幸福な人はいない

錯覚かもしれないけれど、長生きするとわかってくるのは、
実のところ幸福な人などこの世に存在しないのではないかということだ。
いくらテレビ、新聞、雑誌、フェイスブック(見たことがないけれど)
で幸福ぶっている人がいようが、
そういう人こそまさに不幸で、だから反面幸福ぶっているところがある。
他人に幸福だと見られたい願望は、自身の不幸から発生しているのではないかと思う。
本当に幸福なら、自分が幸福であることを見せびらかさなくてもいいのである。
むしろ露悪的な私小説作家のようにおのれの不遇、ダメ加減を強調するかもしれない。
たとえネットの「いいね!」なんてひとつももらわなくても人間は幸福になれるはずだ。
だって、結局100の「いいね!」よりも、自己満足のほうが重いわけだから。
100人の見せかけの友だちよりも、ひとりの友人のほうがありがたいのとおなじだ。
世間体や親戚受け、同窓会出席にはいいのだろうが、
朝から終電まで働きがっぽり税金を取られいつ死ぬかわからぬ銀行員のどこが幸福か。
そうだとしたら、たとえば銀行員の出世(さらなる多忙)を
妨害するような行為はもしかしたら善かもしれない。悪ではないのかもしれない。
とはいえ、やっぱり悪だとわかる程度の常識は持ち合わせているけれど。
自死遺族で犯罪加害者家族のタレントさんゴマキの評判はいまよくないらしいが、
ゲーム中毒(廃人)になっているいまが人生でいちばん幸福とは考えられないか。
2年前の被災者遺族の一部がパチンコ依存症になっているという話を某ブログで知ったが、
なにかの中毒にならなければ乗り越えられぬほどの不幸が人生にはあるのだろう。
幸福ぶることでさえあきらめてしまう不幸というものが、きっとあるのだ。
あるいは、そのとき人は本当に幸福になれるのかもしれない。
依存症、中毒はたぶん幸福だ。我を忘れられるからである。
不幸な我をだ。無我だ忘我だ。

COMMENT









 

TRACKBACK http://yondance.blog25.fc2.com/tb.php/3316-8db5efc0