どっちも正しいと考えてみたら

この世のほとんどのことは突き詰めて考えたら、「どっちも正しい」のだろう。
一般的に多数派の意見は正しいとされるが、少数派も正しい。
少数派も正しいことがある、ではなく、少数派もまた正しいのである。
かといって、少数派がかならずしも正しいというわけではなく、
「どっちも正しい」=「どっちも正しくない」だから、
多数派が正しくないように少数派もまた正しくない。
みなさんもわたしとおなじで難しい話は苦手でしょうから具体例を出します。
科学的思考(多数派)がかならずしも正しいわけではなく、
非科学的思考(少数派)もまた正しい。
少数派はこういうときに勘違いして、だから科学的思考は間違いだと主張するが、
言うまでもなく少数派もまた絶対に正しくはないのである。
それどころか、むしろ一般的には常識的には、多数派が正しいことになっている。
多数派についておけば、まずたいがいの場合、大失敗することはない。
もっと言えば、少数派の存在が許されているのは多数派の寛容によるところが大きい。
多数派が本気になったら少数派などひとたまりもなくつぶされてしまう。

たとえば、成功者や権力者が恵まれているというのは多数派の考え方である。
なぜなら大半の人間は成功者や権力者にはなれないからだ。
しかし、実際のところ少数派(成功者・権力者)はどう思っているか。
おそらくは成功しても権力を持っても苦労が増えるばかりなのではないだろうか。
権力者とはいえ、好き勝手なことはよほどのことがないとできない。
むしろ権力を行使することで人から恨まれることも少なくないだろう。
また成功者ほど人のいやな部分を目にすることが多いのではないか。
というのも、人間はどうしようもなく嫉妬する生き物だからである。
ひとたび成功したら、数かぎりなく足を引っ張られることだろう。
いついまの地位から引きずり落とされるか不安でおちおちする暇もないはずだ。
そのうえ、いったん落ち目になったら世間(多数派)からの嘲笑が待っている。
さらに、一生成功しているものなど、まあいないといってよい。
それほど多数派(成功できなかった人、権力のない人)の恨みや嫉妬は強いのである。
芸術系の成功なら10年持てばいいほうではないか。
たいがいは数年で消えていく。
ビジネスの世界でも20年成功を維持するものはほとんどいないのではないか。
もしいたとしても20年間、毎日のように気を張り巡らせている生活がそんなにいいか。
長年成功していると周囲はイエスマンばかりになり、
だんだん自分が見えなくなってくることもあるだろう。
まさにその部分を衆愚(多数派)に突かれ失墜することになるのである。

けれども、成功者や権力者は少数派だから多数派に向かって、こういう事実は言えない。
いま「どっちも正しい」=「どっちも正しくない」の話をしている。
もてる人はいい、なんて言うのも眉唾ではないかと思う。
多数派がもてないから、もてることが過剰に肯定されているに過ぎない。
実際はもててもあまりろくなことはないような気がする。
人を傷つけても平気なタフな人ならいいが、
もてるということは必然的にそれだけ多く他人を傷つけなければならないのである。
どうしようもなく交際をお断りしたら逆恨みされることもあるだろう。
あいつは顔がいいだけだ、
ともてない男女(多数派)から中傷されることも少なくないはずだ。
いくらもてても人間はかならず好意の見返りを求めるから、
好きでもない人にいろいろな面でお返しをしなければならないから面倒である。
はっきり言えば、もてる男にはバレンタインデーなど地獄だろう。
しかし、そんな本音を口にしようものなら、
贅沢な悩みだなと多数派の性格がねじくれたもてない男女から袋叩きにされるのだ。

とことんまで「どっちも正しい」=「どっちも正しくない」、
さらに言えば「正しいことはなにもない」を追及するとこうも言える。
よく成功者の息子や娘は恵まれていると言われるが本当にそうか。
あれは我われ多数派が無名人を親に持っているがゆえのひがみなのではないか。
たしかに周囲はちやほやしてくれるだろうが、
いくら成功者の甘やかされた(と多数派から見られがちの)息子、娘とはいえ、
それを自分の実力と思うものはさすがにいないだろう。
どれだけ成功しても親のおかげではないかという思いをぬぐいきれないのは辛いはずだ。
成功者の息子や娘は自身が成功してもそれほど喜べないのである。
おなじような有名人の子どもにしか心を開けなくなることもあるだろう。
続けざまに述べるが、金持もそうだ。
多数派は金持ではないから、セレブがことさらよく見えるのである。
いざ少数派の金持になってみたらぜんぜん楽しくないかもしれない。
たまに贅沢をするから楽しいのである。
毎日のように美食を食べていたら飽きるだけだろう。
たくさんブランド品を持てば持つほど、新しいものを購入したときの喜びは減少するはずだ。
楽をしてばかりだと小さな苦をひどく不満に思うような性格になるかもしれない。
なにより周囲(多数派)の恨みや嫉妬が恐ろしいのは金持もおなじだ。
このためうつ病になったとき、たとえ1億円払っても病気は治るとはかぎらない。
金持であるがために心を病んだら、せっかくの恵まれた環境も楽しめないのである。
繰り返すが、いくら名医に金を積んでも心の病気は治らないことがある。

