「人間・この劇的なるもの」

「人間・この劇的なるもの」(福田恆存/新潮文庫) *再読

→福田恆存の代表的評論。
だいぶ本書に入れ込んだ時期もあったけれども、覚えるくらい読み返し、
かつこちらもそれなりに人生体験と読書体験を積んだため、
ようやくこの本の意味がわかったように思う。
「人間・この劇的なるもの」は、福田恆存の書いた日本人向け聖書のようなものだ。
西洋への劣等複合(コンプレックス)が異常なほど強かった著者は、
日本にキリスト教の神がいないことに我慢ならなかった(仏はいるのですがね)。
とんでもないことだと思った。不安で仕方がなかった。
このため書かれた「人間・この劇的なるもの」は著者の信仰告白である。
なかには本書を絶対的真理だと思う人がおられるのは、そういう事情による。
(わたしも一時期そうでした……)
しかし、これは福田恆存の物語である。わかりやすくいったら「おはなし」だ。
小説のみならず評論もまた物語なのである。

以下、引用をいっさいせずに自分の言葉で本書をわかりやすく説明してみよう。
結局のところ、福田恆存はなにを言いたかったのか。
それは「大きなものを信じましょうよ」ということだ。
われわれ人間存在を超える大きなものはかならずやあるはずである。
大きなものの全体像はわれわれ人間には把握することができないが、
だからといってどうしてそれが存在しないと言い切れようか。
大きなものの象徴は死である。
死は人間には理解できないが(死ぬまで死はわからないでしょ?)、
にもかかわらず、たしかに死はあるとしか言いようがない。
大きなものとは、この死のようなものである。
うまく言葉にはならないが、
言葉にならないからこそ大きなものはあるとは考えられないだろうか。

大きなものとは、たとえば春夏秋冬の四季である。
われわれは大きなものに包まれているではないか。
大きなものとは、たとえば芝居の台本である。
われわれは大きなものから役を与えられて、それを演じていると思ったらどうだろうか。
そう思えば、どんな小さな役にも演じる喜びを感じ取れるのではないか。
よしんば、悪役だとしても仕方がないではないか。
なぜなら悪役がいないと、芝居=大きなものは成立しないのだから。
世の中は不平等である。いい思いをするものがいれば、一生不遇のものもいる。
しかし、残念な人生でも、そういう役を与えられていると
大きなものを信じることができたら、そこに生きがいが生じはしないだろうか。
問題は知ることではなく、信じることだ。大きなものを信じることだ。

ならば、どうしたら大きなものを信じられるのか。
われわれがいまのような存在であることに思いをはせればよろしい。
どうしてブサイクなのか。どうしてブスなのか。どうして貧乏なのか。
どうしてバカなのか。どうして出世できないのか。
どうして自分はいまこうであるような自分であるのか。
これはほとんど自分のせいではないでしょう。
だって、人間は親を選んで生まれてくるわけではないのだから。
われわれはなにゆえ現在のこのような状態であるのか突き詰めて考えると、
大きなものが存在するという結論に行き着くほかないではないか。

人生は絶対に思い通りにはならない。
いま絶対という言葉を使ったが、絶対に思い通りにならないならば、
それら不如意をわれわれに与えたもう大きなものが絶対にあるのではないか。
思い通りにならないことを深く味わうことで大きなものを少しでも感得できないか。
人生訓のような物言いをすれば、人生は思い通りにならないからおもしろい。
では、なぜ人生はうまくいかないのか。他人がいるからである。
われわれはお互いを鏡として自分がどういう存在か知ろうとしている。
だが、それではいつまで経っても自分はよくわからない。
大きなものを鏡として自分を見たら、もっと自分が見えてくるのではないか。
大きなものは目に見えないからそんなことは無理だと言うかもしれないが、
われわれは見えないものでも信じることはできるのではないか。
百人の盲人が巨大なゾウのあちこちを触ったというあの仏教説話のように、
われわれには見えていない大きなものがあるとは考えられないか。
いや、考えてはならぬ。大きなものがあると信じられないだろうか。

人間を超える大きなものがあると信じられたらば、生き方が変わるだろう。
なによりも死への恐怖が薄れるではないか。不安が減少するではないか。
たとえわれわれがかりそめ死んだとしても、大きなものがあるならば、
その死は断じて犬死ではない。
ハムレットは劇中なにゆえに死ぬのか。「ハムレット」劇を完成させるためである。
だとしたら、われわれの死もまた大きなものを完成させる前段階ではないか。
われわれの死は無意味ではないということにならないか。
死のみならず、大きなものを信じられたら、すべてが意味を帯びる。
喜びも悲しみも大きなものより生じると信じたとき、
われわれはその悲喜をあたかも名優のように深く味わうことができるのではないか。
喜びのみならず悲しみにもまた固有の一回かぎりの味わいがある。
深く悲喜を味わうということ、それが生きるということではないか。
人生は喜びよりも悲しみのほうがはるかに多いが、しかし、
味わうということを意識したら悲しみにもまた生きがいを感じられないか。
悲しみを味わう、悲しみを演じる、それが生きるということではないか。

われわれは大きなものから生まれ、大きなものへと帰っていく。
われわれが生まれるまえから大きなものがあったと信じられたらば、
われわれの死後もまた大きなものが継続していくと信じられないか。
死は大きなものよりもたらされる。
この大きなものは本書で「全体」「自然」「季節」「小さな花」などと表現されている。
「小さな花」が咲き枯れることならば、きみも信じられやしないか。
それは季節を信じるということだ。自然を信じるということだ。
自然の一部である人間を信じるということだ。
冬が終われば春が来るということだ。死は終わりではないということだ。
ままならぬ生死に挟まれた人間を超える大きなものを信じるとはそういうことだ。

COMMENT









 

TRACKBACK http://yondance.blog25.fc2.com/tb.php/3135-12fe39b7

どうやって確かめる?気になる男性に恋人がいるか探る方法10個【前編】  恋愛コラムリーダー ~Love Column Reader~  2012/11/21 13:05
「この人と付き合いたい!」と思ったとき、気になるのは相手が今フリーかどうかですよね? 婚活や合コンなど、明らかに異性を求めて集まる場所でない限り、相手のプライベートを知...