FC2ブログ

「ナーガーナンダ」

「ナーガーナンダ」(ハルシャ/原実訳/「原始仏典」筑摩書房)

→ハルシャは7世紀、北インドに君臨した王である。
はじめはヒンドゥー教を信仰していたが、のちに仏教に帰依するようになる。
シナから留学に来た玄奘(げんじょう)を歓待したことでも知られている。
やたらと評判のいい王さまだったようで、文化事業に精を出す一方、
みずからも戯曲も執筆し、この「ナーガーナンダ(蛇の悦び)」が代表作である。
代表作とはいえ、サンスクリット文学なぞだれも関心を持たないから、
いまネット検索してみても、ひとつも感想はヒットしなかった。
このため、ひと言、ふた言、感想めいたものをウェブ上に記録しておくのも
多少の意味はあるかもしれない。

まあ、最低レベルのギリシア悲劇よりはおもしろいといったところか。
話は前半と後半で大きくふたつにわかれている。
五幕劇だが、二幕までは王子とお姫さまが結ばれるラブストーリーだ。
お互い一目惚れをするが、それぞれ高貴な身分ゆえ、自由恋愛はままならぬ。
とはいえ、親に決められた結婚相手にそれぞれ反発する。
ふたりがすぐに結ばれたら劇にならないから、
双方が他に好きなものがいるのではないかと誤解しあう。
二幕目の終わりで、誤解が解けるというあんばいである。
実のところ、親が決めた相手にお互い一目惚れをしていたのである。
恋愛は成就し、いったんのハッピーエンドを見る。
冷ややかな目で見るなら、男女がお互いのどこを好きになったかよくわからないが、
美男美女が出逢った瞬間に恋に落ちるのはむかしからの文芸のいわばお約束ゆえ、
そこにあまりねちねちからむとこちらのもてないことがばれてしまうのでやぶ蛇だ。

三幕目から話ががらりと変わる。
王子は利他行したくてたまらない気持で森をふらふら歩いている。
海岸に行き着いたときに、王子は愁嘆場を演じている蛇の母子に出逢う。
なんでも、このへんは怪鳥のガルタが幅を利かせていて、
定期的に蛇を生贄(いけにえ)として差し出さなければならない。
このたび蛇の村から生贄に選ばれたものが母親との別れを嘆いているところであった。
母と子の別れというのは、いつの時代どの国でも人の胸を打つのだろう。
とくに母に先立つ息子という主題は、人のあわれみを誘う筋立てである。
作者ハルシャ王とおなじく仏教に帰依するこの劇の王子は、
蛇の母子に向かって自分が身代わりになろうと提案する。
このへんがいかにも利他をむねとする大乗仏教文学なのだろう。
王子は決心を口にする。

「己が命を投げうって、一尾の蛇救わんと、今われ善根積まんとす。
七生人と生まれては、再び仁を行なわん」(P402)


先ほど結婚した妻のことなどほとんど気にせず、
自分のやりたい利他行に邁進(まいしん)するところは評価がわかれるだろう。
王子はガルタにさらわれ、ついばまれ、もはや半死半生といったていである。
そこに王子の妻と両親が現われる。
ここでまた愁嘆場が演じられるわけである。愛するものとの死別は涙を誘う。
王子は尊い仏法を怪鳥ガルタにも説いたので、
かの悪鳥もすっかり改心していまは自身の行為を後悔している。
いちおう仏教文学という証明に王子の説教でも紹介しておくか。
たぶんハルシャ王は人民にこれを訴えたくてこの芝居を書いたのだろうから。

「これまでの所行を恥じてひたすらに、
悔い改めてこの後は、生類傷つくことなかれ。
一切生類憐みて、善業勤(いそ)しみ、功徳積み、
功徳の暴流(ぼる)のその中に、
これまで犯せし殺生(せっしょう)の、罪を流すにしくはなし。
一塊の、塩の広大無辺なる、池に沈んでうせるごと」(P410)


学者先生が張り切って七五調で訳しておられるが、なかなか味があってよい。
声に出して読むと、訳者の苦労が偲ばれる。
いまにも死にそうな主人公の王子が魂のメッセージを遺しているさなか、
あまりいい読者ではないわたしはあれが来る予感に打ち震えていた。
なぜか古典劇では絶体絶命のピンチに都合よくあれが来るのである。
しかし、ここはギリシアではなくインドだと自分に言い聞かす。
そうそうあれがうまく来るはずがないではないか。
ところが、来てしまうのである。
ギリシア悲劇では、デウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)と呼ばれているやつだ。
終幕直前、ガウリー女神とやらが天からやって来て王子の傷を奇跡で治す(けっ!)。
観客はさぞかし一生懸命拍手をしたはずである。
うっかり醒めた退屈そうな顔でもしたら、
作者の国王からなにをされるかわからないのだから。
観客の感想はみんなおなじだったことだろう。
「一切生類を憐み、善業に勤しみ、功徳を積もうと思いました」
この感想を聞いたハルシャ王の満足げにうなずく様子ならば、
やすやすと想像することができる。

COMMENT









 

TRACKBACK http://yondance.blog25.fc2.com/tb.php/3121-3d602efd