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「ニーチェの言葉」

「あらすじとイラストでわかる 道をひらき、幸せを導く ニーチェの言葉」(イースト・プレス)

→チープな本だか、思いのほか、というか、
思った以上にニーチェの言葉がよかった。
ページ右にニーチェの言葉、左にその名言を解説したつもりの、
まったくニーチェの発言とは関係ないくだらぬ処世訓や成功哲学がつづられている。
人生にまあ外見上は失敗したと言ってもよいニーチェの言葉を習って、
いったいだれが成功できる、あるいは幸福になれるなどと愚かにも考えるのか。
ニーチェの言葉なんか参考にしたら人生が狂う人のほうがはるかに多いはずだ。
このための左の解説なのだろう。とにかくありきたりな処世訓にまとめている。
左はひどかったが、右のニーチェの言葉は本当によかった。
とはいえ、この年になって全集を買い込んだりする気はないけれど。
これを読んだころ、毎日般若心経を唱えていたのだが、
ニーチェは実のところ般若心経とおなじことを言っていると思ったものである。
こんなチープな本を読んだくらいで、ニーチェがどうのと語るのは恥ずかしいのだが。
それ以前に、いまどきニーチェもないだろう。
いい年のおっさんがニーチェもないだろう、
というこそばゆさも当たり前のようにあるのではあるが。
ニーチェの教えを簡潔にまとめると以下のようになると思う。

ニーチェ「神は死んだ」
1「絶対的真理はない」
2「物事は解釈しだい」
3「(解釈する主体の)自分を愛そう」
4「群れるのはやめよう」
5「しかし、人はいいものだ」


以下、だらだら引用するが本当に心に響いたいい言葉ばかりなのである。
折りにふれて自分で読み返すために引用したいのだ。

1「絶対的真理はない」

「これが真理だということを、情熱の熱さで測ってはいけない。
情熱が大きいからといって、それが真理だという証拠にはならない。
しかし、そう感じる人は多い。
また、歴史や伝統がどこよりも長いからということもまた、
真理が真理であることの論拠には決してならない。
そのようなことを強く主張する人は、
場合によっては歴史を偽造したりすることがあるから要注意だ」(P98)


一般に真理とみなされていることは、ふたつの理由によるところが大きい。
ひとつは、声が大きいことである。
何度も大声で繰り返されたことが、かなりの場合、当面の真理として通用している。
言い争いになったとき、正しい(真理)とされるのは声の大きなやつだ。
ほとんど狂気にも近い情熱をもって訴えられたものが真理になってしまう。
それから歴史や伝統もまた(本当は存在せぬ)真理を偽装する。
偉い人の発言は一般に真理と思われるが、その根拠は歴史や伝統でしかない。
歴史と伝統のある○○大学教授の言うことだから正しい(真理)とみなされる。
親が有名人(=歴史・伝統)の子の言うことも正しいとされることが多い。
しかし、声の大きさ(情熱)や歴史伝統は見せかけの真理を演出しているだけで、
実のところ絶対的真理はこの世には存在しない。
繰り返しになるが、絶対的真理はない。ならば――。

「若い頃に心ひかれるものは、
目新しいもの、面白いもの、風変わりなものが多い。
そしてそれが本物か偽物かなど気にしないのがふつうだ。
人がもう少し成熟してくると、本物や真理の興味深い点を愛するようになる。
さらに円熟してくると、若い頃に単純だとか退屈だとか思って
興味のわかなかった深みを、好むようになる。
真理が最高のそっけなさで語っていることを気づくようになるからだ」(P102)


「絶対的真理はない」が絶対的真理なのかもしれない。

「これこそ真実だと思っていたものが、今では間違いだったと感じるものだ。
それを自分は若かったとか、浅かったとか、世間知らずだったと
断じて葬らないほうがいい。
当時の自分にとっては、それが真実だったのだ。
人間は常に脱皮していく。常に新しくなっていく。
いつも新しい生に向かっている。以前は必要だったものが、今では必要ではない。
ただそれだけのことなのだ」(P116)


真実は唯一絶対のものではなく、自分のなかでも変わっていくものなのだろう。
欲しいものも変わっていく。
たしかにむかし欲しかったものを、いまはさして欲していないということは多い。
子どものころに欲しかったものなど、いまではすべて不必要になっている。
しかし、子どものころ欲しかったというのは真実なのである。
さて、「絶対的真理がない」とはどういうことか。
あらゆる物事はどう解釈してもいいということだ。

