「よその歌 わたしの唄」

7月19日、山田太一ドラマスペシャル「よその歌 わたしの唄」を視聴する。
正直、わけがわからないのである。なんじゃこりゃと思った。
失礼ながら山田太一先生、ボケちゃったかなと思ったり。
いや、脚本家の中島丈博氏によると
主役の渡瀬恒彦はセリフを大幅に無断で変えた前科があるそうで(「シナリオ無頼」)、
芸能界喧嘩最強と名高いツネさんがまたやらかしたのではと疑ったり。
根性が腐った悪口大好き人間のため、ひどい批評もあたまに浮かんだものだ。
「よその歌 わたしの唄」は定年退職後の大学教授とおなじく定年になった一流商社マンが、
意味不明の行動で若者を振り回す話と言えなくもないのである。
このドラマのテーマは「小人閑居して不善をなす」ではないか。
正しくは、「老人閑居して不善をなす」になるのだろう。
ありふれた社会批評だが、いま日本社会は大量の老人が若者のお荷物になっている。
多額の借金を残していわゆる「勝ち逃げ」をした老人たちが、
のみならず多数派をたのんでさらに若者をいたぶっているという現代社会の構図を、
カリカチュア(戯画、風刺)したくてこのドラマを書いたのか。
最後のシーンではみんな一緒に合唱するので、
大御所脚本家の先生には失礼極まりないけれど半笑いでいまさら歌声喫茶ですか?
なんてことも思ったような、いや、いくらわたしが無礼でもそこまで思うはずがないではないか。

ひねくれもののため、いつも山田太一ドラマ視聴後は
一切他人の感想を調べないで自分の思ったことを思ったままに書いている。
今回だけは例外でネット検索してみたが、それでもわからなかった。
ちょっと意識のレベルを下げてみるかと、二度目は酒を飲みながら視聴する。
このドラマは酒をのむシーンがなぜか異常なほど多いので、
酒ばかり進んで最後は意識もうろうとして山田太一の意図がわからないことに泣いた。
なにがしたいのかさっぱりわからなかったのである。
これは大人として感想を書くのはやめてスルーしようかと思った。
しかし、自分でもよくわからないが三度目まで観てしまう。
今度はひたすら脳内で活字化しようとスピードアップ(倍速)して観る。

三度目にしてようやく理解する。
ああ、山田太一はこのドラマで「わからない」ということを書きたかったのだ。
どういうことか。本当は人生、なにが起こるかなんて「わからない」わけでしょう。
他人のことなんてたとえ何十年一緒にいる夫婦でさえも「わからない」のが本当だ。
一方でテレビ局の偉い人たちはドラマをとにかくわかりやすくしたがる。
いまは知らないが、むかしは「高卒の主婦にもわかるように書け」と言われていたとか。
ちょっとでもわからない部分があると、成績のよいエリートは間違い探しがうまいから、
何度も何度もだれもがわかるようなシナリオにするためライターに書き直させる。
では、どういうものがわかりやすいかと言うと、
善悪と因果(原因と結果)がはっきりしているものだ。
たとえば善の十津川警部が努力して証拠を見つけ、それゆえに悪の犯人を捕まえる。
テレビは大衆娯楽だから、こういう話がわかりやすいと歓迎される一面がある。
しかし、そうではないドラマがあってもいいのではないか、とたぶん山田太一は考えた。

現代の社会風潮もそうではありませんか。
出版不況とは言われながら、なぜかくだらない自己啓発本だけは売れているらしい。
自己啓発本というのは要するにマニュアルで、こうすればこうなるという屁理屈である。
けれど、人生そんなもんじゃないでしょう。こうしたらこうなるなんて嘘八百。
常識的に考えたら人生でそんなことあるわけがないのに、なぜか自己啓発本は売れる。
対人関係だってそうで、こうしたらこうなるなんて、そんなバカなことはない。
だって、人それぞれなんだから、うまくいく共通の方法なんて絶対にないのね。
とことん他人ってやつはなにがなんだか「わからない」のが本当である。
他人どころか自分のことでさえ自分で「わからない」のが本当かもしれない。
自分の行為は一貫していると思うのは錯覚や思い込みで、
本当はわけもわからず、たとえるなら無意識に動かされているようなものだ。
無意識なんかもあるのかないのか「わからない」最たるものだけれど。

