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「本生経(ジャータカ)」

「本生経(ジャータカ)」(平川彰訳/「原始仏典」筑摩書房)

→仏教のなにに引かれるかといったら、業(ごう)の思想である。
宿業の思想だ。宿命の死生観だ。
ジャータカは、ブッダの本生譚(過去世の物語)で、たぶん世界最初の仏教文学だと思う。
500以上の物語があるらしいが本書ではそのうちの37を収める。
筑摩書房「原始仏典」のなかでもっともおもしろかったのは、このジャータカである。
なぜなら、お話になっているからだ。物語だからである。
ジャータカは主にブッダの業を描いている。
業とは身口意(しんくい)の行為のことだから、
ジャータカはブッダの過去世における行動を物語る。ブッダの宿命とはなにか。

ジャータカにしたがうなら、この世にひとつとして業でないことはないのかもしれない。
あるときブッダが木のトゲで足を傷つけてしまったという。
これはどういう業によるのかと弟子はブッダにおたずねする。
ブッダは問いに答えるかたちでお話しする。過去世の業を物語る。おのれの宿命を語る。
むかし栄えた都市にふたりの商人がいたという。
どちらも船を所有しており、財宝を求めて、大海原に繰り出した。
二艘の船はうまく風に乗り、宝の島に行き着くことに成功する。
ここからの行為がわかれるのである。
ひとりは欲に目がくらんで重量を考えずに宝を船に積み込んだ。
さあ、出航である。宝を山ほど積んだ船は重みで沈んでしまう。
海に放り出された因業欲深な商人は、もうひとつの船に助けを求める。
助けを求められた商人はどうするか。どのように行為するか。
おのれの宝をいくばくか海へ棄ててライバルを救出してあげることにする。
これでめでたし、めでたし、ではない。人間はそういうものではない。
助けられた商人は悔しいわけである。人間はどうしようもなく嫉妬する生き物だ。
どうしておれの宝は海の底に沈んだのに、
あいつだけうまうまと財宝を持ち帰ることができるのか。許せない。
そうだ、この船も沈めてやればいいんだ。
恩知らずにも男は船の底に穴をあけようとする。
「なにをしている? そんなことをしたらどうなるか考えてみろ。
宝を失うばかりではなく、われわれも死んでしまうぞ!」
船主は道理を言い聞かせるが、嫉妬に狂った男は行為をやめようとしない。
こういうときにいったいどうしたらいいのだろう。おめおめと死ぬべきか、それとも。
船主は槍(やり)を持ち出してきて、穴をあけようとしている男を刺し殺したという。
やむをえず殺生の罪を犯したわけである。
ブッダが弟子に向かっていうには、このときの殺人者がほかならぬ私である。
この業によって私は百年、千年と地獄の苦しみを受けた。
ようやくいま悟りを得てブッダとなったけれども、
まだあのときの業が残っていて、先ほど木のトゲで足を傷つけるという災難に遭遇した。
いま私が激痛に苦しまなければならないのは、こういう業のためである。

聖人ブッダは過去世で人を殺していたのである。
ブッダでさえ過去世においてひとり人間を殺しているのならば、
われわれ凡愚のものはいったいこれまで何人殺してきたことだろうか。
何度も何度もわれわれは憎き相手を槍で殺してきたのである。
その業のためにわれわれはいま苦しまなければならないのかもしれない。
つゆ宿業にあらざることなしとは考えられぬか。
料理中に包丁で指をうっかり切ってしまうのも業なのである。
なにもかにも業だ。業ゆえに苦しまねばならぬ。
さて、この物語からわかるように、ブッダでさえ一度は地獄に堕ちているのだ。
われわれのうちひとりとて地獄に縁なき衆生がいるだろうか。
こちらの業が深いためか、船の底に穴をあけようとした男の気持もとてもよくわかる。
あれは自分であるとも思う。もしあの場にいたら、きっとおなじことをしていただろう。
ならば、われわれは過去世で殺されているのかもしれない。
何度も槍で刺され痛みにのたうちまわったのだろう。相手を強く怨んだはずである。
おまえを絶対に許さないと命の恩人を絶命の瞬間、憎悪の目でにらみつけた。
原文には書かれていないが、このとき死んだほうが後世、
ダイバダッタ(提婆達多)として生まれ変わったのではないか。
ダイバダッタとは、最初は仏弟子だったが、のちにブッダを裏切る悪役である。
この悪役はジャータカで何度も登場する。
ある時代には女と共謀して王子(ブッダの過去世)の目玉をくりぬく。
また別の時代には、
善王(ブッダの過去世)を王座から引きずり落とし息子の目の前で惨殺する。
怨みは生々世々(しょうじょうせぜ)に引き継がれ、
決して消えることはなく、いや増すばかりである。
人間にとってプライドを傷つけられるのが、いちばんの相手を怨む理由である。
ダイバダッタは過去世で大臣だったが、賢い青年(ブッダの過去世)に顔をつぶされる。
大臣はこの怨みを晴らすために悪行ではなく善行をするのである。
そのうえでこう誓願するのだから、まこと人間味がある。

