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「末燈鈔」

「末燈鈔」(親鸞/伊藤博之:校注/「新潮日本古典集成」) *再読

→親鸞が信徒へ送った手紙を集めたもの。
最晩年の親鸞がどうして生活していたかといったら、
このような手紙のお礼として金品をもらっていたようである。
さて、人は唯円の「歎異抄」を読んでから「末燈鈔」を読むがために、
なにかこの手紙にも、いやこちらは親鸞直筆なのだから
むしろ「歎異抄」よりも深い文言が並んでいると思ってしまう。
それほどに唯円の「歎異抄」を読むと親鸞が偉く思えるのである。
しかし、何度も繰り返しているが天才は親鸞ではなく唯円ではなかったか。
「歎異抄」は親鸞の言葉という形にして、
唯円が長い時間をかけて独自に深めたおのれの真理を語ったものだとしたらどうだ。
「歎異抄」は親鸞が没してのち20年も経過してから書かれているのである。
どうしてだれもが「歎異抄」の内容を親鸞の純粋なそのままの言葉だと思うのだろう?
まあ、それは理由があって親鸞子孫の浄土真宗上層部が、
自分たちの地位や名誉、なにより利権を確固たるものとするために情報操作、
さらには洗脳に近いことまでやってきた成果なのだが。
はじめに「歎異抄」ではなく「末燈鈔」を読んでしまったらどうなるだろうか。
きっとこの坊さんはそれほどの傑物ではないとみな思うはずである。

わたしもあの親鸞直筆の手紙だからなのだとずいぶんひいき目に見ていた。
なにやら深遠なことが書かれているのに自分が理解できないだけだと思っていた。
しかし、「歎異抄」を百回以上繰り返し読んだ結論は唯円は親鸞よりも偉い、である。
このことに気づいてしまったら、もう「末燈鈔」にだまされるようなこともない。
はっきり言ってしまうが、「末燈鈔」はぜんぜん大したことがないのである。
「自然法爾」を説いた部分は最高真理が書かれているとむかしは思ったものだ。
だが、あれは単に難解だからそのような勘違いをしていただけだといまではわかる。
難解というよりも、身もふたもないことを言えば、親鸞は文章がへたくそなのだ。
唯円の爪の垢(あか)でも煎じて飲めと怒鳴りつけてやりたくなる。
あるいは自然法爾の思想は、まだ親鸞の段階では完成していなかったのかもしれない。
親鸞からヒントを聞いた唯円が長らく温めて、
「歎異抄」でようやく結実させたというのが正しいのかもしれぬ。
しかしまあ、なんと「末燈鈔」の魅力のないことか。
親鸞の危険思想を真に受けた東国のバカどもが悪さをさんざんにやらかしたのだろう。
何度も「悪いことをしちゃいかん」と親鸞は手紙に書いている。
その書き方がなんとも嫌味なのである。偉そうと言ってしまってもよい。

「いつか、わがこころのわろきにまかせて振舞へとは候ふ。
おほかた、経釈を知らず、如来の御ことをも知らぬ身に、
ゆめゆめその沙汰あるべからず」(P220)


いつ親鸞が悪念のままに行動していいと言いましたか。
どうせあんたらは経典や注釈も知らず、阿弥陀如来のことも知らないのですから、
決してそんなバカなことを言ってはいけませんぞ。
まあ、こういうことを書くのは上から目線のいやなやつだよね。

「聖教の教へもみず、知らぬ、おのおののやうにおはします人人は、
往生にさはりなしとばかりいふを聞きて、
あしざまに御こころえあること、おほく候ひき。
いまもさこそ候はめとおぼえ候ふ」(P230)


いいですか、あんたらはどうせ経典の教えを目で読むこともできないし、
だからといって耳で聞いたところでさらさら理解できないんですよ。
往生に悪が妨げにはならないというさわりだけ耳にして、
頭が悪いからご勘違いなさっているのではありませんか。
なーに、インテリを気取っているんだ親鸞さんよ、と言いたくなってしまう。
てめえだってろくに漢文の読み書きもできないような田舎坊主じゃないか。

「末燈鈔」でいちばんまともな教えなど、わたしが見た限りこの程度である。
もしかしたら無教養な人間には、この程度の教えでいいと親鸞は思ったのかもしれないが。
親鸞がすすめる信仰というのはどのようなものであったか。

