「花に問え」

「花に問え」(瀬戸内寂聴/中公文庫)

→瀬戸内寂聴さんの小説を読むのは初めてだが、こういう小説を書く人だったのか。
小説は異性の描写を見ると、作者の世界がよくわかる。
どんな天才作家でもさすがに異性の本音はわからないのではないかと思う。
だとしたら、もうそこは実体験や妄想をフル活用して創作するしかない。
このため、異性の描写こそ作者の夢のようなものがもっとも出てしまうのである。
「こうであってほしい」という夢である。
こういう事情で男は女の小説を読んで「女はバカだ」なんて不遜なことを考えニヤニヤし、
女は女で「先生の近作、とてもおもしろかったです」なんて口では言いながら、
裏では「フン、男なんてどいつもこいつも甘いもんね」などとアッカンベーするのである。
いやいや、女の本音はもちろんわからないけれどもさ。

谷崎潤一郎賞を受賞した本作は、かなり意図して純文学風というか、
学術論文風というか、まあお堅く書かれていて、きっといつもの作風ではないのだろう。
京都の旅館の女将が出家するまでの物語だ。
ここに大きく一遍が関係してくるため、小説は随所で一遍論のようになる。
旅館は女将の母親が始めたものだが、母は男妾(ヒモ)として若い売れない画家を飼っていた。
母の死後、主人公はこの画家と関係を持ち、ガンで早世するこのヒモ男を看取る。
この生活力のない、だがしかしイケメンでインテリ風な男が一遍の大ファンだったという。
親子どんぶり(母娘連続姦淫)をニヒルにもやりとげる芸術家肌のヤワ男を
果たして読者が好きになれるかが第一の勝負だが、
おそらく女性はこういうちょいワルでどこか影のある男を一般的に好むのではないか。
さて現在進行形の物語は、この女将が車で旅行中、
偶然にお遍路をしている青年僧侶を拾う。この青年が一遍の遠い子孫だと言うのだ。
小説は女将の身辺告白および回想、死んだヒモの一遍ノート、
インドへ行った青年からの手紙と3つの視点で進んでいく。
この三様のお話における共通点が一遍で、
物語の進行とともに鎌倉時代の一遍のすがたが明らかになってくるという構図だ。

ときおり話が専門的になるが、寂聴さんの筋運びは天才的にうまいので読者を飽きさせない。
わたしもインドを3ヶ月ふらふら徘徊したことがあったので、
小説の世界に入っていくのが容易でとても楽しむことができた。
インド最南端のコモリン岬が重要な場所になってくる。
結末近く、恋人を事故で亡くした青年僧侶は、ここで現代の踊り念仏を見た思いがする。
ヒッピー風の白人旅行者が月夜、いきなり音楽を演奏して踊り始めたという。
その場にいたものは日本人青年もふくめ全員その踊りに入っていった。
その踊りには人種の差や国籍の相違などを感じさせない熱狂的陶酔があったとのこと。
寂聴さんがこのシーンをいちばん書きたくて「花に問え」を執筆したのだと感じ、
作者の熱い思いにこちらも落涙したものである。

「花に問え」で展開された寂聴さんの一遍論考は、
どの学者のものよりも鎌倉時代の捨聖(すてひじり)をよくとらえているような気がした。
寂聴さんは実際に家や子どもを捨てている(らしい)から、
そこらの学者連中とは凄味がまったく違うのである。
一部とても参考になったところを自分の勉強のため抜粋させていただく。

「一遍だって、称名念仏だけをすすめていたけれど、
彼につき従って流浪する男女の群れを見たら、一遍に呪力がなかったら、
どうして彼等がああまで追随していくだろうかと思うのです。
すべて、あらゆる宗祖は革命家だと、あの晩あなたは断乎おっしゃいました。
(中略) あらゆる宗祖はたしかに革命家です。
既成の宗教や道徳や、法律までも破壊する力を、宗教は持っています。
どんな怪しい町の新興宗教にも、まだ若い純真な男女が必ず何十人か、
あるいは何百人かつき従っていくのも、善かれ悪しかれ、宗祖と名乗る男や女に、
ある種のカリスマ性があるからでしょう。
カリスマ性にはエロスが絶対必要です。エロスは放恣に放散するより、
禁欲することによって、純度と濃度が高まるのは多くの例を見ればうなずけます。
一遍の画像を見れば彼が如何に男らしい性的魅力に富んでいたかがわかります。
呪力はエロスの魅力かもしれません。
一遍の賦算の熱情は、世間の凡夫から見れば狂的にさえ見えます。
このチケットを受けとれば、必ず阿弥陀仏に救いとられて
極楽へ往生するなどといって、見知らぬ誰彼にもそのチケットを押しつけて
全国を遊行するなんて、正気の沙汰とも思えません」(P99)


「一遍の「南無阿弥陀仏」の六字念仏は、宇宙の生命への暗号であり、
もっと平たくいえば宇宙の生命と人間をつなぐ宇宙語である。
真言とか陀羅尼も宇宙語なのだ。それを訳したところで無意味である。
真言や陀羅尼や六字名号を称えているとその快いリズムに呼吸が
自然に整えられていき、肉体的にも快感がみなぎってくる。
宇宙の生命のリズムと人間の呼吸のリズムがぴったりと一つになって、
恍惚の三昧境に身も魂も引きこまれていくのである。
感覚的に快美でなければ、情緒的に甘美でなければ、人は宗教に憧れるものか。
悟りを開くとは、その一瞬に、身口意の何れでも表現出来ないエクスタシイの波に
心身が巻きこまれるものなのだろう。
宗教的天才だった各宗祖たちは、生きながらそれを体得する。
おれのような凡夫は到底そんなきらびやかなエクスタシイを
味わうことは許されないだろう。それでも、もしかしたら、死の瞬間、
あるいは死んで向こうへ渡ったその瞬間、それが訪れ、甘美な陶酔に
包みこまれるのではないかというかすかな期待を捨て去ることが出来ない」(P119)


「ところで、この踊りの陶酔の中で、
ぼくは一遍の踊る宗教の秘密がとけたようにおもったのでした。
何者にも束縛されないで無心に手足を振りはね踊ることは、
自分という肉体を解放しきることです。
セックスも何よりの自己解放の行為でしょが、
セックスには対象の感覚を計るという面倒さがあります。それに比べたら、
ああいう自然発生的な、きまりもない踊りはほんとうに自分を解放してくれます。
いつの間にか勝手に足がはね、手で宙をかいているのです。
歓喜踊躍というのは誇張ではありません」(P228)


だれよりも一遍を好きな自信はあったが、さすがに寂聴さんには負けたと思う。
理由は、男は女よりも男を好きになれないからである。
寂聴さんは一遍を女人として好きなのだから、この熱愛にはどうしてもかなわない。

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