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「歎異抄」

「歎異抄」(唯円)

→このたび3ヶ月以上にわたって毎日、般若心経、一休宗純の「般若心経提唱」、
それから唯円が師である親鸞の教えをまとめた「歎異抄」の3冊を読み返した。
このため百回以上「歎異抄」を繰り返し読んだことになるが、
とにかくあきないのである。
そこで思ってしまったのは、もしかしたら天才だったのは親鸞ではなく、
むしろ弟子の唯円のほうが飛びぬけた才能を持っていたのではないか。
というのも、付随して親鸞の直筆とされる「三帖和讃」(和歌)、
「末燈鈔」(手紙)、正信偈(主著「教行信証」の一部で信徒が毎日読む)をも
読み返したが、正直言ってあきるのである。とても毎日は読めない。
もっと言ってしまえば、毎日読んでも発見があるほどの深みははない。
一方で唯円の書いた「歎異抄」は決して汲み尽くせぬ泉のような豊かさがある。
私見では、「歎異抄」は日本人が書いたいちばんの有害図書、危険図書である。
であるからして、その毒性がときに良薬となって深く傷ついた人を癒すのだろう。
子どもを自殺で亡くした作家が没入するのもむべなるかなである(高史明氏)。

百回以上読んだのだから自分の直観を信じて言い切ってしまうが、
唯円が「歎異抄」に書いた内容は親鸞の著述物など比較にならぬほど深い。
表面的な文章においても唯円は、悪文の親鸞が逆に師匠にしてもいいほどうまい。
唯円は感情の乗った実にわかりやすい文章を書いている。
もしかしたら弟子の唯円のほうが、
親鸞よりもすごかったのではないかと思うゆえんだ。
ところが、唯円は不遇な人なのだ。
親鸞の曾孫の覚如(かくにょ)という男は権力志向の強いえらく評判の悪いやつだが、
この程度の坊さんでも親鸞思想を理解できたのは「歎異抄」を読んだためだろう。
あんがい「歎異抄」を読んだがために、
これをうまく使えば出世もでき(偉くなれ)金も儲かると野心をいだいたのかもしれない。
おれは親鸞の曾孫だから偉いと主張した覚如を世間は相手にしなかった(ザマアミロ!)。

ところが、7世のご存じ蓮如(れんにょ)が覚如の野望を実現することに成功する。
蓮如は教団を飛躍的に拡大させ、まんまと最高権威者の地位に就く。
注目したいのは、覚如も蓮如も「歎異抄」を闇に葬ったところである。
自由閲覧を禁じたのだ。
蓮如の御文(手紙)は平明でよくできていると思うが(親鸞以上!)、
種本(パクリもと)は明らかに非公開にした唯円の「歎異抄」である。
教えの系譜を整理すると、「法然→親鸞→唯円」である。
いちばん深く念仏信仰を理解したのは、あるいは唯円かもしれないとさえ思う。
しかし、親鸞の子孫は血統を理由にして甘い汁を吸いたかった(地位、収入)。
「歎異抄」を一度でも読んだら親鸞が教団設立など欲していなかったのがわかる。
つまり、お布施の無意味をはっきりと書いている。
だが、お布施を否定したら儲からないわけだ。
こうして偉大な念仏者である唯円とともに「歎異抄」の存在はなかったことにされた。