「仏智不思議と信じさせ給ひ候ひなば、
別にわづらはしく、とかくの御はからひあるべからず候ふ。
ただ、ひとびとのとかく申し候はんことをば、御不審あるべからず候ふ。
ただ如来の誓願にまかせ参らせ給ふべく候ふ。
とかくの御はからひあるべからず候ふなり」(P201)


こんな短い文章中におなじ文句(とかくの御はからひあるべからず)が
二度も出てくるのはあまり頭のよい書き手とは思えない。
とにかくよけいなことを考えるなよ。不審に思うな。疑っちゃいかん。
あれこれ人から言われても仏智不思議と信じていればいいんだ。
わからなくていいから盲目的に信じろ。よけいなことはするなよ。
まるで「おまえらはバカなんだから」という声が聞こえてきそうなくらいだ。
唯円の描写するあの深みある親鸞とはいささか異なるような気がするのだが。

親鸞の「三帖和讃」から脅迫めいたものを紹介しよう。

「衆生有碍(うげ)のさとりにて
無碍(むげ)の仏智をうたがへば
曾婆羅頻陀羅(そうはらひんだら)地獄にて
多劫衆苦にしづむなり」(P90)


いいか、(おれの言う)仏智を疑ったら地獄に堕ちて永遠に苦しむぞ!

「本願毀滅のともがらは
生盲闡提となづけたり
大地微塵劫をへて
ながく三塗にしづむなり」(P129)


本願を誹謗するものはめくらだから永久に三塗(地獄道・畜生道・餓鬼道)で苦しめ!

「念仏誹謗の有情は
阿鼻地獄に堕在して
八万劫中(はちまんごうちゅう)大苦悩
ひまなくうくとぞときたまふ」(P156)


念仏の悪口を言ったら地獄に堕ちて永劫に苦しむと経に書いてあるからな!
おいおい、おまえはヤクザの組長かよ!
ところがしかし、唯円の語る親鸞はこうではないのである。「歎異抄」から――。

「念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、
地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもて存知せざるなり。
たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、
さらに後悔すべからずそうろう」(第二条)


念仏して浄土に生まれるか、それとも地獄に堕ちるか自分にはわかりません。
よしんば法然上人にだまされて地獄に堕ちてしまっても後悔いたしません。
まこと謙虚な好人物である。
謙虚と言えば、唯円の描く親鸞は「末燈鈔」のようにインテリぶらない。
経釈を知らない人をバカにするどころかその反対である。

「経釈をよみ学せざるともがら、往生不定のよしのこと。
この条、すこぶる不足言の義といひつべし」(第十二条)


経典や注釈を読んでいない人は往生できないというのは間違いですよ。
いったいどっちの親鸞が本当なのだろう。
極めつけはやはりここであろう。

「このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、
またすてんとも、面々の御はからいなりと云々」(第二条)


念仏を信じろ、とさえ唯円の描く親鸞は主張していないのである。
信じるも信じないもみなさんのご自由ですよ。
「末燈鈔」からうかがえる親鸞像と、「歎異抄」の違いはどこから来るのか。
わたしは「歎異抄」に描かれた親鸞は唯円その人に近かったと見る。
少なくとも「歎異抄」の親鸞が唯円の理想だったことは疑いえないだろう。
実際にまみえたのはたとえ死の直前に逢っていたとしても20年もむかしである。
記憶が美化されるのは当たり前ではないか。
親鸞の教えを独自に深めた唯円は謙虚なため自身の思想だとは言わずに、
師匠の親鸞がこうであったと「歎異抄」に自己の熱い信心を書いたではないか。
念仏して往生できるか地獄に堕ちるかわからないと思っていたのは唯円である。
インテリではない庶民にも親身によりそって教えを説いたのは唯円である。
自分は親鸞を信じているだけで、他人に信仰を強制しなかったのは唯円である。
もしや師匠の親鸞は念仏しないやつなぞ地獄に堕ちろと嘲笑っていたのではないか。
田舎坊主のくせにけっこうそこそこインテリぶっていたのではないか。
「末燈鈔」や「三帖和讃」を読むと、どうしてもそういう気がしてならないのである。
「末燈鈔」「三帖和讃」を冷静に素直に読んだら、
「歎異抄」を書いた唯円こそ天才だとは思わないだろうか。
世間の常識や学校教育、巨大葬式利権に逆らう考え方になるが、わたしはそう思う。

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