2「物事は解釈しだい」

「もっと喜ぼう。少しいいことがあっただけでも、いっぱい喜ぼう。
喜ぶことは気持ちいいし、体の免疫力も上昇する。
恥ずかしがることなく、我慢せず、遠慮せず、喜ぼう。
にこにこしよう。子どもみたいに喜ぼう。
そうすれば、どうでもいいことを忘れることができる。
他人への憎悪も薄くなっていく。
周りの人々も嬉しくなるほどに喜ぼう」(P158)


これがいちばん影響を受けたニーチェの言葉になる。
物事はどう解釈してもいいのなら、小さな喜びでもいっぱい喜んだほうがいい。
昨夜、買い物に出かけたとき、たまたま下で佐川急便のおねえさんに逢った。
うちに宅配便なんてめったに来ないけれども挨拶する程度の関係にはなっている。
「こんばんは」と挨拶をしたら、「土屋さん、ありますよ」と声をかけてくれた。
そこで荷物を手渡しでもらったのだが、えらく嬉しかったな。
ああ、自分のことなんか覚えてくれていたのかと。
ほんと宅配便なんてほとんど来ないのだけれども。
こういう小さな喜びを、ヤッターと全身で喜ぶくらいしか、
つまらぬ人生をそれでも多少は意味あるものとして生きていく方法はないんじゃないか。
「小さな喜びをいっぱい喜ぼう」というのは「騙し騙し生きる」ということだと思う。
物事は解釈しだいだから、どこにライトを浴びせてもいい。
たとえば小さな喜びに大きなスポットライトを当ててもよろしい。

「「知る」という言葉がある限り、世界は知ることができる。
しかし、また別の解釈で世界を見ることもできる。
世界全体に意味はないが、意味づけは無数に可能である。
これが「遠近的思考法」だ」(P206)


物事はたしかにおのおのの解釈しだいだが、
にもかかわらず我われは既存の解釈にどうしようもなく縛られている。
物事を自由に解釈することができない。
すぐに出来合いの思考法に毒されてしまう。
安易に悪者を作ってそれでよしとする。

「この原因からこの結果が生まれたという考え方は多い。
しかし、その原因と結果は私たちが勝手に名付けたものにすぎない。
どんな物事でも、見えていない他の要素がたくさんあるかもしれないからだ。
それを無視して、これが原因、これが結果と
結びつきを決めつけるのはあまりにも愚かだ」(P192)


だから、独創とは奇抜な行為ではない。
我われは既存の物事の解釈に縛られているが、本当に独創的な人物は――。

「奇抜なことをして注目を集めるのが、独創的な人物ではない。
それはただの目立ちたがり屋だ。
独創的とは、すでに世間のなかにあるものなのに、
まだ気づかれていないようなものに気づき、それに名前を付けてみんなに
あらためて認識してもらうことができるような人間のことだ」(P212)


どうしたら独創的な世界の解釈をすることができるようになるのか。独創――。

「読書は実り多いものだ。
なかでも古典は栄養分を豊富にたたえた果実だ。
古典を読むことで、現代から大きく遠ざかり、
また、見知らぬ世界へと誘われる。
そして現実に戻ってきたとき何が起こるかというと、
現代の全体像が、今までよりも鮮明に見えてくるのだ。
古典によって私たちは、新しい視点を得ることができ、
新しい仕方で現代にアプローチできるようになる」(P76)


独創的たれ。ニーチェは愛もまた独創であると言う。

「他人から見れば、どうしてあんな人を愛しているのだろうと思う。
特別すぐれているわけでもないし、見た目もよくないし、
性格も別によくないのに、と思うのだ。
しかし、愛する人の眼は、まったく異なるところに焦点をあてる。
愛は他の人にはまったく見えていない、
その人の美しく気高いものを見い出し、見続けているのだ(P114)


「物事は解釈しだい」なら解釈をする主体、つまり自分が重要である。
だとしたら、よき解釈のためには自分を重んじたほうがいいとなる。

3「(解釈する主体の)自分を愛そう」

「愛とは、自分とは異なる生き方をし、
自分とは異なる感性を持っている人を、理解することだ。
自分自身のなかでも同じこと。自分を愛するとは、
自分のなかにある絶対に交わらない対立や矛盾を、
対立や矛盾ゆえに楽しむということなのだ」(P180)


