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「正信偈」

「正信偈」(親鸞/「わが家の仏教 浄土真宗」四季社)

→正信偈(しょうしんげ)は正しくは正信念仏偈といい、
浄土真宗の門徒さんが毎日のおつとめとして読み上げることになっている。
内容は親鸞の大著「教行信証」の一部で、
ここに全体の要約がなされていると本願寺8世の蓮如が判断して、
いまのように毎日の勤行に取り入れられた。
怪しい呪文めいたものは嫌いではないので、
もしかして偉大な真理が説かれてるかもしれないと思い、
たいせつに何度も精読したのだが、三度目の熟読で気がついてしまった。
正信偈は漢文の羅列で、この入門書には読み下し文が解説とともについている。
なにを気がついたかというと、親鸞の漢文がおかしいのである。
いちおう大学受験で漢文を選択しているし、第二外国語は中国語である。
しかし、長いことあの偉い親鸞の言葉だからという先入観があったのだと思う。
3回目の丹念な読みの過程で、やはり親鸞のほうがおかしいとわかった。
どう考えても親鸞の漢文は文法構造上、読み下し文のようには意味が取れないのである。
言っちゃいけないことかもしれないが、親鸞はちとばかしおバカさんなのね。

あーあ、知らなければよかったことをまた知ってしまったかと後悔する。
知らないでありがたいものだと思い込んでいるのもまた幸いなのだ。
この段階でしばらく放置して最近また読み直した。
すると、なんだか心が落ち着かなくもないのである。
むかしは意味を考えながら読んでいたので、意味が成立していないことに不満を感じた。
ところが、その意味がよくわからないところがそこそこありがたいのではないか。
要するに、さらに思いを改めたわけである。
「正信偈」の内容は、肩書の大合唱である。

「正信偈=肩書大合唱♪」

相対の人間世界の言葉をどうつなげてもなかなか絶対にはたどり着けない。
このため、親鸞は偉い仏僧の名前を延々と並べるわけである。
具体的には以下である。
無量寿如来→法蔵菩薩→弥陀本願(仏典)→
→釈迦→龍樹→天親(インド)→→曇鸞→道綽→善導(シナ)→源信→法然(日本)
自分の信心は、上記の偉人たちに支えられているという主張だ。
細かく読んでいくと、本当は親鸞が独自に編み出した思想も、
ほかの高僧が説いていることにしているのがなんとも印象的だ。
しかし、信心というのは、元来そういうものなのである。
法然もおなじことをしているし、源信もシナ高僧の教えをねじ曲げているところがある。
偉い人がこう言っているから正しいという論法である。
仏教思想を見ていくと、本当にまったく言葉は肩書でしかないことが理解される。
だれかの言葉を信じて賭けるのがおそらく信仰の内実なのだろう。
ぶっちゃけ、信仰は人それぞれで、おなじ浄土真宗門徒でも信じているものは違うと思う。
いけないと批判しているのではなく、信心とはそういうものなのである。
親鸞なら親鸞のどの言葉を信じるかは各自の自由なはずである。
ところが、新興宗教の場合、かなり信者の自由は狭められ、
よくも悪くも盲目的に同一内容を信じることを強制される。
我われが親鸞から学ぶことがあるとすれば、
自分の信心(お話)を作っていいということである。
親鸞はあまたの高僧や仏典の言葉から、
都合のいいところだけ選択して自己の信心を決定した。
それから自分の主張は高僧も言っているから正しいとひっくり返したのである。

さらに重大なことが「正信偈」からわかるのではないかと思う。
親鸞は自分の考えをほかの高僧が言っていたと偽装(信仰)していると書いた。
たとえば、親鸞は「報化二土」の教えを説いている。
我われが念仏を唱えて往く浄土には、
報土(本物)と化土(仮物)の二種類があるというのである。
「正信偈」では源信がこれを説いたとされているが、実は親鸞のオリジナルである。
しかし、自分の考えと言ってしまったら教えの正しさが証明できない。
このため、「往生要集」で有名な源信の名義を借りたわけである。
さあ、もっとも主張したいことに入ろう。
師匠の親鸞がしたこととまったくおなじことを弟子の唯円もやったのではあるまいか。
何度も書いてきているが、
唯円の「歎異抄」は実はかなりのところ唯円自身の信心(思想)ではないか。
学者、坊主、門徒、一般読者の99%が
「歎異抄」は親鸞の信心が弟子によって説明されていると思い込んでいる。
しかし、それは大きな勘違いをしているのではないか、と繰り返し言いたいのである。
「歎異抄」は「正信偈」とおなじように、
自身の思想を高僧の名義を借りて語ったものではないだろうか。
根拠は「教行信証」の一部である「正信偈」である。
親鸞の偉大さは、かつては子孫である蓮如の巧みな情報操作で成立していた。
明治以降、秘伝の「歎異抄」が公開されてからは、
今度はこの書物によって親鸞が再度神格化された。
むろん、唯円の師であったくらいだから親鸞が偉くないとまでは言わない。
だが、唯円はもっと偉大だったのではないかとわたしは言いたいのである。
なぜなら繰り返し読んでみると「正信偈」「三帖和讃」「末燈鈔」よりもはるかに
唯円の「歎異抄」のほうが深い内容を持っているからだ。
ともあれ、親鸞の「正信偈」の感想であまり唯円を論じるものでもあるまい。
わたしは唯円が親鸞の言葉を信じたように、唯円の言葉に賭けてみたいと思う。
「正信偈」は師匠のそのまた師匠の言葉だから、
月に一度くらい読み返すのもまた悪くはないかもしれないと思う。

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