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「仏伝」

「仏伝」(中村元訳/「原始仏典」筑摩書房)

→A「仏伝に関する章句」B「偉大なる死」からなる。
どちらも経典全文ではなく抜粋である。
ともあれ、中村元博士を信じるならば、伝説ではなく、
歴史的存在としての人間・釈迦がよく表われているところからの抜粋らしい。
さて、失礼極まりないことを言い放ってしまうと、果たして釈迦は偉いのだろうか。
よく安手の仏教書を読み漁った手合いが訳知り顔で釈迦を引き合いに出して、
創価学会などの新興宗教を否定しているが、あれはどう判断すべきなのか。
たとえば、創価学会の教えは釈迦とほとんどまったく関係ない。
仏教の開祖は釈迦だから、釈迦の教えが正しく、ならば新興宗教は誤りなのか。
こういう論法の根底にあるのは開祖の釈迦が偉く正しいという盲信である。
あまり大きな声では言えないが、もしかして釈迦は大して偉くないのではあるまいか。
仏教は後世に偉い弟子がたくさん出たので広がったとは考えられないだろうか。
古いからただそれだけで偉いというのはおかしくないだろうか。
聖書ではアダムとイブなぞ、バカップルの元祖のようなものでちっとも偉くない。
人間はむかし猿だったという説に従うなら、果たしてお猿さんは偉いのだろうか。
釈迦を持ち上げるのはお約束というか建前程度のもので、
後世釈迦をうまく利用して新しい仏教を創造した人間のほうがもしや偉大なのではないか。

当時の修行者が聞いて感動した釈迦の教えの断片というものがある。
釈迦自身から聞いたのではなく、弟子からの又聞きとのこと。
にもかかわらず深く感動して以後釈迦に帰依するようになったという。

「もろもろの事がらは原因から生じる。
真理の体現者はそれらの原因を説きたもう。
またそれらの止滅をも説かれる。
偉大なる修行者はこのように説きたもう」(P34)


「原因がある」って、そんなもんいまじゃ常識的な思考法じゃないか。
それに言っちゃ悪いけれど、とりたてて真理とも思えない。
現代科学的に考えたら、世の中には原因のない偶然もあるわけだから。
すべてに原因があると考えると精神の安定するのはわかるが(宗教的!)、
決して「もろもろの事がらは原因から生じる」わけではない。
繰り返すが、すべてに原因があると信じるのは個人の自由だけれども。
ならば、どうして「原因がある」ごときが真理として当時もてはやされたのか。
一見、真理を教えられたような錯覚がもたらされるからである。
根本原因がわかってしまったなどと釈迦に騙されたものが大勢いたのだろう。
さて、新興宗教開祖の釈迦は延々と苦しみの原因を追い求めてゆき――。

「……出生によって老いと死、憂い・悲しみ・苦しみ・愁い・悩みが生じる」(P20)

ほ~ら、よい子のみんな、ぼくたちが苦しむのは生まれてきたからだよ!
じゃあ、どうしたらいいのか。
貪欲(とんよく)をなくせばいいんだ。欲望をなくせば、すべての苦しみが消えるのさ。
しかし、そりゃあそうだけど、正論なのは認めるが、だからなに? と言いたくならないか。
ロボトミー手術でも受けろって言うのかよ。
もしくは精神分裂病(統合失調症)になって人格荒廃状態(≒廃人)に行き着くしかない。
亡児を抱き悲嘆に暮れている二親に「それは貪欲だよ」と正しい教えを説いても意味がない。

こういうことを考えてか、もうひとつ釈迦は苦しみの原因を突きとめている。
これも釈迦の教えた真理とされ、ことさら珍重されている。

「およそ生起する性あるものは、すべて滅び去る性あるものである」(P30)

いわゆる無常として教えられている真理である。
人が死ぬのは無常ゆえ、病気になるのも無常ゆえ、老いるのも無常ゆえ。
もっと考えてみれば、ほかならぬあなたやわたしも無常でしょう?
確固たる「我」のようなものは無常ゆえに存在しない。
ならば「我欲」も実体はなく「貪欲」も抱く必要はないと悟ることはできませんか?
ハイ、答えは、「無理無理」。ちょっとそれ無理だって。
しかしさ、大した出世もできずに定年を迎えたような老人には都合のいい考え方ではある。
つまらない人生も、おれはものに貪欲しなかったんだと聖者気取りでいられるかもしれない。

あんまり悪口ばかり言っても詮ないので、ひとつ感心した教えを書きたい。
原始仏典からして、業(ごう)の思考法がしっかり根づいているのには驚いた。
しかし、これは釈迦のオリジナルなのか疑問である。
どういうことかと言うと、釈迦は仏僧ではなかったのである。
金持のぼんぼんだった釈迦は出家してバラモン僧になったのである。
バラモン教とは古代ヒンドゥー教ともいうべき当時支配的だった民俗信仰のこと。
わたしが原始仏典で感銘を受けた業の思想は釈迦の発想ではなく、
当時のバラモン教の世界観だったのではないのだろうか。
とはいえ、仏教にも取り入れられた業の考え方はよろしい。
人は業によって何度も生まれ変わり輪廻転生するという信仰である。
われわれは過去において百の生涯、千の生涯、万の生涯を持っているというのだ。
人生は一回きりと思っているかもしれないが、そうではないというである。
これまで無数の死をわれわれは経験してきたし、これからも誕生して苦しみ続ける。
釈迦は悟ったときに、おのれの過去の生涯を思い起こしたという。
すなわち――。

