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山田太一講演「福田恆存を読む」

9月30日紀伊国屋サザンシアターにおもむく。
「福田恆存とその時代」なる催しのなかで山田太一先生の講演があるからである。
以下メモと記憶をもとにして講演をできるだけ忠実に再現するが、正確性に自信がない。
制限時間が短かったからでしょうか、山田先生はいつもよりもかなり早口でした。
このため先生の意図とは違う採録もあるかもしれません。
7割程度しかわが耳は聴き取れていないような気がします。
以上の事情をよろしくご了承のうえ、どうかお目通しくださいませ。

山田太一講演「福田恆存を読む」――。
この歳になりますと、歳相応に周囲の人が死ぬわけです。
友人知人が死んでいきます。
こういうことを言うのもどうでしょうが、こっちの都合も考えずに死ぬわけです。
ぶしつけに死ぬとでも言いましょうか。ぶしつけと言えば、
この場に僕のようなものが出てくるのもぶしつけと思われるかもしれませんが。
生前の福田恆存さんと面識はありません。
福田さんが亡くなったから、僕がこういうところに出てこられるのかもしれません。

大学のとき、横光利一で卒論をやろうかと思っていたんです。
そのときに福田さんの横光利一についての評論を読みました。
正直、ぶっとんだんです。すごいことを書く人だなと思いました。
というのも、福田さんは横光利一を立ち直れなくなるくらいやっつけているんです。
横光利一という人は、一時期まるで神様のように人気がありました。
しかし、急速に人気を失ってしまう。
なぜかが福田さんの論文を読んでわかったような気がしましたね。
もう横光利一の全集を読む気などなくなりました。

福田さんはどういう批判をしていたのか。
当時の文学というのは、ヨーロッパで新しい潮流が起こる。
すると、日本でもおなじような潮流が起こる。おなじようなものが書かれる。
結局は日本の場合、理念だけなんですね。理念だけで実践がない。
しかし、実作や文学というものは、質が問われているのではないか。
その人間の質、生まれてからいままで生きてきたものの積み重ねが重要ではないか。
横光にはそれがない。
横光利一は新時代の旗手のように言われているが内実は空っぽだ。
横光の小説の主人公はよく女からもてる。
いつも女がつきそっている。あれは自分に頼るものがないからではないか。
皮肉を言えば、主人公のそばにいる女が、横光の読者みたいじゃないか。
横光利一は理念だけで文学的達成がない。

横光利一の「旅愁」についてはこんなことを言っています。
あの登場人物は、ヨーロッパでは洋服を着てオペラなんぞに行っている。
でも、日本に帰ってきたらちゃっかり和服を着てお能に繰り出す。
あれはおかしいだろう。
本当はヨーロッパにぜんぜん溶け込んでいないだろう。
劣等感のないのがおかしい。ちっとも恥ずかしさがないではないか。
関連して、こういう話もありますね。
ヨーロッパを歩いていたら、向こうから醜い小男がやってくる。
だれかと思ったらガラスに映った自分であった。
夏目漱石の有名な話です。

福田さんの言い分は、
近代のヨーロッパ文学を本当に通過していたら、ああいうものは書けないだろう。
ヨーロッパの近代を経験していないから、あんなものを書くんだ。
近代というのは、自分に厳しい。自己批評が基本としてある。
親や友人、恋人も信じない。
愛、友情、信頼といったものを当てにしない。すべてを疑ってかかる。
疑いぬくことで甘さを排除していく。それが近代文学のありかたではないか。
福田さんはこういうことを言うんですね。
僕はまったくそうだと思いました。横光利一は通俗小説ではないか。

現代は、ものをよく観察することが重要だ。
冷静や観察といったものを志向しなければならない。
こういう風潮があったんでしょうね。
冷静に観察するといえば、チェーホフを思い出します。
チェーホフは厳しい自己批評を持つ、甘さのない作家でした。
しかし、そんなチェーホフにも思いを吐き出している作品があります。
「ワーニャ伯父さん」です。
ここでは大学教授が「インチキだ、空っぽだ」と批判されています。
これはかならずしもチェーホフ自身の考えではないのでしょうが。
批判された大学教授は言い返します。
「このくらいのエゴイズムは許されてもいいんじゃないかな」