「私はいま二万歳中、定光如来および修行僧に、
衣服・飲食・床臥具・病気のための医薬を供養しました。
しかるにかの青年は、私の座席を移動させて、
自ら坐し、私の供養を奪い、私の名誉をこわした。
今この二万歳供養の福の因縁により、これから生々世々に常に
彼を毀(こぼ)ち辱(はずか)しめるであろう。
たとい彼が仏陀になっても、決して離れないであろう」(P99)


生々世々にである。何度生まれ変わってもかならず仕返しをしてやるからな。
いくたび死のうが絶対にまた誕生しておまえのまえに姿を見せてやるぞ。
これほど強く結ばれた因縁は、ある時代には次のような業となって現われる、
業が業を生むのである。業は決して消えることなく永遠に続いていく。
ある時代にダイバダッタは貧しい人間として生まれ、きこりをしていたという。
いつものようにたきぎを取っていると虎に遭遇してしまう。
きこりは慌てて逃げ出し、大木(たいぼく)があったので上に登ろうとした。
ところが、木の上には熊がいるのである。きこりはどうしようか迷う。
実のところ、この熊がブッダの過去世の姿であった。
熊はきこりを守ってやろうと抱きかかえ、木の上の安全なところに避難させてやった。
すると、虎が熊に話しかけて、こういうのである。
「そいつは恩知らずだ。いまにおまえを裏切るぞ。いますぐ投げ捨てろ。
おれが食ってやる。あいつを食うまではおれはここを離れないからな」
熊が答えていうには――。
「この人は私に助けを求めたのです。私は彼を信用します」
虎は木の下から動こうとしない。
それを見た熊はきこりにいう。
「私はあなたを助けて疲れたからしばらく眠りますよ。
どうかそのあいだ自分で気をつけて、それから私を守ってください」
熊が眠り込んでしまうと、虎が今度はきこりに話しかける。
「おまえさん、いつまでそこにいるつもりかい?
おれは腹が減っている。その熊を下に落としてくれ。
そいつを食ったらおれは去る。そうしたら、おまえさんも家に帰れるぞ」
きこりは迷う。このままいつまでも木の上にいるわけにはいかない。
しかし、熊には助けてもらった恩があるではないか。
とはいえ、熊が目を覚ましたら、気が変わっておれを下へ放り投げるかもしれないぞ。
そうなってから後悔しても始まらない。
だったら、やられるまえにやったほうがいいではないか。
なんだかんだといって、いちばん大事なのは自分の命だろう。
きこりは虎の誘惑に負け、寝ている熊を下に落とす。
熊はさすがブッダの過去世である。落とされてもきこりを怨んだ目で見ない。
それどころか落ちるまでのわずかなあいだに熊はありがたい仏法をきこりに説いた。
空腹の虎はうまそうに熊をたいらげると、その場から去っていった。
きこりは完全な悪人ではないから始末が悪いのである。
自分はなんとむごいことをしてしまったのか。熊はこちらを怨んでにらむこともなかった。
むしろ反対にあわれんで、仏法を教えてくれたあの熊の慈悲に満ちた目はどうだ!
熊の慈悲深い目を思い出すごとにきこりは苦しみ、ついに発狂してしまったという。
きこりの家族がなんとか治そうと多くの医者に見せたが、元に戻ることはなかった。
このきこりがダイバダッタの過去世の姿で、
この業のために、この業にうながされて、彼は生々世々にブッダにつきまとわざるをえない。
大恩ある熊を裏切って死なせてしまったという業は永遠に消滅することはないのである。
業が消えないとはどういうことか。

「このように、行なった善と悪に応じて、その報いとして、
禍いと福とが随うのは、影が形に随う如くである。
悪業が熟して、罪がそれに随うのは、ひびきが声に応ずる如くである」(P119)


まったくの同文がわが国最古の仏教説話集「日本霊異記」にもあることを指摘しておく。
業とは、因果が報いるということだ。因果がめぐる。
業を説くのは「日本霊異記」だけではない。
「親の因果が子に報いる」様子を描いた説経節「しんとく丸」もジャータカの子孫だ。
仏教文学は業を描く。仏教でいうところの業は物語として教説される。
現代日本の作家で仏教における宿業をだれよりもうまく描いたのは宮本輝である。
業はたとえ「五千回の生死」を繰り返しても消滅することはない。