考えてみれば、親鸞の子孫というのは悪人ぞろいと言えなくもないわけだ。
親鸞は法然の大勢いる弟子のうちのひとりだったに過ぎない。
にもかかわらず、血を引くものは法然ではなく親鸞のほうを宗祖に仕立て上げ、
そのうえで血統を姑息にも声高に主張して代々最高権威者に就任して、
いまでさえも豪華な法衣を着てしもじもの信徒を見下し、
うまいものをたらふく腹に詰め込みながら得意顔でふんぞり返っているのだから。
さらに教えの勘どころは親鸞ではなくもっぱら弟子の唯円によっている。
そのくせ信徒には長らく唯円の「歎異抄」を読ませず、
正信偈などという悪文をありがたいものだと思い込ませて洗脳している。
こうして考えると唯円という人はたいへんな宗教的才能に恵まれたものの、
親鸞一族のせいで実力に見合う評価をいまでさえ与えられているとは言いがたい。
学者のなかには
唯円なぞなんの教養もない田舎坊主に過ぎなかったと主張するものがいるが、
下司の勘繰りをすれば利権団体の浄土真宗から裏金でももらっているのだろうか。
もしかしたら天才の唯円にほかの著書があったかもしれないのである。
それを親鸞の悪い子孫が歴史から揉み消したという可能性だってないとは言えない。

親鸞がやたら悪人ぶっているのはなんなのか少しわかったような気がする。
親鸞という男はやはりある種の才能があり、
おのれの血の穢(けが)れを自覚していたのではないか。血が穢れている。
息子の善鸞が出張先の東国でやらかしたハレンチな詐欺行為も、
よくよく考えてみればきっと親鸞の悪い血が息子の体内で騒いだのである。
曾孫の覚如の極悪人ぶりはスキャンダル好きの梅原猛氏のみならず、
石田瑞麿氏も東洋文庫の解説でこれでもかと暴き立てている。
室町時代における蓮如の教線拡大は、池田大作氏の折伏大行進のようだ。
5人の女体を欲望のままに犯しはらませ27人の子どもを世に出したのが蓮如だ。
そのどす黒い血を引く実如は率先して戦争を起こしている。
教如、準如兄弟の権力争いにも親鸞一族の血の穢れを見ることができる。
これだけ子孫がやばいということは、あるいは親鸞も悪いやつだったのかもしれない。
親鸞の主著は70歳を超えて書かれたものばかりだが、
若いころはかなりやんちゃをしたのではなかろうか。
「歎異抄」の巻末にわざわざつけたされた附録(過去に流刑された記録)を、
一生この恨みを忘れまいという親鸞の執念深さの現われと見るものもいる(梅原猛氏)。

親鸞が悪いやつなら弟子の唯円はどうだったか?
わたしは唯円もなかなかの悪(わる)だったのではないかと思う。
「歎異抄」には悪(わる)同士が心を通わせあっているような不気味な描写がある。
さて、「歎異抄」は唯円が師匠の親鸞から口頭で伝えられた秘伝と言ってよい。
ここでは公式書面には断じて書けない本音の信心が明らかになっている。
ほかならぬ親鸞だから教えられたという真宗一派の公式見解も間違いではないのだろうが、
才能ある唯円だからこそ引き出すことができた親鸞の言葉という見方も可能だ。
どういうことか。
「歎異抄」から親鸞の偉大さばかり発見するのはおかしいのではないか。
それはたぶんに学校教育および浄土真宗の洗脳結果なのである。
広く見てみれば唯円以外だれひとりとして親鸞思想の怖さをうまく伝えられていないのだ。
親鸞の著作物(「和讃」「末燈鈔」「教行信証」)は、
残念ながらいくら教団上層部がうまく洗脳しようがそれほど人を惹きつけない。
もし秘伝書の「歎異抄」がなかったら、浄土真宗はここまで発展しなかったのではないか。
浄土真宗の歴代トップが教団拡大のために多くの悪事をなせたのは、
あるいは「歎異抄」のおかげではないだろうかとも思う。

