他人に合わせる

他人(ひと)に合わせるという言葉の意味がいまごろようやくわかった。
「他人に合わせる」とは、自分を殺すということではないか。
みなさんはもうとっくにご存じでしょうが、ものすごく卑近な説明をすると、
「他人に合わせる」とは自分の嫌いなことをあえて選択することだと思う。
相手(周囲)の好きなことを尊重して自分の嫌いなことを率先して行なう。
そのうえで本当は嫌いなことを好きなようにふるまう。
これが「他人に合わせる」の意味ではないか。

自分を殺せ。嫌いなことをあえてやれ。それをまるで好きなようにふるまえ。
なぜ「他人に合わせる」といいのか。他人が不愉快にならないからである。
しかし、断じて相手にこちらの本心を悟られてはならない。
本当はしたくなかったとばれてはいけない。さらに、である。
ゆめゆめ「どうしたらいい?」などと質問してはいけないのだ。
なぜなら自分の希望を言うのは日本人の美徳に反するからだ。
他人にそんな野蛮なふるまいをさせてはならない。

相手(周囲)の希望を言外にお察しせよ。これが「他人に合わせる」ということだ。
我(自分)が強い人間ほど他人に合わせるのが難しく孤独になるのはどうしようもない。
というのも、繰り返しになるが「他人に合わせる」とは、自分を殺すことゆえ。
自分があまりに強すぎると殺すことはできないだろう。
人が偉くなりたがるのは、偉くなれば他人が自分に合わせてくれると思うからだろう。
しかし、おそらくそれは錯覚だ。
よしんば、偉くなっても我を通そうとすれば、かならずや周囲から足を引っ張られるはずだ。
「あの人は自分勝手」という評判が立ったら、世間ではおしまいである。
やはりなるべく自分を殺したほうが世間受けはいいのだろう。

自分を殺すことを仏教では無我という。
社交的な人間にあこがれるならば、無我無心を目標にしなければならない。
社交などどうでもよく、むしろ自分がないことに悩んでいる人は孤独になればいい。
己事究明(こじきゅうめい)をしたいのなら孤独にかぎる。
はて、なにゆえ仏教では己事究明と無我がどちらも理想になっているのか。
真理とは、そういうものなのだろう。真理は矛盾しているのだろう。
絶対的真理はおそらくないのだろう。理想は、自分を殺しながら、自分を生きる。
理想は現実にはならない(できない)から理想なのだと思う。
とはいえ、少数ながら自分をうまく殺しながら自分をうまく生きている偉人もいよう。

「生(いき)ながら死して、静(しずか)に来迎を待つべし」(一遍)

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