「たとい百劫を経ても、行なった業は亡びない。
因縁がたまたま遇うときに、果報はかえって自ら受けるのである」(P166)


最前は熊として生まれ虎に食われたブッダだが、
今度は人間として生まれふたたび虎に食われるのだから、
まさしく「たとい百劫を経ても、行なった業は亡びない」――。
さて、いつの時代だか王子として生まれたブッダは、兄ふたりと森へハイキングに行く。
森林を奥深く分け入っていくと、弱った虎が身を横たえているではないか。
どうやらお産をすました後らしく、母虎のまわりには七匹の赤ちゃん虎がいる。
空腹で動けないようだ。
やさしい心根を持った三人の王子は虎の様子にそれぞれ心を痛める。
いちばん下の王子はある行為を決意して、兄ふたりに帰宅をうながす。
しばらくしてから王子はひとりで虎のところに引き返してくる。
このままでは虎が死んでしまうのではないか。
空腹にたえかねて母がわが子を食らうことなどゆめゆめあってはならぬ。
王子はわが身を差し出そうと決意したのである。
「虎よ、われを食え」と王子は虎のまえに横たわる。
しかし、畜生といえども王子の慈悲に打たれたのか、虎は動こうとしない。
ならばと一計を案じた王子は自ら竹で喉もとを突き刺し、
さらに高所から虎のまえに身を投げた。
血だらけの王子をまえにして本能に目覚めた虎はむしゃむしゃ人肉を食らったという。
嘆きが尽きないのは王子のふたりの兄である。
王子を探して戻ってきたふたりは、きちんとたたんで置かれた弟の衣服を見つける。
すぐそばには生々しい血だまりが、それから王子の骨、髪、爪が散らばっている。
なにが起こったのかを知ったふたりの悲嘆といったらない。
あのやさしい弟は虎にわが身を与えてしまったのか。
こうなることを知っていたら、自分が虎に食われていればよかった。
いや、いまだからそういえるので、われわれは飢えた虎になにもしなかったではないか。
弟が死んだことを城にいる父母に告げたら、どれほど悲しむことだろう。
遺族の苦悶を考えると、
自ら死を選んだ王子は決して善行のみをなしたわけではないのである。
この物語を伝え聞き、やはりブッダは過去世でも偉いと感嘆してばかりなのは大馬鹿だ。
王子は虎を助けはしたが、兄ふたりと父母を絶望の淵に落としているのだから。
ことに育ててくれた恩のある両親を悲しませているのは罪深い。
しかし、これが業というものだ。これが宿業だ。宿命とはこういうものだ。
王子の両親は子どもに先立たれる業を持っていたのである。
愚かにも虎に食われる子の親となるべき業を悲しくも生まれ持っていた。
兄ふたりもそうである。いわば弟を見殺しにしたふたりの自責の念は相当なものだろう。
だが、これもまたふたりの業なのである。
ふたりは過去世で、自らの命ほしさに恩ある熊を裏切り虎に食わせていたのかもしれない。
このため、このような死別の苦しみを味わわなければならなかったとは考えられぬか。
もしくは前々世で強盗に襲われ、正当防衛として逆賊を殺してしまったのかもしれない。
強盗とはいえ生きてゆかねばならぬから仕方なく人を襲うのである。
なにも殺すことはないじゃないか。
殺された強盗に彼をたいへん愛する家族がいて、
生々世々に仕返しを誓われたとは思えぬか。
なんじよ、いいか、愛するものを喪う苦しみを生々世々に味わえ!

ブッダが自殺するのは一度だけではない。
ジャータカのなかでは有名な雪山童子もまた自殺している。
ここには信仰の本来の姿が描かれているように思う。
修行僧である雪山童子はある日のこと、
山奥で羅刹(らさつ=鬼)からわずか二行の仏法を教わる。
「諸行無常 是生滅法」である。
雪山童子は残り二行の教えをどうしても知りたいが、羅刹は交換条件があるという。
「おれは鬼だから人肉を食いたい。おまえを食べてもいいなら教えてやろう」
雪山童子は答える。「いいだろう。教えてくれ」
「生滅滅已 寂滅為楽」を羅刹から教えてもらった雪山童子はどうするか。
いさぎよく身を捨てるのである。高い木の上から投身自殺を遂げる。
捨身=利他=自殺ができるということは、そういう業を持って生まれたということだろう。
信仰とは、生きるか死ぬかぎりぎりのところで身を賭すような行為であることがよくわかる。
死んだらあの世があるのかどうかを知るためには、死んでみるしかないのである。
ブッダの過去世の姿である雪山童子がなした行為はまさしくこれではないか。
ブッダは過去世で何度も自殺を遂げたがために、その功徳として悟りを得たのである。
「仏教では自殺を禁じている」なんていうクソ坊主の言葉は嘘八百である。
むしろ、現代に思い切って自殺してみるような勇気ある坊主はいないものか。
どうせ業にしたがい生まれ変わってくるのだから死を恐れることはないことになる。
少なくとも雪山童子はこれっぽっちも死を怖がっていない。
童子は羅刹からなにを教わったのか。
「諸行無常(みんな無常だよ)
是生滅法(これが生滅の法だ)
生滅滅已(生滅が終わって)
寂滅為楽(死んだら楽になる)」