唯円の「歎異抄」でしか語られていない親鸞思想はけっこうあるようである(宿業思想等)。
親鸞自身は師匠の法然から教えられた内容を長期間かけて醸成して、
みずからの信心として結晶させた。
このため法然の教えと親鸞のそれは異なるところが少なからずある。
ならば、唯円にもおなじことが起こりうるのではないか。
唯円は親鸞から口づてに聞いた教えを長い時間をかけて血肉化した。
その結果が名文でつづられた「歎異抄」である。
だとしたら、「歎異抄」には親鸞とは異なる唯円独自の思想が入っていることもありうる。
あたかも親鸞が自分は法然の教えを伝えるものだと言いながら、
いつしか師匠とは異なる独自の思想を形成してしまったように、である。
こう考えると、「歎異抄」に救われた多くの人は、親鸞に感謝するのもいいが、
まずそのまえに筆者である唯円その人の価値をもっと認めなければならないことになる。
こんなとっぴなことを考えたのは、わたしが「歎異抄」で心打たれたような内容が、
どう目を凝らして見ても「和讃」や「末燈鈔」(手紙)には収録されていないからである。
もしやそれは親鸞ではなく、いまも不遇な唯円の思想ではないか。
代々威光を借りて甘い汁を吸ってきた親鸞の子孫が開祖を崇拝するのは当たり前なのだ。
だが、唯円はなんら血縁はないにもかかわらず、
親鸞のことをだれよりも愛し、そして深く理解したのである。
さらになんの利権も求めず、ただ親鸞の正しい教えを伝えんがために「歎異抄」を記した。

☆     ☆     ☆

いよいよ内容に入ろう。
「歎異抄」と言えば悪人正機説と丸暗記させられた方もいるだろう。
しかし、わたしが3ヶ月繰り返し読んで理解したところでは、
悪人正機は大した思想でもなんでもない。
そもそも悪だの善だのを問題にしないところに「歎異抄」のすごみがあるのだ。
ここに目をつけている人を解説書で見かけなかったが、
「歎異抄」のかなめは以下の引用部分ではないかと思う。

「聖人のおおせには、「善悪のふたつ総じてもて存知せざるなり。
そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、
よきをしりたるにてもあらめ、
如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、
あしさをしりたるにてもあらめど、
煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのことみなもてそらごとたわごと、
まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」
とこそおおせはそうらいしか」(後序)


たかだか人間ごときには善や悪はわからないよ、と言っているのである。
一見、善のように見えるものの如来(にょらい)からしたら悪かもしれない。
我われの目には悪のように見えるものも如来は善と判断するかもしれない。
この世のことはすべて、善悪をふくめて「そらごとたわごと」である。
この姿勢はみなさんもどこかでおなじみではないかと思う。そう般若心経である。
「歎異抄」の最後で唯円は親鸞の口を借りて一切空(くう)を説く。
我われもこの娑婆(しゃば)世界もなにもかも、
すべて目に見えるものは「そらごとたわごと(=空)」だと言うのである。
みなみな夢まぼろしのようなものである。
だが、ひとつだけ「まこと」があってそれは念仏である。
ならば、念仏とはなにか? 「歎異抄」は実に明確な定義をしている。

「念仏には無義をもって義とす、不可称不可説不可思議のゆえに、
とおおせそうらいき」(第十条)


念仏は人間には理解できない。
なぜなら称することも説くことも思議することもできないからだ。
我われの分別を超えたものが念仏だというのである。
ここまでを丁寧に整理する。
1「人間には善悪はわからない」
2「この世のすべてがそらごとたわごとゆえ」
3「ただ念仏のみぞまことである」
4「念仏=不可思議(わからない)」
→「善悪にとらわれずに不可思議な念仏を信じなさい」

一般的に仏教徒は悟りを求めるとされているが、
親鸞の教えにおける悟りとはいかなるものか?
この疑問への問いも、実にわかりやすく「歎異抄」に記されている。

「戒行・恵解ともになしといえども、
弥陀の願船に乗じて、生死の苦海をわたり、報土のきしにつきぬるものならば、
煩悩の黒雲はやくはれ、法性の覚月すみやかにあらわれて、
尽十方の無碍の光明に一味にして、一切の衆生を利益せんときにこそ、
さとりにてはそうらえ」(第十五条)


修行や知識は必要なく、だれにでも阿弥陀仏が船を出してくれるから、
それに乗って光でいっぱいの向こう岸に渡りなさい。
そして彼岸で大きな光明のうちに入ったときが悟りなのだよ。