我われは実際のところ思ってもいないことを言ってしまったりする。
相手に言わされるのかもしれないし、やはり無意識かもしれないし、
そもそもなにかの行為に原因があるというのが正しいのかどうかも「わからない」ではないか。
自分でもわけがわからず泣いてしまったり笑ってしまったりするのが人間ではないか。
こう考えてきていま気づいたのだが、
「よその歌 わたしの唄」のクライマックスは視聴中3回とも、
みんな一緒でこれはないだろうとあたまではバカにしながら、
恥ずかしいけれど白状すると3回とも涙があふれてきたのである。
自分でも自分のことが本当に「わからない」ので困っている。
いな、自分のことさえ「わからない」のが本当かもしれない。
すべてのことを言葉で説明なんてできないのかもしれない。
それどころか「わからない」ことは救いかもしれない。
自分はこういう人間だなんて決めつけないほうがいいのかもしれない。
相手のこともこうだなんて思い込まないほうがいいのかもしれない。
もっと無意識にまかせて瞬間的な感情そのままに行動してもいいのかもしれない。
理念なんて信用して、理念なんかに縛られて、
それで自分はご立派な人間だなんて思っているのは、
もしかしたらなにもわかっていないのかもしれない。

泣きたかったら泣けばいいじゃないか。
怒りたかったら怒ってもいいときがあるだろう。
殴ったっていい。暴力絶対反対なんて人間をなにもわかっちゃいない。
殴ることで関係が深まることがないとは言えない。
整合性をつけようなんて考えなくてもいいのではないだろうか。
たとえば、国語の小説問題で、このとき主人公はなにを考えていましたか?
そういう問いに「本人もわからないのでは?」と答えてもいいのかもしれない。
いや、そちらのほうが正しいかどうかは「わからない」が、
少なくとも本当に近いのかもしれない。
わたしなんかは映像が苦手の活字人間だから、すぐに言葉の意味を求めてしまう。
こうしてこのドラマの意図を理解できたのも、
ドラマをあたまでシナリオ化したからである。
活字化すると「わからない」というセリフが頻出するのである。
きっとお年寄りはこのドラマを見てわけもわからず泣くのではないか。
言葉にはうまくできないけれども、なんかいいなという感覚を持つ。
そうそう、人生ってこんなもんだよねという感慨を抱く。
言ってみれば、無意識でわかってしまうのだろう。
言語化できない領域を揺さぶろうとする意図が作者にあったのではないか。

しかし、このシナリオを演じる役者さんは大変だったのではないか。
通常ドラマというものは現実をわかりやすく切り取って受け手に提示するものだ。
実際は本当のところはなにもかも「わからない」人生を生きているため、
どうしようもない根源的な不安を持つ大半の無宗教の人間は、
わかりやすいドラマを見て安心するという面があるのだろう。
俳優もこの人はどうしてこういうことを言うのか考えて演技するだろう。
ところが、その「どうして?」がこのドラマではさっぱりつかめないのである。
実際の人間はそうでしょうと作者に言われても、
それではそう演じましょうとこれまでの流儀をかんたんに崩せるものでもあるまい。
ドラマのなかのどの人物も、
なぜそんな行動をするのか理詰めで考えても理解できないのだから。

「わからない」のは恐怖であり救済である。
たまになんでこんな偉い人がと驚く人が盗撮で逮捕され実名報道されたりする。
この記事をここまでお読みになる山田太一ファンには理解していただけると
誤解を恐れずに書くが、盗撮程度で社会的に抹殺されるのはかわいそうではないか。
きっと本人だって自分がどうして盗撮なんかしたのか「わからない」のだから。
しかし、「わからない」は救済でもあるのだろう。
ずっと嫌いだと思っていた人と「わからない」ままに和解することもあるだろう。
あたまで考えていてはどうにもならないことも、
どうせ「わからない」のだからと開き直るとひょんな解決がもたらされるかもしれない。
「よその歌 わたしの唄」でもカラオケ嫌いの元大学教授と元バイオリニストが、
なんだかわけが「わからない」ままにまるで雪が春になってとけるように、
ラストであまり好きではなかったカラオケ歌謡曲を合唱している。
因果関係を考えると、え? え? どうして? としか言いようがないのだけれど、
(そんなに多いとは思えないが)ある層の視聴者は結末を自然に受容できたかもしれない。
我われは「わからない」ものを「わからない」まま接することができなくなっている。
「わからない」ものを徹底的にわかるように追求してきたのが現代人だ。
しかし、本当はなにも「わからない」のかもしれない。