自分の内部においてさえ、絶対的真理のようなものはなく、
常に考えの対立や矛盾を持っているのが人間なのだというニーチェの見方だ。
内部の対立や矛盾に耐えられなくなると我われは他人まかせになってしまう。
自分でなく他人に真理のようなものを求めてしまう。
どうして自分をもっと見ようとしないのだろうか。

「多くの方法論の本を読んでも、
成功者や有名人のやり方を学んだところで、
自分のやり方がわからないのは当然のことだ。
薬一つとっても体質に合う合わないがある。
人のやり方が自分にもあてはまることのほうが少ない。
問題は、なぜ自分がそれを望むのか、それをやりたいのか、
その道を歩みたいのかについて深く考えていないことに尽きる。
そこをしっかりつかんでいないのだ」(P52)


自分を見つめるのが辛くなった人は、有名人の講演会に行って
みんなと一緒に他人の方法論を知り満足して賢くなったような気分で帰宅する。
どうしてもっと自分を愛さないのだろう?
自分などだれも愛してくれないこと気づいたら、
せめて自分くらい自分を愛してあげなければならないことを悟るのだろうけれど。
なぜ自分を愛するのかと言ったら、だれも自分なんて愛してくれないからだ。
以下のニーチェの言葉はまったく本当にそうだなと深々と納得した。

「最大のうぬぼれとは何か。
愛されたいという欲求だ。
そこには自分は愛される価値があるという主張がある。
そういう人は、自分を特別な存在だと思い込み過ぎている。
自分だけは特別に評価される資格があると思っているのだ」(P106)


ニヒリズムの極地のようだが、しかしこれは真実としか言いようがない。
自分は愛される価値があると思うのは、最大の錯誤だと思う。
このことに深々と気づいたときに、せめて自分くらいは愛してやろうと思うのだろう。
だとしたら、自己愛はほとんど諦観(ていかん)である。
しかし、自己の愛し方をわからぬ人はどうするか。

4「群れるのはやめよう」

「いつも誰か仲間と一緒にいないと不安なのは、
自分が危険な状態になっているという証拠だ。
本当の自分を探すために、誰かを求める。なぜそうなるのか。
孤独だからだ。なぜ孤独なのだろうか。
自分自身を愛することが上手にできていないからだ」(P128)


自分自身をうまく愛せないから孤独なのだ……。
うまく自分を愛せたら、誰かを求めなくてもよい。仲間と群れなくてよい。

「自分の人生を安易に、安楽に過ごしていきたいのなら、
常に群れてやまない人々の中に混じるがいい。
そして、いつも群衆のなかにまぎれ込んで、
自分というものを忘れ去って生きていくがいい」(P136)


ものすごい皮肉にこちらも皮肉で返すと、
わたしも含めて大半の人がニーチェのような超人ではないのだから、
なるべく自己を滅して多数派についたほうがいいのかもしれない。
この部分を読んで若者は、自分は群れないぞと思うのだろうが、
人はそんなに強くはない。
自分が強いと勘違いできるのは若いうちだけである。
果たしてニーチェその人もそれほど強かったのだろうか?

5「しかし、人はいいものだ」

「一緒に黙っていられることは素敵だ。
そして、一緒に笑っていられるのはもっといい。
一緒にいて、同じ体験をし、ともに感動し、泣いて、笑って、
同じ時間を生きていくのは、とても素晴らしい」(P160)


これは山田太一ドラマの世界である。
かの作家のシナリオには「二人、笑ってしまう」のト書きが頻出する。
「二人、泣いてしまう」も「――、――(=両者、黙ったままでいる)」もそうだ。
孤独なのは自分の愛し方が下手なのだとわかっていながら、
それでもだれかと一緒にいるのはいい。二人で笑えたらもっといい。

最後にもう一度要点を整理する。

ニーチェ「神は死んだ」
1「絶対的真理はない」=真理は情熱や歴史・伝統の偽装だ!
2「物事は解釈しだい」=いろいろなサングラスで世界を見よう!
3「(解釈する主体の)自分を愛そう」=他人は自分を愛してくれないぞ!
4「群れるのはやめよう」=孤独なのは自分の愛し方が下手だからだ!
5「しかし、人はいいものだ」=だれかと一緒にいるのはいい!

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