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「仏教が好き!」

「仏教が好き!」(河合隼雄・中沢新一/朝日新聞社)

→宗教学者の中沢新一氏が河合隼雄に実に鋭い質問をしていたので感動した。
結局、心を病んでいる人というのは少数派なのである。
多数派とは異なるという理由で病んでいると診断され(あるいは自覚して)
精神科医や、それでもよくならないものは健康保険のきかない、
たとえば河合隼雄氏のような心理療法家のもとを訪ねてくるわけである。
河合さんもときおりにおわせてはいるが、そういう病はまあ贅沢病なのである。
というのも、本当に金がなかったら、心理療法など受けられないのだから。
つまり、そのまんま放っておくしかない。
(あまり大きな声では言えないが、それでも、ときに? かなり? 治るのであろう)
これは偏見かもしれないが、額に汗して大地に向かって格闘しているものの大半は、
よほどのことがないかぎり心を病んだりはしないのではないか。
とはいえ、全員がお百姓さんや土木作業員になるわけにもいかないし、
ミミズや砂利と格闘しているばかりでは文化や芸術も生まれようがない。

このため、心を病むことにもきっと意味があるのだろうと河合隼雄は考える。
そして、心を病むとはどういうことか突き詰めて考えると、
前述のようにやはり意図せずして望まぬ少数派になることなのである。
繰り返すが心を病むとは、少数派になること。
よしんば、うつ傾向があっても社会全体がどんよりとうつならば異常ではないのである。
たとえ不登校でも学校に行かない学童が5割を超えていたら、
両親も当人もわざわざ思い悩んでカウンセラーになど逢いに行く必要はない。
出社拒否症でも、周囲がみんなだらだらと遊び暮らしていたら問題にはならない。
みんなと違う(=少数派)から病んでいることになり、そうなると、
そのことにことさらこだわり問題を悪化させてよけい苦しむようになるのだ。
たとえ幻聴が聞こえていても、その幻聴と折り合う仕事(もしくは資産)があり、
幻聴と楽しく会話できるようになれば少数派でも一向に構わないことになる。
漁村などで雨の日は朝から酒をのむ風習があればアル中にはならない(アル中ではない)。
心理療法対象のいわゆる病は、少数派ということに過ぎないのかもしれない。
たとえばわたしは吃音症だが、みんながどもっていたら異常ではない。
むしろ今度はどもらないほうが異常となり心理療法の対象になるかもしれない。
わたしに関してはもうどもりは完全にあきらめているから、
いまさら高い金を払って心理療法や訓練道場といったものに通う気はさらさらない。
これは果たして治ったのか、治っていないのか、考えてみるとよくわからない。

幸福についてもよくわからない。
ひねくれた目でものごとを見ると、たとえば安っぽいテレビドラマに感動して、
新聞や雑誌で聞きかじったような政治への不満を周囲に訴えてすっきりできる人が
もしかしたら本当に幸福な人なのかもしれない。
ともかく、多数派の一員であることはおのれを幸福と錯覚させる要因のひとつだろう。
ベストセラーを読んでみんなとおなじように感動して、
評判の高いレストランでものを食い満足して、みんなとおなじように老いて病気にかかり、
平均寿命前後で死んでいければ、まあ幸福とも言えないことはないのである。
幸福かどうかはさすがにわからないが、そこそこ正常な人だったということになろう。
みんなが無気力で退廃的だったら、今度は前向きなやつが病気ということになる。
「おまえはいつ死ぬかわからないことを少しは考えろ」と説教する人がいてもいい。
とどのつまり、なにが病か、なにが正常か、なにが幸福かはわからない。
多数派に戻ることが治癒なのか、多数派に従うことが幸福なのか、わからない。
このことを河合隼雄氏ほど理解していたものはいなかったことが以下の引用からよくわかる。
もちろん、問いを発した中沢新一氏も立派なのである。
多少長い引用になりますが、どうかご勘弁ください。

「中沢――これは僕の疑問に関わってくるんですが、
心理療法家というのはいったい何をする人なのかということですね。
つまり、陳腐であろうが何であろうが、人びとは安心感を欲している。
陳腐なことが好きだからテレビを見るわけですし、それをみんなもとめてしまう。
けれども、陳腐な理解では安定できない人、安住できない人たちがいる。
で、河合先生の前に行く。
河合先生には二つ可能性があるわけでしょう。
一つはクライアントに対して、
「陳腐なところへお帰り。そうすればみんなといっしょになれるじゃないか」
という可能性ですが、河合先生の場合、そこで「もう絶対戻れませんよ。
それぐらいなら陳腐な結合をやめて、もうちょっと深いところへ行ってみなさい」
って言う人なのかなあと思うわけです。
河合――その判断がいつもむずかしいと思いながらやっています。
陳腐なほうへ戻るためにいっしょになってみたり、
深く降りるほうをやってみたり、両方いろいろですね。
もう一つ思っているのは、不安なほうへ向かわせるのだから、
それを超えた安心感みたいなものを相手に与える人間でないとだめだと思っています。
そうでないと、その人は不安でしようがないわけです。
だから大きい意味の安心感はあるようにしておかないと。
中沢――それは親鸞が言う阿弥陀如来みたいなものかもしれません。
とにかく絶対的な安心感がある。
河合――僕は、絶対的とまではいかへんけど、
そういう点では相当の安心感を与えられると思います。
それは僕が持っているというよりは、それこそ阿弥陀如来じゃないかもしらんけど、
何か自分を超えたもの、そういうものがあると。
中沢――それは河合先生がずうっと追及されていることですよね。
河合――そうです。
中沢――「阿弥陀如来」と言ってしまってもいいし、言わなくてもいい。
「グレートマザー」でも「自然」でもいいけれども、
そう言ってしまってもいいし、言わなくてもいいわけですね。
ただ何かさっき言った「絶対肯定」……。
河合――みたいなものはある。
ただ、それに名前をつけて存在を確かめたり、名前をつけることによって
「こういうのがあるのです」という言い方は、僕はまだしません。
してないというか、それはできない。
自分の体験としてできないんだからやっていないだけですが」(P151)


長い引用を最後までお読みいただき本当にありがとうございます。
実のところ、この2週間のブログ更新は、
上記の河合隼雄先生のご発言に勇気をもらったものかもしれません。
名前をつけられないけれども(一切空)、
絶対的なもの(自分を超えたもの)があると、あの河合隼雄先生がおっしゃっている。
ならば、なにが正常か異常かも、なにが幸福か不幸かも実のところわからないのだろう。
このことを心底からわかっていた人がいたというだけで安心できるところがあるのだと思う。

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