どうなのだろうか。これも「わからない」のだが、
自称山田太一研究家のわたしが3回も視聴しないと「わからない」ドラマはいいのか。
一発でわかった視聴者もいるのだろうか。
とはいえ、「わからない」をわかるとはどういうことなのかいまいち「わからない」。
「わからない」セリフをドラマから拾ってみよう。
物語は暇を持て余す元大学教授の春川高史(渡瀬恒彦)が、
「ひとりカラオケ」に熱中するひとりが好きそうな孤独な人に声をかけていく。
「貴方の歌はいい」とほめるのである。
ひとり好きで合唱団を結成してコンクールに打って出るというのである。
設定からしてわけが「わからない」が、
観ていると本人も自分がなにをしたいのかわかっていないらしい。
ドラマ冒頭、脚本家は礼儀正しく折り目正しく、
視聴者に向かってこのドラマのテーマを主人公に言わせる。
「春川先生、本当はいったいなにを考えているんですか?」という会話の流れで。

高史「まあ、人生ってそんなもんだ。思い通りいかなくて幸せってこともある。
(……) 私にもわからないんだ。
 何年か経って初めて自分のやったことの意味に気がつくってこともある」


老妻の茜(いしだあゆみ)との会話。
茜は元一流バイオリニストでいまは自宅で子ども向けのバイオリン教室を開く。
クラッシック以外の曲は認めず歌謡曲など論外である。
皿を洗いながら歌をうたっている高史を茜はとがめる。

茜「よく歌なんてうたえる」
高史「無意識だよ」


歌唱コンクール参加メンバーのひとりが元一流商社マンの井形俊也(柄本明)である。
その妻が練習場にやってきて、太陽のような明るさで全員の気持をひとつにする。
この女性のおかげで場がなごみ、一同は初めて心を通わせあい合唱する。
ところが、すぐにこの女性がくも膜下出血で死んでしまうのだ。
ふつうのドラマなら絶対に事前に死亡フラグ(死への伏線)を立てるはずだが、
まったく予期せぬかたちでいきなり死んでしまうのである。
まあ、人生なんかそんなものなのだけれど、新人がやったらPに怒鳴られるかもしれない。
「だって現実はそうじゃないですか?」
「バカヤロウ。おまえの現実なんかより視聴者(本当は広告主)のほうがはるかに大切だ」
そういえば、山田太一さんの大好きなバカヤロウが一度もなかった。
カットされたところにあったのかもしれないけれど。

さて、いきなりメンバーが全員降りてしまうのだが、これも理由が「わからない」。
そのことにひどく高史は落ち込むのだが、その理由もわたしは「わからない」。
妻を亡くした俊也が常識はずれにも三泊も泊めてくれと高史に頼むのも「わからない」。
高史は「親友でもないだろう」と追い出そうとする。茜はなぜか俊也に同情的である。

茜「奥さんが亡くなったばっかりなのよ」
高史「そんなことはわかっている」
茜「寂しい悲しいがわからないの?」
高史「わかるさ」
茜「わからない。(貴方は)そういう人なのよ」


茜の提言で高史はひとりで寂しいという俊也の家に行ってやる。
ふたりとも酒が入っている。本当に酔っているのかどうかは「わからない」が、
高史は「あなたどころじゃない」と冷たい。
さらに「奥さんを亡くしたのは貴方であって私ではない」と本音を言い放つ。

高史「貴方は貴方のショック。私は私のショック。生きるしかない」
俊也「そんなことを言ったら付き合いもなにもありゃしないよ」
高史「そう。元々、人間なんてそんなもんです」
俊也「わかったようなことを」
(……)
高史「大体ね。寂しいだの悲しいだの言い過ぎだよ。
 ひとりカラオケなんて奥さんから逃げてたんじゃないか。
 せいせいした気持もむしろないわけじゃ」
俊也「死なれなきゃ――死なれなきゃ、わかるもんか(と高史に殴りかかる)」


