人生の選択基準

人生というものは選択の連続であるといえましょう。
就職や離職、結婚や離婚のみならず、毎日の小さな行為でさえ選択の結果であります。
いったい我われはどういう選択基準で行動を決めているのでしょうか。
1.損か得か?
2.苦か楽か?
3.いいか悪いか?
おおよそ、この3つが選択基準になっているのではないかと思います。

たとえば、就職(転職)の場合、こうなります。
1.給料はいくらか?(損得)
2.残業はどの程度か? 有給は取れるのか? ストレス具合は?(苦楽)
3.その会社は有名か? 大企業か、中小企業か?(善悪=世間体)

いま流行っているらしい婚活も同様のようです(女子目線)。
1.相手の年収はいくらか? 貯金はあるのか?(損得)
2.親と同居か? 家族におかしいのはいないか?(苦楽)
3.相手の顔・性格の善し悪しはどうか? 職業はなにか?(善悪=世間体)

ランチの飲食店を決めるのもおなじでしょうね。
1.安いか高いか?(損得)
2.行列するのか? 混み具合は? 待ち時間は?(苦楽)
3.その店の評判はどうか? ガイドブックに載っているか?(善悪=世間体)

世の中そんなものだろう、とみなさんはおっしゃるかもしれません。
さらにこうお怒りになるかもしれません。
なら、いったいほかにどのような選択基準があるというのだ?
損得(自我)、苦楽(自我)、善悪(世間体)を超える基準などあるのか?
「おもしろそうか/つまらなそうか」という選択基準があるではありませんか!
損得、苦楽、善悪(世間体)にとらわれず、おもしろそうだからやってみよう!
就職:給料は安いし、きつそうだし、人にいえない仕事でもおもしろそうだから。
結婚:相手はフリーターで借金があり、顔もよくなく友人には自慢できないけれども。
飲食店:ネットの評判が悪く、メニューもなくガラガラだけど、なぜか気になるから。

はい、わかります。なかなかこういう選択はできません。
どうしても「おもしろそうかどうか?」
よりも損得、苦楽、善悪(評判)のほうが選択基準として勝ってしまいます。
本当は長い目で見たら損得、苦楽、善悪はわからないのですが、
我われはどうしても「おもしろそうかどうか?」では決められません。

大企業に入社後うつ病になったり、あるいはリストラされることもある。
金持でイケメンの次男と結婚しても、相手が破産、病気発症で介護生活になることもある。
評判の高い有名レストランに行っても一見さんは後回しにされることもないとはいえない。
しかし、そうとわかっていても、どれほどあたまで理解していたとしても、
哀しいかな、我われは見かけの損得、苦楽、善悪からなかなか逃れることができません。
「おもしろそうかどうか?」で選択することがどうにもできない。

これはどうしてなのでしょうか?
たぶん我われは自分が「なにをおもしろいと思うか?」をよく知っていないからです。
自分を知らないから、世間のいう損得、苦楽、善悪に振り回されてしまう。
「おもしろいかどうか?」は多少飛躍すると「好きか嫌いか」ではないでしょうか?
損得よりも苦楽よりも善悪(世間体)よりも自分の「好き嫌い」にこだわれるか?
かんたんにはできないことだと思います。
まず己事究明(こじきゅうめい)――自分をよく知らなければなりません。
それから無我(むが)――我(損得、苦楽、善悪)をある程度無くす覚悟が必要です。

このため、恋愛はすばらしいのではないでしょうか?
損得、苦楽、善悪(世間体)を振り捨てて、相手のために尽くしたいと思う(無我)。
朴念仁の野暮天なのでよくわかりませんが、「愛されたい」は恋愛ではないような気がします。
もしかしたら究極の恋愛は片想いではないでしょうか?
さて、恋愛のみならず見返りを求めず対象をどれほど好きになれるか?
もし人が損得、苦楽、善悪(世間体)を超えられるとしたら、
それは「好き」しかないように思うのであります。
反対は比較的理解されやすいのではないでしょうか?
得だけれど嫌いだからやらない。楽そうだけどあれは嫌い。顔がよくてもあいつは嫌い。
いやいや、やはり得・楽・善(世間体)を選んでしまうのが我われかもしれません。

いったいどのくらい「好き=これを自分はおもしろいと思う」に忠実になれるか?
これがありきたりではない自分だけの人生を送るために重要な選択基準だと思います。
もっともよくよく知っておく必要があることは「好き嫌い」などにこだわっていると、
人生で大きな損失を出し、毎日苦しいことばかりで、評判も最悪になる可能性が高いです。
しかし、それでもそれはほかにないあなただけの人生であることでしょう。
さらにいえば、人生では損が得になること、苦が楽になること、悪が善になること、
以上の3つはまったく起こらないというわけでもないような気がなにやらします。
なぜなら、世間も自分も時間経過とともに変化していくからでしょう。
人間は相対的存在(絶対ではない)で世の中は無常であります。
このため損得、苦楽、善悪(評価)はがらりと変わることがなくはないのです。
もちろん、自分の「好き嫌い」も変わっていくことでしょう。

そうなるといったいなにを人生の選択基準にしたらいいのでしょうかね。
「わからない」というのが本当の答えなのかもしれません。
よしんば選択基準がさっぱり我われ人間には知りえないのだとしたら、
どうしたらいいのでしょうか?
まず、あいまいなまま自然に任すという方法があるでしょう。
しかし、ときに最終的な選択を迫られることがあります。
最終的選択とは「賭ける」ことに等しい。「賭ける」しかなくなる。
そのときなにに「賭ける」かです。損得、苦楽、善悪(世間体)、好き嫌い――。
賢明なみなさんはおわかりでしょうが、このとき正解はありません。
表現を換えますと、どの選択肢も正解ということになるでしょう。
どの選択肢を選んでも正解で、同時に不正解なのが人生の「賭け」であります。

とはいえ得・楽・善を選択するのは、あまり「賭け」にはなりません。
どうしてかというとみんな(多数派)がそちらを選ぶからです。
そうなると「賭ける」のが好きか嫌いかという、
「好き嫌い」の問題に結局のところ帰着してしまうのかもしれません。
怖いところは人生のいっときの選択が成功だったか失敗だったかは(かりにあるとして)、
最後まで(死ぬまで)人間にはわからないことです。
死んだあとに結論が出ることもありますから、こうなると本当にわかりません。
ならば、「人生はわからない」ことを心底わかるのが、本物の賢者ということでしょうか?

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