「わが屍は野に捨てよ」

「わが屍は野に捨てよ 一遍遊行」(佐江衆一/新潮文庫)絶版

→一遍をモデルにした時代小説。
一般読者はなまじ学者の本よりも、こういう娯楽小説から入ったほうがいいのかもしれない。
著者は実によく勉強しておられるので、いろいろ参考になった。
学者も逃げる「六十万人頌」の解釈を見事に我流でなさっているのにはうなった。
もっとも感心した指摘は、一遍が遅咲きの偉人だったということだ。
これは一遍の身になって小説を書いた男にしかわからないことかもしれない。
30代後半の一遍はひとりで無一文の旅をしていたのだ。

「その後、日向国を通って北上し、大友氏の領地、豊後国に入った。
一遍に帰依する者はひとりとてなく、その苦しく辛い遊行も三年目の秋になっていた。
一遍、数えて三十九歳である」(P177)


大志を抱いているにもかかわらず、
39歳にもなってまったく世から認められぬ男の悲哀を著者は寄り添うように描写する。
さすが芥川賞に5回も落選した著者ならではの感受性と言えよう。
このために最初の弟子志願者および帰依者との対面が感動的になることも、
娯楽小説の道を進むことになった著者はよく知っている。
わからなかったのは、一遍がやたら性欲の強い人物として描かれていることだ。
これは濡れ場を好む層を考えての読者サービスなのだろうか。
それとも著者の自己イメージを投影しているのか。
あるいは事実で、禁欲社会にいるとかえって性欲を強く意識するのだろうか。

著者と意見の食い違うところは一遍の自殺観である。
著者は一遍は自殺を禁じていたという見方を持っている。

「みずから「死」を選ぶのは自力であるから、許されない」(P245)

浄土教の絶対他力信仰によるならば、
死に様もまた過去世で決められていると考えるはずだが。
「一遍聖絵」を読んでなお、
一遍は自殺批判者だったと曲解できる作者の想像力にはむろん敬意を表する。
この小説は読者を選ぶ純文学ではなく、いわゆる大衆小説だから、
「自殺はいけない」という多数派の倫理規範におもねって、
あえて佐江衆一氏は事実を改変してこのような娯楽作品を生み出したのかもしれない。
小説はつまらない研究などではないのだから、
読者が楽しめるのならばなにをしてもいいとわたしは思う。
勉強になるのみならず、たいへんよくできた娯楽小説でした。

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