たしかにそうで人は経験しないと「わからない」ことがある。
正直、未婚のわたしは高史と茜の会話が結局最後までどうにも理解できなかった。
他人の気持がわかるなんてことがあるのだろうか。
さて、殴り合いの喧嘩をした高史と俊也である。
その後すぐに仲直りしたのかふたりは昼から合唱練習場で缶ビールをのむ。
俊也は「奥さんとうまくいっていないでしょ」と高史に指摘する。

俊也「二日泊めてもらえばわかるよ」
高史「二日でなーにがわかる?」


山田太一さんはフルチンでテーマを隠さないところがある。
そりゃあ、テレビの視聴者なんか大半が○○だから仕方がないのだろうけれど。
「わかる」「わからない」ばかり繰り返しているのである。

俊也「女房が(生きて)いるのがどんなにいいかあんたにはわかってないんだ」

ごめんなさい。女房がいるとどんなにいいのか未婚のこちらも「わからない」。

高史「大勢の人がひとりがいいってどういうこと。
 それで社会が成り立つわけがない」


ふむふむ、「わからない」地点から山田太一さんはドラマを書くわけだ。
高史は「ひとりカラオケ合唱団」のメンバーだった奥村功之介(阿南健治)逢いに行く。
俊也の亡妻の追悼パーティーに参加してくれないかと頼むためである。
功之介は工事現場で働いている。ふたりは安酒場でコップ酒をのむ(また酒かよ!)。
いかにも低学歴と思しき功之介とインテリの高史はわかりあえるのか。

功之介「俺がやめたのは別に先生のせいじゃない。
 結局、人の歌を聞くのが嫌いなんだな。
 ひとりでいいんだよ。クレーンもひとり。カラオケもひとり。うちに帰ってもひとり」


「人の歌を聞くのが嫌い」ってガチだよな。わかるわかる。
わたしはカラオケも、自分がうたうのも、人の歌を聞くのも嫌いだから。
自己陶酔でうたっている人ってプロでも醜いと思うことがある。
このまえの寺山修司のイベントでは、某歌手の自分に酔った歌声に耳をふさぎたくなった。
しかし「おまえに関心がない」はめったなことでは言っちゃいけないことになっている。
「よその歌 わたしの唄」では高史が無礼な若者に言っていたけれど。
さて、功之介は女房に逃げられたという。
女房は若い男とくっついて子どもふたりを連れて沖縄に行ってしまったという。
ずっとチョンガー(独身)なのとバツイチの
いったいどちらが「寂しい悲しい」なのか「わからない」。

功之介「ひとりはいいね、フフ。うるせえガキはいないし、何時に帰ろうと文句はないし、
 ひとりで酒のんで、ひとりでメシ食って、ひとりでテレビ観て、
 ひとりでカラオケ行って、ひとりで齢とって、
 こうなりゃ、ひとりが好きになんなきゃ、やってらんねえだろ、フフ」
高史「――うん」
功之介「人の歌なんか聞いてらんねえよ」
高史「私、あんたの歌、ほめたよね」
功之介「ああ」
高史「忘れてないよね」
功之介「うん」
高史「あんたを本気でほめたよね」
功之介「教授」
高史「うん?」
功之介「それでなんか言ったつもりかよ」
高史「(苦笑)」
功之介「元教授」
高史「うん?」
功之介「わかんねえよ。なにが言いたいんだよ」
高史「わかれよ」
功之介「わかんねえよ」
高史「――」
功之介「はっきり言えよ。はっきり」
高史「――」
功之介「(厨房に)酒ふたつ」
   二人、どうしようもなく笑ってしまう。


山田太一ドラマは、ふたりシーンの味がいいのである。
三人でも四人でも五人でもなく、ふたりが一緒にいるシーンがいい。
個人的にはみんな一緒のシーンよりもよほどいいと思う。

