人は真実に耐えられない

もし真実というものがあるとしたら――絶対的真理はない、
なんにもない、どこにもなにもない、善悪も貴賤も高低もありはしない――
というところに落ち着くのではないか。
「だったらおまえのいまの発言も真実ではないだろう?」
いまこう思われた方には、よくぞわたしの思いをご理解くださったと感謝したい。
まさにそれが真実ではないでしょうか。
たぶん、たぶん、なーんにもないのである。「絶対」ではなく「たぶん」。
たとえば、急にぎっくり腰になったとする。
どうでもいいことだが、これは周辺でけっこう見聞きするので書き手の年齢がわかろう。
さあ、ぎっくり腰になったとする。
絶対的真理がないとは、これをどう解釈してもいいということだ。
仏罰だと(多少非科学的に)思って、行ないを改めるのもいいだろう。
身体が休みを欲しているというふうに当面科学的な判決をくだしてもよろしい。
(いまの科学は絶対的真理ではなく、かなりが50年後には否定される当面真理です)
解釈が自由とは、人はいかようにも物語れるということである。
物語るとは、人に話すということだ。
飛躍するが、物語が好きである。お話が好きだ。
人は話すことで現実に折り合いをつける。
現実を自分なりに解釈する。現実を嘘でゆがめる。
ひるがえって現実なるものは本当にあるのかと考えてみると、さあどうだろう?
もしかしたら、本当はなーんにもなく、すべてがお話(物語)なのかもしれない。

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