際の念仏を耳にすることができた。
時衆では念仏を合唱のようにいろいろなメロディーやリズムで称名していることを知る。
何度も聞いて多様な念仏の発声方法を覚えてしまったものである。

さて、一遍の周辺人物でいちばん胡散(うさん)臭いのは他阿真教である。
他阿は他阿弥陀仏の略称で、真教は時衆の二祖となり教団を確立、拡大させた人物である。
このたび大して当てにはならない当方の悪人センサーが、
まことに失礼な話だが他阿真教に反応してピカピカ光ったのだ。
どうでもいいが、この悪人センサーは自分が悪人であることから発達したと思っている。
なにやら他阿真教に腹黒さを感じてしまったのである。
他阿真教は詳しいことはわかっていないが、元は浄土宗鎮西派に学んだ僧侶だったらしい。
40歳のときに38歳の一遍に弟子入りしている。
以降、51歳で一遍が死ぬまで遊行の旅に付き添ったとされる。
一遍に教団継続の遺志がなかったにもかかわらず、
他阿真教は一遍没後30年にわたり時衆の絶対権力者として君臨し、
教団拡大に成功している。晩年には貴人とも交流があったという。
67歳のとき遊行をやめ弟子に他阿号(遊行上人の地位)を譲渡し寺に居住、
83歳で没している。
一遍の異母弟の聖戒が「一遍聖絵」を完成させたのが1299年である。
まるで対抗するように1307年、
他阿真教は一遍の伝記に自分の伝記を付け加えた「遊行上人縁起絵」を作成させている。
これは一遍あるいは他阿真教の弟子が編集したことになっているが、
どう考えても他阿真教が自分を一遍同様に神格化するために作らせたものだろう。
時衆では一遍よりも二祖の他阿真教が偉いとされていた時期もあったようだ。
蓮如に先がけて手紙での布教をしたことでも知られている。

ことさら俗っぽい意地悪な見方をするならば、
無名の田舎坊主に過ぎなかった他阿真教は一遍を踏み台にして成り上がった、とも言えよう。
一遍の異母弟の聖戒とは不仲とまではいかないけれど派閥が違っていたようだ。
他阿真教は少なくとも聖戒よりも自分を重んじるタイプであったふしがうかがえる。
しかし、他阿真教をたとえば蓮如のような腹黒い悪人と断定したいわけでもない。
なにしろ日本で最初に一遍のすごさを認め弟子入りした人物なのである。
人を見る目があったことだけは疑いえない事実であろう。
推測だが、他阿真教は一遍の長所も欠点もわかったのではないか。
純粋な信心から捨て身で念仏札を配る一遍に感動はしたが、
そのやり方ではうまくいかないことも同時に他阿真教は見破ったのではないか。
他阿真教はよくも悪くも、世渡り上手な面があったのではないかと思われる。
おそらく他阿真教は一遍の弟子であったと同時によき参謀役であり懐刀だったのだろう。
ひとたび他阿真教が一遍の右腕になってから、時衆の飛躍ぶりは目覚ましい。
熱狂的な一遍だけではうまくいかないところがあったのだろう。
一遍と他阿真教がセットになってはじめてうまくいく。
だれかがカリスマになるためには、汚れ役を引き受けるものが必要なのではないか。
一遍時衆集団が無一文で無鉄砲な全国遊行をできた背景には、
他阿真教の経済的な補佐が不可欠だったのだと思う。
一遍が断った布施を他阿真教があとでこっそりもらっていたこともあったのではないか。
踊り念仏プロデュースは、他阿真教のスポンサーとの交渉があってはじめて成立した。
もしそうであったとしたら一遍のみならず他阿真教も大した人物である。
一遍を男にした陰の立役者が他阿真教だとしたら、一遍没後の出世は当然とも言えよう。