さて、定年で暇の元一流商社エリートの俊也は茜とふたりで逢う。

茜「おかしくともいまさら別の人間になれない。なりたくないの。
 変な話だけど、死んだ父を裏切るような気もして」
俊也「わかります」
茜「――本当にわかる?」


暇な俊也は暗い雰囲気を持つ岡崎恒人(山崎樹範)に逢いに行く。
彼も「ひとりカラオケ合唱団」のメンバー。影が薄い青年である。
初見では、このシーンで存在に気づいたようなところがある。
俊也は明後日の発表パーティーに来てくれないかと頼む。
ところが恒人(つねと)は明後日のことなのに「たぶん」としか答えない。
俊也がいぶかると、いきなりわけを話すのである。
まったく伏線を張っていないのはこれまた意図的だろう。
ふたりは屋外で紙コップのコーヒーをのんでいる。ミルクも砂糖もふたつずつだ。

恒人「俺、こう見えても長くないんですよ」
俊也「――」
恒人「もうあちこち手の施しようがなくて。気休めにきつい点滴、繰り返して。
 こんな帽子かぶって。でももう点滴もやめたんです」
俊也「――」
恒人「これ以上、言いたくない」
俊也「――(凍りついている)」
恒人「いつドーンと来るかわからないんでたぶんと」
俊也「わかった。失礼した」
恒人「脅かすようなこと言いたくなかった」
俊也「そんなの言わなきゃわかんないよ」
恒人「友達と逢うと自分だけもう半分あの世にいるような気がして、
 情けなくて、ひとりでカラオケに」
俊也「そうか。そうか」
恒人「――」
俊也「――」
恒人「(ミルクの空き容器を手に取り)こういうの見ると懐かしくて、
 なんかこれ(マドラー)も、これ(コーヒーのふた)も、みんな、
 めったにない夕焼けみたいに名残(なごり)惜しくて、参りますよ」
俊也「重いもん抱えて穏やかで大したもんだ。
 そんなにさりげなくされちゃ、どこのだれがどんなんだか、わかんなくなるな」


たしかに言わなきゃ「わからない」。
最近、齢をとってようやくわかったのは幸福な人は本当に少ないということ。
高校生のカップルくらいじゃないかな。それだけに微笑ましいのだが(本当ですって)。
みんないろいろ抱えてるんだろうなと思う。
言わなきゃ「わからない」けれど、
言ったからといって通じるのどうかも「わからない」。
以下は元大学教授の高史と元バイオリニストの茜の一流エリート老夫婦の口喧嘩である。

高史「クラッシックのままでいいんだよ」
茜「勝手なこと言わないでよ」
高史「勝手?」
茜「勝手じゃないの。ひとりでそんなこと考えたって、こっちはわかんないでしょう。
 言わなきゃわかんないでしょう」
高史「いま言おうとしてた」
茜「嘘、嘘! 格好つけて、ブランデーのんで、ひとりでいい気になって」
高史「俺がいつ格好つけた?」
茜「エゴイスト! 貴方はエゴイスト!」
高史「そっちの人生、尊重するのがエゴイストか?」
茜「私の人生、尊重するなら私を置いていくなよ。
 ひとりで決めるなよ。こっちはわけわかんないじゃないの」
高史「――」
茜「――」


エゴイストっていまでは死語のようになっている気がする。
結局ラストはカラオケと歌謡曲が嫌いだった茜が自分をまげて、
みんなと一緒に(クラッシックとは異なり)低俗な歌謡曲を合唱するために、
ピアノ演奏を務めることになるのである。

このドラマをライブで観終わったときにまず思い出したのはネットで知った、
「一人でいると孤独感、二人でいると劣等感、三人でいると疎外感」という名言だ。
たぶんひとりでいる孤独感よりも、
みんなと一緒にいるときの孤独感のほうが強いような気もするが、
それはドラマでは書けないことで、たとえば小説に表現することなのだろう。
孤独感はかなりのケースで自殺願望とセットになると思うのだが、
戦中に芋を食って育った山田太一さんは自殺したい人の気持が「わからない」という。
もちろん、すぐに「わかります」を連発する人よりよほど誠実な「わからない」だ。
こうして文章を書きながらいろいろと考えてみたが、
結局のところ「よその歌 わたしの唄」はよく「わからない」というのが本音だ。
いちおうこちらもそれなりに誠実な「わからない」のつもりである。
いったいどうして「わからない」テレビドラマを3回も視聴して、
こうして長文の感想を書いてしまったのか、
まったく自分でも自分のことが「わからない」ので参る。参っちゃう。

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