「一つの生涯、二つの生涯、三つの生涯、四つの生涯、五つの生涯、
十の生涯、二十の生涯、三十の生涯、四十の生涯、五十の生涯、
百の生涯、千の生涯、百千の生涯を、
幾多の宇宙成立期、幾多の宇宙破壊期、幾多の宇宙成立破壊期を。
われはそこにおいて、これこれの名であり、これこれの姓であり、
これこれの種姓であり、これこれの食をとり、これこれの苦楽を感受し、
これこれの死にかたをした。そこで死んでから、かしこに生れた」(P21)


原始仏典の中部経典にこの記述がなされているという。
果たして釈迦は本当にこんなことを言ったのだろうか。
言っていたとしたら大乗仏教の萌芽は釈迦のこのセリフになるのではないかと思う。
いんちき大乗仏典の法華経や浄土三部経の永遠性の起源はここに求められるはずである。
法華経信仰や阿弥陀仏信仰の発端は釈迦のこの発言ということになろう。
科学では答えられない問いに次のようなものがある。
なぜある人は金持で、別の人は貧乏なのか。なぜある人は美しく、別の人は醜いのか。
どうして幸福な人たちがいる一方で、自分ばかりこうも不幸に苦しまなければならないのか。
釈迦は悟りを開いたときに、この問いの答えを知ったという。

「かくのごとく心が統一され、清浄で、きよらかで、よごれなく、汚れなく、
柔らかで、巧みで、確立し不動になったときに、
もろもろの生存者の死生を知ることに、われは心を向けた。
すなわちわれは清浄で超人的な天眼をもって、
もろもろの生存者が死にまた生れるのを見た。
すなわち卑賤なるものと高貴なるもの、
美しいものと醜いもの、幸福なものと不幸なもの、
としてもろもろの生存者がそれぞれの業にしたがっているのを見た」(P21)


「業にしたがう」とはどういうことか。釈迦は引き続きおのれの得た悟りを説明する。
業とは行為のことである。行為には善行と悪行がある。

「実にこれらの生存者は身に悪行を為し、
ことばに悪行を為し、こころに悪行をなし、
もろもろの聖者をそしり、邪(あやま)った見解をいだき、
邪った見解にもとづく行為をなす。
かれらは身体が破壊して死んだあとで、悪しきところ、堕ちたところ、地獄に生れる。
また他のこれらの生存者は、身に善行を為し、
ことばに善行を為し、こころに善行をなし、
もろもろの聖者をそしらず、正しい見解をいだき、正しい見解にもとづく行為をなす。
かれらの身体が破壊して死んだあとで、善いところ、天の世界に生れる」(P22)


この発言も先ほどのものとおなじく原始仏典の中部経典である。
本当に釈迦がこんなことを言ったのだろうか。
もしそうだとしたら、これは意外な発見である。
釈迦は穏やかな聖人だと思っていたが、しっかり「地獄に堕ちるぞ!」を言っているのである。

結論として、釈迦は偉人だったのか。
釈迦自身の教えというのは、そう大したものではなかったような気がするのである。
だが、釈迦の生きた古代インド世界に
強く根づいていた業(輪廻転生)の考え方はおもしろい。
ことさら因果関係を重んじた釈迦は、業にも原因的要素を強く求めたのだろう。
それがどこまで釈迦のオリジナルかわからないので評価が定められないのである。
釈迦は「どうして苦しいんでしょう」「なぜ不幸なんでしょう」という問いに、
いったいどう答えたのだろう。
1.「執着するからだよ(貪欲を捨てなさい)」
2・「無常であることを理解しなさい(苦は無常ゆえ生じ、無常ゆえいつか消える)」
3.「過去世の業の結果だよ(善行をしなさい)」
教科書的な釈迦の回答は1か2になるはずだが、どうやら3も説いていたのではないか。
わたしは1や2の教えは出家者にしか有効ではないと思う。
ほとんど出家しろと言っているようなものだからである。
言い方を変えれば、あまり役に立たない教えといってよいのではないか。
3の教えは出家できない下層民のための教えで、このため役に立つ。
すなわち、多くの人を救う教えで、専門用語で言えば大乗仏教的だと思う。
とすると、やはり釈迦本人よりも後世の弟子のほうが偉いと言わざるをえない。
1、2、3とある釈迦の教えのうち3を重んじたものが、
釈迦の権威をうまく利用しながら、お話をふくらませていったわけだから。
1、2はお話というよりも、哲学や思想の類いである。
のちの世の優秀な仏弟子たちは釈迦の哲学よりも、
釈迦を主人公としたお話を創作することに、信仰を賭けていったと言えよう。
釈迦は一風変わったバラモン僧程度の存在で、存命時は仏教などなかったのかもしれない。
いまわれわれになじみのある仏教を創ったのは釈迦ではなく、
後世の多数の信者であったことはほとんど間違いないだろう。
これからゆっくり仏教創造の過程を見ていこうと思う。
できましたらお付き合いのほど、よろしくお願い申し上げます。

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09/10 01:43
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