それにしても一遍と他阿真教、このふたりはどれほど強い因縁で結ばれていたのだろう。
どんなにすばらしい人でも、だれかによさを認められなければそれで終わりなのだ。
現実として一遍は3年ものあいだ、だれからも評価されずにひとりで旅をしていた。
言葉は悪いが、きちがいの乞食坊主が変な札を配っていやがるとバカにされていたのだろう。
だれも一遍のすすめる念仏のすばらしさを理解できなかった。
そこに他阿真教が現われて、この人のここがすばらしい、この人は偉大だと弟子入りしたのだ。
水戸黄門とてひとりだったら、もうろくした老いぼれに過ぎないのである。
心底から当人を尊敬した弟子や子分が「ひかえよ」とやらないと世間には通じない。
世間というものは、だれかから認められている人しかなかなか評価しない。
このため、一介の乞食坊主に過ぎなかった一遍に弟子入りした他阿真教が偉いのである。
以降、世の人は他阿真教から一遍のどこがすごいかを教わることになる。
一遍自身も自分の布教に以前よりも自信を持つことができるようになったことだろう。
わたしがいま「一遍上人語録」を夢中になって読むことができるのも、
鎌倉時代に他阿真教が最初に一遍という人に参った、まさにそのおかげなのである。
そうだとしたら、たしかに一遍の異母弟の聖戒よりも他阿真教は偉いことになろう。

他阿真教はとにかく権力者と渡り合うのがうまかったようである。
一遍の存命時は遠慮していたであろう俗物根性を没後は惜しげなく発揮している。
当時勢力拡大していた武士階級と他阿真教はたくみに手をつなぐ。
武士というのは人を殺してなんぼの世界である。
たくさん人を殺したものほど出世できるような環境で生きているのが武士と言えよう。
しかし、いくら武士とはいっても、人を殺すのは後生が悪いのではないか、
という恐れがあったようだ。そこに他阿真教はうまくつけこむのである。
武士のみなさん、大丈夫。人を殺してもうちの念仏を称えれば死後も安心、バッチグー。
この問題に関係して他阿真教が偉い武士に書いた手紙が本書に掲載されている。
この本の執筆者は全員時宗(時衆)関係者であるのに、
こんなあからさまに身内の恥をさらしてしまっていいのだろうかと泡を食った。
どこか腹黒い浄土真宗に対してマイナー教団ならではのよさであろう。
以下は他阿真教が、殺人の罪悪感に脅えるスポンサーの武士に送った手紙からの抜粋。
内容はしつこいようだが、人を殺してもうちの念仏を称えれば大丈夫、である。

「或は軍人にのぞみて怨敵とたたかはんときは、
かならず敵をほろぼさんとおもふこころ強勢なるべし。
これはみなたちまち悪道に堕すべき業因なり。
しかりといへども信心念仏の行者は、口に名号をとなへて命終すれば、
称名の声にこのつみを滅ぼして必ず往生を遂べし。
命をうしなはんほどなるたたかひのうちに、念仏せんほどのものは
比類なき行者なるゆへに、さだむで摂取の益に預るべし」(P58)


まあ、なんというか、その、ひどい手紙だよなァ。
なんでも南北朝戦乱の時代には、いつ死んでも地獄に堕ちないように
「陣中時衆」とやらをともなっていた武将もいたそうである。
言ってしまえば、時衆の連中は、死後の恐怖を商売にしたのである。
もっとも従軍坊主本人が強く死後の極楽往生を信じていることが必須条件だったであろう。
時衆の寺で主君に殉死するため切腹した武士もいたとのことだから、
まさか殺人をOKと宣言してしまった時衆が自殺(切腹)ごときを罪悪とはしないだろう。
利権のうまみがたっぷりある時衆トップの座は早くから権力闘争が激しかったようだ。
他阿真教は二祖で、三代目は智得という坊主らしいのだが、さっそく跡目争いが起きている。
どれだけ時衆トップの座が当時おいしかったかのいい証拠であろう。
うまく北条高時の支持をとりつけた坊さんが智得をほとんどいじめ殺したようだ。
時衆正史ではこの坊さんが極悪人ということになっているが、
宗門外の我われの目から見たら、まあどっちもどっちだろうと言うほかあるまい。

