「海峡」

「海峡」(井上靖/角川文庫)絶版

→井上靖は無力の美しさを描く作家だと思う。
人間は世界に対して無力だが、そこに世界の美しさがあるのではないか。
無力で敗北感に暮れる人間はときにみっともないが、
その背景に人間を超える大きな世界をしっかり見据えると全体として美しいのではないか。
宿命に勝利する人間を描くのは井上靖をだれよりも慕う後輩作家の宮本輝である。
井上靖は宮本輝とおなじ宿命を描いているのだが、
先輩作家は宿命に敗れ去る人間の美しさを描いているのである。
成功する人間ではなく失敗する人間を描写する。
恋が成就した男女を描くのではなく、恋に破れた、つまり失恋した淋しい人間を描く。
もしかしたら恋愛成就よりも失恋のほうが人生の深い味を堪能できるのではないか。
あたかも井上靖はそう言っているかのごとくである。

新聞小説「海峡」から無力感あふれるシーンを見てみよう。
男が片想いしている同僚女性から酒場で相談を受けると、失恋したという話である。
しかも失恋相手は自分の上司だというではないか。
まこと人生の深い味を感じさせる場面である。
この味わいを井上靖はうまく会話として描く。
宏子は相談相手の杉原がなぜ憤(おこ)っているのかわからない。

「何をそんなに憤ってるのよ」
「憤るさ。憤らせるじゃないか。――くだらん恋愛なんどしやがって」
「しやがってという言葉もいや。下品だわ」
「悪かったな。――まあ、いい、一生に一度だ。今夜は飲ませてくれ。
飲ませて、慰めてくれ」
「反対になったのね。わたしを慰める筈だったじゃない」
「慰める!? お前さんをか。冗談言うなよ。自分が惚れてる女が、
他の男に惚れてるからって慰める馬鹿がどこにある?
俺は今夜自分を慰めるんだ。つき合えよ」
宏子にとっては聞き棄てならぬことを杉原は口走った」(P91)


宏子が帰ろうとすると、杉原は「頼む」と哀願するように言う。
「頼むから今夜もう少しつき合ってくれ」

「でも、いやだわ。酔ってるんですもの。恥ずかしいわ。
大きい声でへんなことばかり言って」
「いいや、もう言わん。恐らく将来二度と言わんだろう。
これから言葉に気をつける。今夜、二人でもう少し一緒に飲もう。
飲もうと言っても、俺ばかり飲むわけだが、おひろさんも飲めよ。
少しぐらいはいいだろう。酔わん程度に飲めよ。
――今夜は二つの恋情を葬る夜だ。
君は編集長のオッさんに対する変な気持をきれいさっぱりと、
今夜限り棄てるんだ。いいか。物にはきっかけというものがある。
今夜を最後に、明日から笑う女になれ。笑う女に!」
それから杉原はボーイを呼んで、
「勘定!」
と言ってから、
「俺は今夜限りさっぱりする。どうも多少俺はおひろさんに気があったと思うんだ。
しかし、考えてみれば莫迦(ばか)らしいことだよ。
どこがよくて、大の男がおひろさんなどに惹かれるんだ。
どこもいいところないじゃないか。俺は俺で今夜限りさっぱりする。
おひろさんもおひろさんでさっぱりしろよ」(P92)


いかにもいかにも井上靖らしいセリフである。
失恋は恋愛成就よりもよほど味わい深いのである。
酒を飲めば飲むほど、この不如意の渋味苦味は豊穣を増し五臓六腑にしみわたる。

人生はうまくいかないからおもしろい。

題目を唱えていたら夢がかなってハッピー! 宿命転換ブラボー大勝利! 
――なんていう世界観を井上靖はどこにもさらさら有していないのである。
人生は人間の思い通りにはならないが、そこにこそ深い味わいがある。
これが無宗教だった文豪・井上靖の持っていた信念のようなものである。
人生がうまくいかないということは、人間を超えるものがあるということではないか。
その大きなものを全身で認めたとき、無力な人間はかえって輝きを放つのではないか。

小説の終盤、人生の不如意をそれぞれに抱えた男3人は、
渡り鳥の声を聞くために本州の最果て青森県の下風呂温泉におもむく。
失恋と別離が確定した杉原は冬の海に向かって走っていった。
青年の姿が見えなくなってから、中年男二人はしみじみと思いを語る。

「去年からろくなことはないよ。病院は不景気になるし、
吉田君はあんな事故で倒れるし、細君は神経衰弱になるし」
「人生とはそうしたものだよ」
「だから僕も人生とはそうしたものだと思ってるんだ。
なんとなくやりきれないものだな」
その庄司のやりきれないと言った言葉が、ふいに松村の心に突き刺さって来た。
松村自身が、庄司以上にやりきれない気持だった。
どこへも持って行きようのない、いわば出口のない感情を、
松村もまたこの雪の半島に棄てたくてやって来たのである」(P344)


人生は、やりきれない。悲しくて、やりきれない。
悲しくて、悲しくて、とてもやりきれない。しかし、この悲しさは美しい。
人間のちっぽけな悲しみも天から見たらきっと美しいはずだ。
人生のやりきれない悲しさを、井上靖は、わかりやすい物語に託して美しく謳いあげた。

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