一方で言い返さないのは、福田恆存さんの戯曲「龍を撫でた男」です。
この主人公は批判されても、無理もないと思ってしまう。
自分に厳しいのでしょう。ずっと我慢する。
そうして最後に発狂してしまうという話です。
おなじく福田さんの戯曲に「キティ台風」があります。
これは福田さんの「人間は劇的なるものを求める」というテーマを芝居にしたものです。
人間は、劇的に生きようとする。ドラマを生きるのが人間なんだ。
死をもって完結とするような生き方がある。
かならずしも金儲けするだけが生きることではない。
「人間・この劇的なるもの」ですね。
まあ、これは福田さんの「おはなし」なんですが、
「キティ台風」の裏にはこういう人間観があります。
「キティ台風」の物語のすじ道を追うと、最後で人がわけがわからなく死んでしまう。
「チェーホフの手帖」だったか。こういう話がありましたね。
もう処刑されることが決まっている人がいる。
当人もその日に自分が死ぬものだと思っている。
しかし、処刑される数日前に彼はインフルエンザで死んでしまう。
人生は、そんなものだよという。
「キティ台風」もそういったことを書きたかったのではないかと思います、

人間というのは、認識して、それを言語化するものだ。
認識して言語化する。
福田さんとおなじように認識と言語化にこだわったのは大岡昇平です。
福田さんと大岡さんは似ているところがあると思います。
大岡昇平に「武蔵野夫人」という恋愛小説がありますけれど、
これはもう本当に心の動きをすべて説明してしまうのですね。
僕なんかは小説、劇、ドラマといったものは投げ出すものだと思っていますが。
受け手に任せるところがあると言いましょうか。
相手に解釈をゆだねるようなところがあります。
しかし、大岡さんや福田さんは違うんですね。
それだけ認識に対するプライドが強いのでしょう。
思いがけないことなんてない。ぜんぶ認識で封じ込めてしまう。ロマネスクがない。

(山田太一先生が「武蔵野夫人」の一節を朗読する。
その一節に「媚態(びたい)」という言葉があって――)

「媚態」と書かれてしまうと意味が限定されてしまうんですね。
読者の想像する余地が残されていない。
それだけ大岡昇平は、認識を重んじていたのでしょう。福田さんもそうです。
自分の認識で世界を覆(おお)ってしまおうとしている。
それほど認識が強い。
しかし、福田さんはそれだけじゃいけない、とも思っていたようです。
認識だけではいけない。
これは福田さんのお生まれが下町で、そういうところの人とも通じ合いたい、
というような思いがあったからなのでしょう。
理念だけではいけないというような思いがあったのではないでしょうか。
言語化できないものを重んじたいという考えもあったように思います。
ここから平和論批判や国語改革問題につながっていったのではないかと思います。
言語というのは、時代とともに変わっていきますでしょう。
これをあるところで知的に縛ってしまうことは……(以下、聴き手が未熟ゆえ意味不明)。

話は変わりますがサルトルは、いまどきサルトルもないでしょうが、
サルトルなんかも思念の人、理念の人だったように思います。
しかし、そのサルトルが同時に人相学を研究していたというのですね。
どこかで理念ではないものを求めていたのではないでしょうか。
それぞれの美醜のようなものは、
あるいはなにか普遍へとつながっているのかもしれない。
神はいないから、善悪の基準のようなものはない。
しかし、美醜があるではないか。
美醜というのは、内面の美しさを現わしているのではないか。

理念を揺さぶるものを欲していたのかもしれない。理念をくつがえすもの。
たぶん、福田さんがロレンス、ロレンスと言い出したのはこのためではないでしょうか。
ロレンスは神がいないというところからセックスを重んじるようになります。
この影響で、セックスが生きる幸福だというようなことを福田さんはおっしゃる。
たしかにセックスは理念が関係しないですね。
でも、福田さんはセックスが強そうじゃない(場内笑)。
西洋のロレンスとおなじことを言うけれど、しかし福田さんはセックスが強そうではない。

演劇というのもそうなんですね。
お客さんが入ったときに、がらりと変わるものがあります。
あれはたしかに言語化できないなにものかであるような気がします。
僕もわずかながら芝居をやりましたが、
お客が入ったときの芝居というのは本当にすごいのですね。
稽古のときとまるっきりおなじはずなのにまったく異なる。
あれはたしかに理念から外れた強さといったようなものがあります。
理念を超えたもの――ロマネスクですね。
ロマネスクがないと味気ないじゃないですか。
認識の喜びなんてたかが知れていると僕は思う。

