聞くことも創作

書くことや話すこと(物語!)がもっぱら創作だと一般的には思われているが、
聞くこともまた創作なのではないか。
そのことがよくわかるのは宗教書の「歎異抄」である。
あれは親鸞が話したことを弟子の唯円が聞いて記したものとされている。
親鸞の書く能力はそれほど高くはなかったとわたしは思う。
親鸞の話す能力がどれほどだったのかはわからない。
しかし、唯円の聞く能力の高さだけは「歎異抄」からよくわかるのである。

当たり前だが、話し言葉と書き言葉はかなり違う。
話し言葉はそれほど順序だっていなくてもいいのである。
話がポンポン飛んでも声色や身振りでカバーできるから聞き手はついていける。
ところが、書き言葉はいちおうの一貫性を求められる。
だから、話し言葉はそのまま書き言葉にはならないのである。
だれかが聞いて再構成しなければならない。
これが聞くことも創作という意味のひとつである。

それからうまく聞いてもらえると話しやすいのである。
わたしは吃音症(どもり)だが、だれと話すかによってまったく症状が異なる。
うまく話せる相手と、そうではない人がいる。
これはそのときの気分なども大きく影響するだろうが、
相手の聞く能力の高低にもかなり依存しているところがある。
だとしたら、そのときわたしが話したことは、
わたしの創作ではなく聞き手との合作ということにはならないだろうか。

うまく聞いてもらえるとうまく話せるのである。
井上靖が40歳を過ぎてから作家として大成できた理由のひとつは、
おそらく聞き上手の愛人女性ができたからである。
作家は小説を書くまえに筋を愛人女性に話していたという。
初期の物語作家はかなり愛人の耳に助けられていたはずである。
これが聞くこともまた創作だというふたつめの理由である。

心理療法家の河合隼雄もまた聞く能力が高かった。
難しい問題を抱えたクライアントは河合隼雄にうまく話を聞いてもらう、
すなわち自分の物語を創ることで症状を改善させていったわけである。
この場合、愛人とは違い(愛ではなく!)金銭を媒介とした契約になる。
そうはいっても、とても金銭に見合わない骨折りだったことは想像がつく。
家族や友人が心理療法家の代わりの耳になることもあるだろう。

わたしはまったく知らない人から名前も記載されていないメールで
個人的な打ち明け話をされることがよくあるが、それは無理なのである。
なぜなら異性愛や家族愛、友情、金銭(契約)でつながっていないからである。
旅先でたまたま知り合った人から身の上話をされることも多い。
そういうときに聞いた話は旅の味わいを深めるのでなかなか悪くない。
うまい物語小説は読者を感動させる。
もし聞くこともまた創作ならば、
作家のみならず読者もまた創作していることになるだろう。
そうだとしたら、演劇や映画に感動するのもまた創作なのである。

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