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「脳死は、死ではない」

「脳死は、死ではない」(梅原猛編/思文閣出版)

→脳死が死であるかどうかは、わからない。
答えは人それぞれでいいような気がする。
もとより、全体としてはそんな悠長なことを言っておられず、
統一的な見解を設ける必要があったがゆえに、
本書の出版当時(1992年)脳死についての議論がわきあがったのでしょうが。
わたしは臓器移植をしてまで長生きしたくない。
そういう疾病にかかったならば、運命や宿命だとあきらめて死んでいくつもりだ。
しかし、これはいまのわたしの考えである。
この先、奇跡が起こってちっぽけな成功でも味わったら、
うってかわって生に執着するかもしれない。
万が一、結婚することになり子どもが生まれ、その子どもが難病だったら、
あっさりと脳死を死と認め、臓器移植を絶対支持するかもしれない。
結局、人間の意見はその人の体験によっていちいち左右されるもので、
かりに時間経過とともに「ぶれても」一向に構わず、
というかむしろ人間なんてそんなものだと思う。そんなものだ。

本書で議論されていることで、まったくそうだと思ったのは、
医学はどうしてああまでに「あきらめ」や「死」を敵とするのかわからないってこと。
子どもが授からない母親というものがいる。
代理母をどうするかという問題が生じる。
ある医師が本書で、これはあきらめるべきだと言っていたが、完全に同意する。
なにゆえ医学は「あきらめ」を毛嫌いするのだろう。
世間的評価の高い医者という職業に就けたのはあきらめなかったから、
と信じるものが多いからだろうか。
あきらめるしかない宿命のようなものは医学とは相容れないのか。
人はみな死ぬわけで、要は早いか遅いかの差なわけである。
なんとしても死を防ごうと考えると、とんでもないことになる。
この国の平均寿命は高いが、いったいどのくらいの割合が寝たきりなのか。
意識もない寝たきり老人は死んだほうがましなのではないか。
なにがなんでも生きていれば、それでいいのだろうか。
しかし、植物だって生きているだろうという本書における梅原猛氏の指摘には一理ある。
可能ならば一律に生と死を定義するのではなく、
それぞれが家族をふくめてそれぞれの決断ができればいちばんいいのだろう。
めいめいがそれぞれの体験から「私の死」「家族の死」を決めるのが本当なのだろう。

結局のところ、意見の相違というのは体験の違いなのかもしれない。
意見が異なっているように見えて、実のところ体験が響いているのである。
やはり重いのは人生体験だが、読書体験程度でも意見の相違には関係する。
とはいえ、読書体験は軽いだろう。
学生の意見がどれも聞くに堪えないのはこのためではないか。
個性的な意見を述べる人は、それだけ自分の体験にこだわっているのだろう。
相手の意見を尊重するとは、他人の人生体験を重んじるということだと思う。
他者の体験したことはわからないと認めることから対話が生じるのかもしれない。

最後に信者の習性として本書からも八方美人の河合隼雄さんの言葉を引いておく。
いまふと気づいたが、河合さんは八方美人というよりも、
逢う人すべての意見=体験を自分の実体験とおなじように重んじていたのではないか。

「文学でも、宮沢賢治のまねをしても、
やはりあれだけのものは書けないということは、
やはりその人のすごい体験が入っていないということなのですね。
体験した人は、なんとなくすごい説得力をもつのですよ。「確かだ」というね。
そういう意味では、臨死体験をした人は、もう死のすれすれまで行っているから、
すごく不思議な体験をして帰ってきたわけで……。
おもしろいのは、そういう意識の状態を変えるためにLSDなど薬を飲んだりすると、
あとそのことを忘れる人がものすごく多いのですよ。
そのときはワーッと思うのですが、忘れてしまうのです。
つまり、体験を体験としてもっていくということはたいへんなことなのですね。
だから、宮沢賢治ではないけれど、
それを文学にするというのは、すごい人だと思うのです」(P125)


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09/18 23:51
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