デタラメばかり書きやがってとお怒りの方もおられるかもしれない。
仏教の真理はそんなものではない、とコメント欄でお叱りを受けるかもしれない。
(まあ、ここまで何人がお読みくださっているか文章に自信はありませんけれどさ)
しかし、ジャータカでもブッダは絶対的真理などないと主張しているのである。
絶対的真理などないのだから、無意味な論争はするな。
実にうまいたとえを用いてブッダは絶対的真理のないことを説明している。
むかしある国でバラモン僧が論争ばかりしてお互いを傷つけあっていた。
王様は絶対的真理など存在しないことを証明するために国内へ布告を出す。
国中の盲人を城へ集めろというのである。
さあ、大勢の盲人が城の広間に集ったが、王様はなにをしようというのだろう。
そこに大きな象が連れられてくる。
「この人たちに象を見せてやりなさい」と王は仰せである。
盲人たちはそれぞれ手を引かれ象に近づいていく。
といっても、目は見えないから触れるのみである。王様はいう。
「いいかな、いまわれわれはみなで象を見た。
はて、象とはどのようなものかな?」
象の足に触れたものは「象は竹筒のようなものです」という。
象の尾に触れたものは「象はホウキのようなものです」という。
象の腹に触れたものは「象は太鼓のようなものです」という。
象の脇に触れたものは「象は壁のようなものです」という。
象の背中に触れたものは「象は机のようなものです」という。
象のキバに触れたものは「象は角のようなものです」という。
象の鼻に触れたものは「象は綱のようなものです」という。
ほかにも触れた部分にしたがい、めいめいおのおのまったく違うことをいう始末である。
それぞれが自分は絶対的真理を述べているつもりなのだからおかしい。
盲人の考え(=「象は○○のようなものです」)はどれもみな真実である。
少なくとも、当人にとっての真実ではあるのだろう。
しかし、どれも絶対的真理かといったら、むろんそうではない。
おそらく、仏教も似たようなものなのではないか。
いろいろ経典によって教えは異なるが、どれも真実で同時にまたみながウソなのである。
飛躍すると、人生も似たようなものとは考えられぬか。
われわれはみなめくらなのだろう。実際は、なにも見えていない。
それぞれ業にしたがい体験することが異なるのは、盲人が象に触れるようなもの。
人の数だけ「私の真実」があるけれども、それらは断じて絶対的真理ではない。
人はとかく「私の真実」を絶対的真理だと思いたがるが、それは違うのである。
絶対的真理のようなものは人間の目には映らないようになっているからである。
たぶん絶対的真理は太陽のようなもので、直視したら目がつぶれてしまうのだ。

もとより不勉強なわたしの仏教観が絶対的真理であるわけがないが、
一応断っておくと、このブログに書かれた仏教思想はすべてデタラメといってよい。
しかし、いま真理とされているものも、おそらくは絶対的真理ではあるまい。
多数派が支持している考えを絶対的真理と見誤り驕(おご)っているに過ぎないのである。
わたしはあらゆる宗教の教える真理を尊重したいが、どれも絶対的真理だとは思わない。
どれかひとつの教えを絶対的真理だと見なし人生を賭けてみるのが信仰であるならば、
残念ながらまだわたしには信仰がないのかもしれない。
しかし、狂信や盲信が本物の信仰なのかは絶対的真理がないためわからないと思う。
仏教も人生もわからないことばかりだと思うが、
わかったと思っている人よりはわかっているという思い上がりがあるので、
決して謙虚とはいえず、むしろこちらの態度を傲岸不遜と思われる方もいるでしょう。
とはいえ、論争しても論破されてもわたしの考えは変わらないような気がする。
考えが変化するとしたら、おのれの宿業にしたがい人生でなにかを体験したときである。
おのれの業を知るために人は生きるのかもしれない。

(注)この記事で扱ったジャータカのタイトルを順に書いておく。
「34 仏陀が刺木にて足を刺された因縁」
「31 きこりを助けた熊」
「6 薩埵太子、身を捨てて飢えた虎を救う」
「26 雪山童子の求法」
「25 鏡面王と盲人」

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