遊行による賦算(ふさん=念仏札を配る)も時代を経るごとに変わっていったという。
どんどん権力者とズブズブの関係になっていったらしい。
権力者としては死後の不安がなくなり、時衆としては地位向上、商売繁盛だから、
共存共栄と言ってしまえばそれまでだが、それは一遍のやり方ではないのではないか。
戦国時代には時衆のトップともなれば天皇や織田信長とも面会できたらしい。
それどころか報酬をもらえるくらいに時衆の連中は偉くなっていたそうだ。
もとより、遊行も一遍のような食うや食わずの捨て身の旅とは程遠い。
各地の道場から道場へおもむく安全な大名行列のような遊行に変化していた。
江戸時代には行く先々で時衆トップは豪華な接待を受け、
貢物をもらってから場所を移動したという。
他宗派の信徒の「あれは開基一遍の遊行とぜんぜん違うじゃないか」(大意)
という記録も残存しているとのことである。
それにしても宗門の過去の恥(でしょう?)をこうして自分たちから率先して
公開してしまう時衆の正直ぶりには感心する。ちょっと帰依したくならないでもない。
ちなみに浄土真宗や日蓮宗ではNGの般若心経も時衆はOKである。
書き忘れていたが、江戸時代から時衆は時宗と呼ばれるようになったとのこと。
いまの時宗はまさかそんなことは言わないだろうが、
かつては殺人OK、自殺OK、贅沢OK、なんだってOKだった時衆はよろしい。
実のところ、わたしは2年まえ現在の時宗トップの真円さんから賦算を受けている。
いまもそのときいただいた念仏札はたいせつに財布にしまってある。
金運はちっとも上がらないが、まあ念仏信心はそういうものではないのだろう。
(当方は時宗の檀家でもなんでもなく、区分されるならばいわゆる無宗教ですよ)

*遊行寺を参詣したときの記事↓
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-2649.html

COMMENT

Bob URL @
09/22 16:01
中古本. 一遍上人のことがとても詳しく書かれていて、
他の頁も汲まなく読ませていただいています。
親鸞から一遍へ~遍歴の私です・

ところで、この「一遍上人と遊行寺」を、
掘り出し物と云われていますが、
内容については触れられていないので・・
ちょっと質問です。

アマゾンの中古本で買うと5000円也。
この本の内容は良いのでしょうか?
感想が知りたい。
「自分で読んで判断しな!」
そんなこと言わずに教えてください。
Yonda? URL @
09/22 19:00
Bobさんへ. 

わたしだったら5千円なら買わないと思います。
価値って人それぞれなんですよ。
もしBobさんが高給取りや資産家だったら、
5千円ははした金だと思います。
女子高生だったら5千円の本はお小遣いじゃ買えないでしょ?
ある程度の収入があるなら5千円でも安いかと。
テープ。テープがいいんですよ。
称名(融通)念仏の実際がわかります。
いまカセットテープを再生するラジカセとか、
めったにないかもしれませんが。

そこまでケチケチ内容にこだわるようでしたら、
買わないほうがよろしいかと存じます。
わたしだったら5千円では買いません。
まあ、お好きなようになさってください。
Bob URL @
09/22 21:32
. へ~、
意外とむかつく話し方するんや。
感想を聞いただけでそこまで抜かすんか!
オノレ!!
ケチケチ、買わないほうが良い、
余計なお世話、お前のどくしょかんそうをきいただけ
きっと、理屈だけの引きこもりの持てない間抜け顔。
地獄へ落ちろ!!!!




ダチより URL @
09/22 22:25
. 本の感想が聞きたい人に、
ケチケチ呼ばわり。
ほ~、
人それぞれの価値観を持ち出すお前は、
「そんなにエラいんかい、
  聞いてんのや、お前はそんなにエラインか」

まあ、そんな柄の悪いことは言いませんが、
詫びくらい言ったほうが、
君のためですよ。








 

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