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「阿弥陀経」

「仏説阿弥陀経」(鳩摩羅什訳/「浄土三部経」本願寺出版社) *再読

→「本願」を説いた大無量寿経、「念仏」を説いた観無量寿経に引き続き、
本願寺出版社「浄土三部経」が掲載するのは「浄土」を説いた阿弥陀経である。
このきわめて短い仏典には、浄土がいかなるものかが描写されている。
仏典お決まりの会話形式ではなく終始、世尊(釈迦)は説明する。
世尊の講義を受けるのは、般若心経でおなじみの弟子、舎利弗(舎利子)だ。
浄土とはどのような国なのか?

「舎利弗よ、その国をなぜ極楽と名づけるかというと、その国の人々は、
何の苦しみもなく、ただいろいろな楽しみだけを受けているから、
極楽というのである」(P218)


言うまでもなく阿弥陀経もまた仏教の開祖たる世尊が説いた真説ではない。
これもまた書く必要はないくらい常識だが、
ほかの大乗仏典とおなじく世尊が説いた教えというのが売りであるだけだ。
でも、よくよく考えたら、世尊の教え「だから」正しいというのはおかしいわけだ。
なぜなら、どうして世尊の言葉が正しいか証明できないのだから。
ものすごいくだらぬ皮肉を言えば、
世尊は東大を出たわけでもないし(笑)、偏差値も不明だし(笑)、
韓流スター(笑)よりもイケメンだったという証拠も残っていない。
言葉は肩書だから(だれの発言かで価値が大きく変わる)、
とりあえず世尊の言葉にしておけと仏典創作者たちが考えたのは疑いえない。
もちろん、かわいそうなことに法然も親鸞もこういう事実を知らずに、
浄土三部経を世尊が実際にお話になったありがたい説法だとだまされていた。
皮肉にも、我われが法然や親鸞からいまもって学ぶことができる教えに、
知らないことも(だまされているのも)またしあわせだということがある。

どうでもいいことだが、阿弥陀経は古事記よりも制作年度が古いわけである。
繰り返しになるが、阿弥陀経は浄土の詳細を描く。
浄土とは「何の苦しみもなく、ただいろいろな楽しみだけ」がある世界である。
こういう夢の世界を妄想した当時のインド人の生活環境を想像するとぞっとする。
いまのインドでさえ日本人のわたしが旅すると、まあ不愉快な苦ばかりなのである。
2千年近くまえのインドがどれほど苦に満ちていたか想像するとあたまが痛くなる。
だがしかし、そういう苦界であるからこそ阿弥陀経が創作されたのである。
おそらく大無量寿経も観無量寿経もそうだ。
その前提にあるのは人生は苦が99%なのだという現実認識である。
だからこそ、極楽浄土のようなものを妄想して創作するのである。
はっきり言って、いまの日本は阿弥陀経作者が想像もできないような極楽なのだ。
たぶん浄土三部経作者が想像できないほどの極楽世界をいま我われは生きている。
にもかかわらず、やはり仏教に救いを求めるものはいる。
たとえば、わたしのようにだ。いったいこれはどういうことなのだろう。

ひとつ疑いえないことは、
我われ現代の日本人はそうやすやすともう極楽を想像できないことだ。
時代はどんどん便利(楽)になっているから、
いま80歳の老人よりもたとえばいま36歳のわたしは
極楽を妄想するちからがかなり劣っていると考えてよい。
80歳の老人と比べたら妄想するちからがかなり弱くなっている。
もし極楽を空想するのが(できるのが)幸福だとしたら、
楽になったぶんだけ不幸になっているということである。
かといって、時代に逆らって意識的にわざと不便に戻るほどの天邪鬼ではない。
おおむかしのインドにおける浄土を説いた阿弥陀経を読んで、
いまの極楽を思い浮かべるとしたらどのようなものになるかと思った。
もしかしたら反対に苦ばかりの世界を極楽と思うのかもしれない。
なぜなら苦が多いほど楽を意識する回数も多くなるはずだからである。
もしそうならば、いま楽が少ない苦の多い人生を送っているものは、
現代人の想像する極楽浄土を生きているのかもしれない。
もちろん、いまのわたしが極楽浄土を生きている、とはさらさら言っていない。

*6年前にも読んで感想を書いていたようだ↓「浄土三部経」
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-1359.html

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