「念仏=彼岸に渡れ!」

この彼岸のことを浄土真宗では浄土と言っているのである。
仏教ではこちらの岸(この世)から向こうへ岸へどう渡るかによって宗派がわかれるのだ。
出家して厳しい修行をしながら渡るのもいいが、
その方法では少数者しか悟れないため、小乗仏教(小さな乗り物の教え)と呼ばれてしまう。
親鸞の教えは大乗仏教である。
念仏を唱えたら彼岸に渡してくれる大きな船が来てくれるという。
和讃でもおなじことを主張している。

「弥陀 観音 大勢至
大願の船に乗じてぞ
生死(しょうじ)の海にうかびつつ
衆生をよばふてのせたまふ」


浄土真宗の世界をわかりやすくまとめておく。

☆「此岸→(大河)→彼岸」(仏教の基本)
☆「相対→(大河)→絶対」
☆「善悪→(大河)→念仏」
☆「娑婆→(大河)→浄土」
☆「無明→(大河)→光明」
☆「自力→(大河)→他力(自然)」
☆「迷い→(大河)→悟り」
☆「法蔵菩薩(人間)→(大河)→阿弥陀仏(永遠仏)」(本願)


たぶんいちばん最後のがわからなかったのではないかと思う。
正直言うと、わたしもこれはなかなかわからなかった。
おのれの「わからない」を徹底的に突き詰めたからわかりやすく説明できると思う。
どうかついてきてくださいませ。

法然や親鸞の浄土教では釈迦ではなく阿弥陀仏という永遠仏を信じる。
何度も生まれ変わりこの世に仮のすがたで登場してくれた阿弥陀仏であるが、
たまたま2千5百年前インドで仮のすがたをもって現われたのが釈迦だという。
さて、この阿弥陀仏というのはなにか?
科学的に見たらむろん人間の創造したフィクションだが、
阿弥陀仏にまつわる物語を書いた大無量寿経というお経があるのである。
そのお経によると――。
おおむかしに法蔵菩薩という人間がたいへん苦しい修行をして阿弥陀仏になった。
このとき誓いを立てたというのである。
もし人間に過ぎぬ自分が仏になることができたら以下の願いもかなうであろう。
原文は、「以下の願いがかなわないならば自分は仏にならない」だが、まあおなじだ。
おおむかしに人間が願ったのである。
まず人間でも仏になれることを願ったのが偉大なのだろう。
人間でありながら人間を超えようとした、言わば超人が法蔵菩薩である。
「このままではいけない」「かくありたい」と願う力が阿弥陀仏信仰の根本だ。
現実を変えようと願うフィクションの力を結晶させたのが念仏と言ってもよい。
さて、法蔵菩薩は四十八の願を立てたが、
そのうちのひとつが、もし自分が仏になったら、
だれでもが念仏するだけで仏の国(浄土)に入れてやろう、というものだ。
いまはもう法蔵菩薩は阿弥陀仏になっている。
だから、みな念仏するだけで浄土へ行けるというのである。

