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「日本人・いのちの風光」

「日本人・いのちの風光 梅原猛vs.ひろさちや対談集」(主婦の友社)絶版

→「本の山」の仏教思想は8割方ひろさちや氏と梅原猛氏によっているから、
両先生の対談本を見つけたら読まずにはいられないわけである。
この対談を読んで改めて思ったのだが、梅原猛氏はむろんのこと、
いまやチープな過激書を濫造するだけになってしまった(失礼!)
ひろさちや氏が実によく勉強しているのである。
勉強に勉強を重ねて、学問のくだらなさに見切りをつけて、
いまのようないささか怪しげな宗教ライターになってしまったのだろうか。
お亡くなりになるまで書くのはやめようと思っていたが、ひろさんは偉いよ。
うちのブログもバカに見られるのがいやだから、
「カテゴリーひろさちや」を作っていないけれど、亡くなったら作る。
もしかしたらひろ先生、死んだらかなり偉くなるんじゃないかな。
あたまの働き方がわたしなんかとまるで違うし、やはり東大卒はすごいと思う。

東大といえば日本史の過去問に難題が出たことがあるのである。
「どうして鎌倉時代の一時期にしか優秀な坊さんは出てこなかったか?」
対談で梅原猛さんが指摘するのも似たようなことで、
「日本で偉い坊主が出たのは平安の初めと鎌倉の初めの二回だけで、
その後はどうもパッとしない」――。
そのうえで「これはどういうことなんでしょうかね」とひろさんに質問している。
その答えがおもしろい。

「一つは如来蔵思想の系統からいくと、凡夫が如来を蔵しているという形ですね。
自分の中にある如来性を磨き出すという哲学を完成させたのが道元で、
それから親鸞は、
如来の中に包まれている凡夫だという思想をぎりぎりまで推し進めていった。
それと、如来と凡夫がイコールなんだというのが空海の思想であるわけです。
仏教はこの三つのパターンでもう尽きるのではないかと思うんですが」(P148)


これを梅原猛氏は、
「仏教そのものが理論的に全部追及されてしまったということですね」と引き取る。
ひろさちや氏は自分の考えた自分の言葉でうまいことを言うよな~。
わたしの言葉にしたら、きっと自然とのパターンも3つなのである。
自分のなかに自然を形作っている根本があることに気づく仏教。
大きな自然のなかに生かされていることに気づく仏教。
自分がそのまま自然であることに身体全体で気づく仏教。
このほかにも両先生の斬新な指摘には学んだところが多い。
ひろさちや氏や梅原猛氏の言葉を読んでなにがわかるかといったら、
だれかから知識を教わるのもいいが、
自分自身でものを発見してもいいのだということである。
むしろ、そのほうがものを教わるよりも何倍も楽しい。学ぶのは喜びだ。

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