なにが言いたいのか。
こうして考えてみると、自分は少数派のつもりだったが、
かなりのところで多数派の論理を使用して思考しているのである。
多数派の論理を正しいものと主張して少数派をいじめている、と言い換えてもよい。
しかし、多数派と少数派は「どっちも正しい」=「どっちも正しくない」のである。
「友人がたくさんいたほうがいい」と「群れるな」はどちらも正しい。
問題なのは、かなりは生まれつきに支配されるところだ。
友人が少ない(いない)人は、
あまり「友人がたくさんいたほうがいい」と考えないほうがいい。
なぜなら「どっちも正しくない」からである。
「どっちも正しい」のならば、「群れるな」も正しいのだ。
かといって「群れるな」が絶対的に正しいわけではないことにも注意したい。
引き続きますと、「人生は努力しだいだ」と「人生は運だ」はどっちも正しい。
「人生は努力しだいだ」と「人生は運だ」はどっちも正しくない。
たぶん「人生は努力しだいだ」が多数派だろう。
がために一般的には「人生は努力しだいだ」が正しいとされる。
けれども、少数派の「人生は運だ」もまた正しいのである。
ここでさらに一歩踏み込もう。
「どっちも正しくない」のだとしたら、
なぜ「人生は努力しだいだ」と主張する人が多いのか。
なにゆえ「がんばれ、もっとがんばれ、がんばればかならずよくなる」とみんな言うのか。
表面上は多数派が「人生は努力しだいだ」を正しいと思っているからである。
しかし、「どっちも正しくない」のならば――。人はなにを正しいと思うのか。

答えは、人は自分の好きな考え方を正しいと思うのである。
「人生は努力しだいだ」と考えるのが好きな人が多いから正しいとされている。
この考え方を自分は正しいと思う、というのはおそらく誤りだ。
実際は、単にその人がその考え方を好きなだけなのである。
具体例を出しましょう。
「成功者は恵まれている」というのは正しいわけではなく、
(わたしを含めた)多数派がそう考えるのが好きなだけなのである。
「権力者はいい思いをしている」というのは正しいわけではなく、
(わたしを含めた)多数派がそう考えるのが好きなだけなのである。
「金持はよいことだ」というのは正しいわけではなく、
(わたしを含めた)多数派がそう考えるのが好きなだけなのである。
「もてるのはいい」というのは正しいわけではなく、
(わたしを含めた)多数派がそう考えるのが好きなだけなのである。
「地道にがんばっていればいつか報われる」というのは正しいわけではなく、
(わたしは違うけれど)多数派がそう考えるのが好きなだけなのである。
「どの人生もプラスマイナスすると平等だ」というのは正しいわけではなく、
(わたしは違うけれど)多数派がそう考えるのが好きなだけなのである。
「人はわかりあえる」というのは正しいわけではなく、
(わたしは違うけれど)多数派がそう考えるのが好きなだけなのである。

「どっちも正しい」=「どっちも正しくない」
→「人は自分の好きなものや考えを正しいと思う」


民主主義が正しいと思っている人は、民主主義が好きなだけなのかもしれない。
人間平等思想が正しいと思っている人は、
もしかしたらその思想を好いているだけとは考えられないか。
新興宗教団体の信者さんは教祖の言うことを正しいと信じておられるが、
あるいはご自身がその教祖さんをお好きなだけではないでしょうか。

「正しいことはない」→「あるのは好き嫌いだけ」

ならば、もっと自分の好き嫌いにこだわろうではないかというのがこの記事の主張だ。
我われはなぜか正しいことにこだわる。だが、それは正しくないのかもしれない。
本当は嫌いなものを多数派に流されて正しいと思っている人も多いのではないでしょうか。
正しいから離れて、もっともっと自分の好きにこだわってみたらいかがでしょうか。
むろん、この主張も正しいわけではない。
なぜなら、好き嫌いを声高に公言できるのは、ある種の恵まれた人だけだからだ。
たとえば、接客業ならば嫌いな客でも愛想よく対応しなければならない。
人からシャンパンをごちそうになったら、
あまり好きではなくても「おいしい」と言わなければならない。
贈答品として高級なものをいただいたら、
(自分が知っている)相手の好きな安物ではなく同額程度のお返しをするのが是とされる。
世間をうまく渡っていくためにはかなり自分の好き嫌いにふたをしなくてはならない。
そうしているうちに、自分が本当になにを好きなのかわからなくなってくる。
多数派の考えにしがたっておくのが結局はいちばんと考えるようになる。
多数派といっしょの正しい発言をするのはいい気分だ。
たしかにそうなのだろう。まったく実際そうだ。しかし、本当にそれでいいのだろうか。
ありきたりなことを言うが、
せっかく世界にただひとりの存在としてこの世に生まれてきたのだから、
世渡りもあるだろうが、いくぶんかは自分の好き嫌いにこだわってもいいのではないか。
こだわりすぎるのも、むろんよくはないが、しかし――。

*多忙にしていると、こんなうだうだ考えずに楽なのはわかっています。
考えちゃいけないんだ。さあ、テレビでも見るか。
わたしのくだらない悩みに最後までお付き合いくださり本当にありがとうございます。

COMMENT

URL @
03/08 13:36
. じょうだんだもっ
うばそっく URL @
03/08 19:26
. 自分の思考も誰の思考も何もかも寄る辺ないためになにかしらの宗教の規範を探し求めている系男子ですが、頭の整理になりました。ありがとう。
Yonda? URL @
03/08 23:16
あさんへ. 

ぼくも世の中ぜんぶ冗談だって思うおっ♪
Yonda? URL @
03/08 23:21
うばそっくさんへ. 

この記事の根底にあるのは一切空(くう)の考え方です。
「どっちも正しい」=空=「どっちも正しくない」であります。
世の中には多数派(みんな)の真実、変わり者(少数派)の真実、
それからあなたやわたしといったそれぞれの真実があると思います。
3つすべて真実です。あるいはこの世に真実はない、とも言えます。
「わたしの真実」をたいせつにしていきたいものです。








 

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