バカらしいおとぎ話のように感じられた方も多いのではないかと思う。
しかし、これを人間が嘘で辛い現実を乗り越えようとした話と見ると物悲しくはないか。
全人類に対するあわれみのようなものを感じはしないか。
現実はむかしもいまもなんにもないのである。救いなんて人間世界にあるはずがない。
しかし、人間はこの苦界を生きていかなければならない。
そのとき人間の武器になるのは嘘しかないのである。嘘で救われるしかないのだ。
おおむかし深く人生に傷ついた人間が、人が仏になるという嘘を考えついた。
つぎに、こんな苦しい世の中ではない仏の国があるという嘘を創る。
よし、人の名前は法蔵菩薩にしよう。
仏さまはあの美しく輝く夕日(無量光)のような存在であってほしいから、
阿弥陀仏(無量光仏)と名づけよう。
法蔵菩薩が阿弥陀仏になるとき誓いを立てたということにしたら、
物語が華やぐから四十八の願いをためしに考えてみよう。
現実は苦しいことばかりでなんの救いもないけれど、
もしこうだったらどんなにいいかと苦悩者が現実ではない世界を強く願う!
その結果として創作されたのが大無量寿経である。
本当は嘘なのだが、嘘であるお経を真実だと言い放ったつわものがいたのである。
この嘘を本当だと信じるときに人間は救われたような思いをいだくのである。
わかりやすく言えば、時代劇で悪が裁かれるのを見て救われるようなものである。
山田太一ドラマを見て感動するのもおなじだ。
宮本輝の小説を読んで感激するのもそうだ。みな嘘に救われているという点では等しい。
宗教がドラマや小説と異なる点は、みんなで一斉に嘘を本当だと信じるところだ。
小説の感動はすぐに薄れるが、宗教はそれを防ぐために儀式を導入する。
毎日のように嘘を本当だと信じたら(自分を騙したら)生きやすくなる。
しかし、嘘は本当に嘘だろうか?
そもそも我われが本当(現実)だと思っているものももしや嘘ではないか。
大乗仏教の般若経典はすべては空(くう)と説く。みんな嘘っぱちだ(一切空)。
これはみんな本当だということでもある。
だとしたら、大無量寿経も真実ということにはならないだろうか?
阿弥陀仏信仰は空(くう)思想と以上のようにからみあって、
絶対的真理の装いを得ることになるのだが、おわかりいただけましたか?
さらにわかりやすく書きますね。

1「人間=苦しい→嘘を考える」
2「妄想=夕日のようにあたたかい仏さまがいたら!」
3「法蔵菩薩→阿弥陀仏」(大無量寿経)←妄想
4「一切は空(くう)だ」(般若経)
5「嘘=空(くう)=本当」
6「大無量寿経は真実」
7「人間←(阿弥陀仏)←浄土」
8「念仏すれば救われる」

とまあ書いてみたが、人は合理的になにかを信じるのではない。
おそらく信じるとは、この人は本物だと思い込んだ人に賭けることではないか。
合理的に正しいから信じるという信仰もあるが、それは弱い。
法を信じるのは弱い。なぜなら所詮は感情の入っていない理念だからである。
おそらく、法然の信仰は法を頼りにしていたから親鸞よりも弱かった。
たしかに善導や源信を信じていたのだろうが、どちらも故人である。
生きた教えを伝えられたわけではない。やはり面授の教えがいちばんだ。
法を合理的に考えるよりも、この人に一か八かで賭けようという信仰がもっとも強い。
このため法然に一か八かの賭けをした親鸞の信仰は強力だ。
まったく同様に面授の弟子であった唯円は親鸞という人に賭けた。
結果、「歎異抄」という宗教文学の最高傑作が生まれたのである。
親鸞は自分のもとを訪ねてきた唯円もふくむ弟子たちにおのれの信仰をこう説明する。
これが本物の信仰なのだろう。

「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、
よきひと(=法然)のおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。
念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、
地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもて存知せざるなり。
たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、
さらに後悔すべからずそうろう」(第二条)


自分は師匠法然の教えに賭けたのだと言っているわけである。
もし法然の教えが誤りなら、地獄に落ちることもいさぎよくよしとする。
いままでどこかで存命の作家の信者にはついていけないものを感じていたが、
いざ山田太一信者や宮本輝信者になったら救われるところがあるのかもしれない。
話はそれるが、創価学会がうたう「師弟不二」は最強の信仰形式なのだろう。
さて、一切空(「火宅無常の世界は、よろずのことみなもてそらごとたわごと」)
ならば、なにかを真理だとして全身で賭けるのが信仰になるのだろう。
真理かどうかはわからないが、真理だと思って賭ける。一か八かで飛び込んでみる。
唯円は親鸞のどのような言葉に自分を賭けたのか。

「よきこころのおこるも、宿善のもよおすゆえなり。
悪事のおもわれせらるるも、悪業のはからうゆえなり。
故聖人のおおせには、
「卯毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの、
宿業にあらずということなしとしるべし」とそうらいき」(第十三条)