ロレンスはセックスと言ったけれども、子どもを産む、育てるというのもそうですね。
子どもを育てるのは、理念とは相容れません。
いくら子どもに正しいことを言ったって、聞いてくれないわけですから。
子育てのようなもので、理念はだいぶ鍛えられるような気がします。
もし本当のものがあるのなら、きっとそういうところにあるんじゃないかなと思う。

まだまだ話すつもりでたくさん準備をしてきたんですが、時間が来てしまいました。
まあ福田さんは膨大な著作のある人ですから、
はじめからこんな短時間で要約できるはずがないのですけれど。

福田さんの晩年の日記が、「某月某日」として掲載されています。
「新潮45」という雑誌です(何年何月号かは聴き取れず)。
脳梗塞で倒れたあとの日記だったのではないかと思います。
すごいことが書いてあるんですね。
大岡昇平の小説「俘虜記(ふりょき)」は、あんなものは嘘である。空々しいことだ。
大岡さんと福田さんは友人でしたから……あれは友人じゃないのかな、
しかしともあれ強いつながりを持っていましたから、
よくこんなことを書くなと思いました。
あれは大岡さんが亡くなっていたから書けたのかもしれませんが。
その「某月某日」の冒頭には、昨今の言葉の乱れへの嘆きが書いてあります。
福田さんは国語改革運動をしましたけれど実らず、
このような帰結に終わったことに対する悲しみがあったのでしょうか。
それから「俘虜記」の批判をするんです。
ご存知でしょうが、あれはレイテ戦の体験を書いた小説です。
主人公の日本人兵がひとりくさむらに潜んでいると米兵が複数やってくる。
はじめのひとりはまだ若い米国人兵だ。
肌の色が美しくて自分はどうしても鉄砲を撃つことができなかった。
自分はこうしてひとりを助けた。だから、彼の祖国の母親に感謝されてもいいだろう。
こういうことが書かれているわけですね。
それを福田さんは「嘘だろう」とやっつけている。
頬のピンク色がどうのときれいごとを言うなよ。
おまえが銃で撃たなかったのは、単に死にたくなかっただけだろう。
というのも、米兵はひとりではありませんので、
撃ったらひとりは殺せても見つけられて逆に殺されるわけですから。
僕は福田さんの「某月某日」を読んで、まったくそうだと思いましたですね。
大岡さんの言い分もわかるんですよ。
あれは時間を経てから書いていますので、
リリシズムで作ってしまったようなところもあるのかもしれません。
しかし、福田さんの批判を読んでまったくそうだと思った。
あれは福田さんの処世で長いあいだずっと黙っていたのでしょうかね。
「俘虜記」が出たとき、みんな感動したんです。僕も感動しました。
しかし、福田さんの批判を読むと、どうしてあんなに感動したのかと思いますですね。

福田恆存さんは、いつもぎらぎらと本当のことを言っていた人という印象です。
いま生きていたらなにを言うか、とても気になります。
福田さんは平和論批判のとき、みんなに悪口を言われました。
僕なんかは福田さんのほうが正しいんじゃないのと思いましたが、
そんなことを言える身分ではなかったので。
しかし、当時の後ろめたさのようなものがいまもありまして、
福田さんに関してなにか話してくれと頼まれたらなるべく出るようにしています。
今回の話はオマージュのようなものです。


(後記)
繰り返しますが、聴き手が未熟なため誤解した部分がかなりあるかと思われます。
先生のお話を書き写しながら話者の意図がわからないところも正直ありました。
ひとえに聴き手の無知、不勉強ゆえです。ここに謝罪いたします。
しかし、山田太一先生の講演を目当てに台風のなか行ったらわずか30分。
お金も交通費をふくめたら2千円以上の出費。
もう少し山田太一先生のお話をうかがいたかったというのが本心です。
ちなみにお偉い学者先生がたのパネルディスカッションは90分でした。

COMMENT

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02/20 20:13
. comment 大変面白く読みました。4
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02/20 20:13
. comment 大変面白く読みました。
YO URL @
01/21 20:19
ありがとうございます. comment 講演筆記、メモし、アップロウドしていただきありがとうございます。福田さんと山田さんについて考えるための大変貴重なよすがとなりました。








 

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