これは究極の危険思想だと思う。
いいことをしようと思うのは、過去世で善を積んでいたからである。
反対に悪いことをしてしまうのも、過去世の悪業の働きだ。
ほんの小さな罪でさえも過去世の行為の結果(=宿業)でないものはない。
さらに親鸞は唯円にぶっ飛んだことを言うのである。
極楽往生のために人を千人殺せと命令されたら実行できるか?
唯円は、とても自分にはひとりとて殺すことはできないと答える。
ほうらわかっただろうと親鸞は宿業の思想を説く。すべては宿業ゆえなのである。
宿業がなかったらば、人を殺そうと思っても殺すことはできない。
反対に殺そうと思わなくても宿業があると人を千人殺してしまうこともある。
善悪のことはみなみな宿業とあきらめ、ただただ念仏を唱えさえしたら、
悪人救済こそ阿弥陀仏の本願なのだから、かならず浄土へ行くことができる。
これを本当に信じてしまうと近代刑法制度がおかしくなってしまう。
無差別殺人をやらかすのは犯人のせいではなく宿業のためとなる。
たとえ逮捕されて死刑になったとしても、
犯人が改心して一回だけでも信心を込めて念仏していたら浄土に往生している。
この親鸞の言葉は真実かどうか。
唯円はこれを絶対的真理だと信じているから「歎異抄」に記しているわけだ。
わたしはどうかと言うと、かなりところまで真理ではないかと思っている。
日によっては、これが絶対的真理ではないかとさえ思うことがある。
しかし、もしこの教えが正しいなら好きなだけ悪いことをしていいことになる。
いくら悪いことをしようと思っても宿業がなければできないわけだから。
たとえ悪いことをしたとしても過去世の悪業のせいだから仕方がなく、
それでも阿弥陀仏の悪人救済の本願を信じて念仏すれば往生できる。
こういう思考法で悪いことをする信者が東国には大勢現われたのだという。
これは「本願ぼこり」と呼ばれていた。
本願をほこってわざと悪いことをすることだ。
さて、面授の弟子たる唯円は、
親鸞が「本願ぼこり」ついてどう言っていたかを書き記す。

「願にほこりてつくらんつみも、宿業のもよおすゆえなり。
さればよきことも、あしきことも、業報にさしまかせて、
ひとえに本願をたのみまいらすればこそ、他力にてはそうらえ」(第十三条)


公式書面たる「末燈鈔」(手紙)ではさんざん悪の禁止を親鸞は訴えているのである。
しかし、唯円は炎のような信念を持って宣言する。
師匠の親鸞いわく、「本願ぼこり」ゆえの悪行もまた宿業のためである。
本願にほこってよい。
善悪というのは過去世における業の報いだから仕方がないと思い切って、
ひたすら阿弥陀仏にすべてをお任せするのが他力なのである。
善悪や禍福は、過去世の業の報いだからもうどうしようもない。
このどうしようもないを認めるのが他力なのだろう。
そして、どうにでもなりやがれと明るくすべてを阿弥陀仏に託すのが他力である。
阿弥陀仏に南無(お任せ)するのが念仏である。
自力を放擲(ほうてき)するとだんだん明るくならないだろうか。
不安や心配も少なくなり、気分がすっと楽になる。たぶんこれが念仏の功徳なのだろう。
俗な言い方をすれば、南無阿弥陀仏とは「心配しても始まらないよね」だ。
または「うじうじ悩んでも仕方がない」もそうである。

他力=「どうしようもない」→「どうにでもなりやがれ」

「すべてよろずのことにつけて、往生には、かしこきおもいを具せずして、
ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもいいだしまいらすべし。
しかれば念仏ももうされそうろう。
これ自然(じねん)なり。わがはからわざるを、自然ともうすなり。
これすなわち他力にてまします」(第十六条)


念仏しようと思って念仏するのではなく、自然に出てくる念仏がいいと言うのである。
阿弥陀仏の別名は不可思議光如来である。意味は、不可思議な光の仏さまくらいか。
念仏信仰とは、「わからない(不可思議)」を信じるということなのだろう。
将来どうなるか絶対にわからない。死んだらどうなるか絶対にわからない。
しかし、絶対に「わからない(不可思議)」からこそ信じるに値するとも言いうる。
なぜなら不可思議には人間を超える絶対の存在が透けて見えるからである。
不可思議を信じていたら人生でいろいろ不思議なことが起こったりもするのだろう。
よく考えてみたらいまこうして生きているだけでもなにやら不可思議だと思えなくもない。
さまざまな偶然の積み重ねで不可思議にもいまこうして生きているわけである。
この不可思議を信じようというのが南無阿弥陀仏なのだろう。
つまり、人間を超える大きなものを信じる。わからないからこそ信じる。
徹底的になにもかも「わからない」ということだけ理解する。

「今生に、いかに、いとおし不便とおもうとも、
存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし」(第四条)


助け合いもいいが、だれかを助けようとしても思うように助けることはできない。
善意がかえって迷惑になることもある。
そもそも善意が本当に善なる働きをするか人間にはわからない。
いつの時代も人間関係は難しいのだろう。

「つくべき縁あればともない、はなるべき縁あれば、はなるることのある」(第六条)

これも他力思想を端的に説明した名文句だと思う。
人間関係は思うようにならない。
いくら努力をしても大枚をはたいて婚活をしても結婚できない人は結婚できない。
友人は作ろうと思ったからといってできるものではない。
なんとか結婚にこぎつけてもすぐに離婚してしまうようなこともあるだろう。
そして、それらはすべて人間の努力とはいっさい関係ない。
そうかと思ったら、もう老年にさしかかった独身男性のもとに
とても相性のいいパートナーが現れることがないとも限らない。
どんなに気を遣って接していても10年来の親友と絶交することもある。
人間関係を動かしている原理をひと言で言えば「わからない」になろう。
縁は人間にはわからない、不可思議だから、
ご縁と「ご」をつけて重んじておいたほうがいいのだろう。

「一紙半銭も、仏法のかたにいれずとも、他力にこころをなげて信心ふかくは、
それこそ願の本意にてそうらわめ」(第十八条)


一銭も坊さんにお金などあげなくても他力を信じていたらそれでよろしい。
親鸞がこう言っていたと弟子の唯円が書き残しているのである。
お賽銭をいくら投げ込んでも、高額のお布施を支払っても、大した意味はない。

「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」(第六条)

親鸞はいまのような巨大教団など作る意図はまったくなかったのである。
逆説的にものごとは思うようにならないことを証明してしまったのかもしれない。
親鸞のまったく意図せぬ浄土真宗の隆盛こそ他力の証拠とも言いうる。
さらにすごいことを親鸞は言っている。

「このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、
またすてんとも、面々の御はからいなりと云々」(第二条)


念仏信仰をするもしないも、みなさんのご自由ですよ。
自分が絶対正義でみな従えというのとは正反対の態度である。
深々と他力を信じていたから、このセリフを言えたのかもしれない。
仏縁があれば信じるだろうし、なければ離れていくだろうから、
それはもう親鸞のはからいを超えた「どうしようもない」ことなので、
「どうにでもなりやがれ」と思ったすえに「面々の御はからいなり」と言う。

他力=「わがはからわざる」=「面々の御はからいなり」

実のところ親鸞は、和讃では念仏を信じないと地獄に落ちるぞ、
と繰り返し言っているのである(「新潮日本古典集成」P90,P129,P156)。
果たして弟子に「歎異抄」を書かせたところの親鸞が偉かったのか。
それとも親鸞の名のもとにおのれの他力信心を「歎異抄」に託した唯円がすごかったのか。
結論はここには書かず、ただそれは「面々の御はからいなり」と書いておこう。
「わがはからわざる」ところである。

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