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「法華経現代語訳」

「法華経現代語訳(上中下)」(三枝充悳/レグルス文庫/第三文明社)

→創価学会の池田大作氏の迷言としてひとつ憶えていたものがある。
「ウソも百回言えば本当になる」のような言葉だった。
正確なものを調べたら、「ウソも百遍繰り返せば真実になる」である。
学会員さんのなかには、池田先生はそんなことを言っていない、
とお怒りになるかたもおられるかもしれない。
しかし、明確な出典があって、これは池田大作氏の本音だったようだ。
元側近の暴露本「池田大作の素顔」(藤原行正)の42ページにしっかり書かれている。
この著作はうちにあって、いまわが目で確認したから間違いない。
「ウソも百遍繰り返せば真実になる」
どうやら多くのものは池田大作氏の愚かさを象徴する言葉とみなしているようだ。
わたしはちょっと違う。
誤解しているのかもしれないけれど、これは案外な名言ではないかと思うのである。
というのも、法華経の内容は、まさしく「ウソも百遍繰り返せば真実になる」であるからだ。
池田氏の発言の真意は知らないが、
この言葉の裏に真実などあるものかという現実への不信感をわたしは見る。
本当は真実などないのかもしれない。
百遍繰り返されたようなウソがとりあえずの真実として流布しているだけではあるまいか。
繰り返すが、池田大作さんがどう思ってこの発言をしたのかはわからない。
わたしは学会員ではないし、そもそもどこの宗教団体にも所属していない。
かといって、幸いにも学会員さんから迷惑行為をされた経験がないのでアンチでもない。
色眼鏡をかけずに、「ウソも百遍繰り返せば真実になる」に向き合うと、
なかなかいいことを言っているのではないかと思うのである。

法華経は般若心経と並んでわが国で有名な大乗仏典である。
仏教伝来後、聖徳太子が重んじたことからもわかるよう、日本仏教の核ともなった教典だ。
ものすごく低俗な内容紹介をすると、「ウソをつくお父さん」といってよい。
われわれのお父さんを自称するものが、
「いや~あっはっは、わが子よ、あれはウソだったのだ~よ」と物語る。
なにがウソだとわれわれの父は言うのだろうか。
仏教の開祖である釈迦が説いた教えは実のところウソだったとお父さんは何遍も繰り返す。
われわれは人間・釈迦の教えとして四諦や十二因縁を知っている。
どちらも人間の苦しみを分析したうえでの脱出方法である。
苦しみとはいったいいかなるものか。どうしたら苦しみが消えるのか。
釈迦の説いた教えである。絶対に否定できない初期仏教の教えである。
この否定できない教えを、お父さんは実にうまく丸め込むのだ。
たとえば、譬喩品第三、火宅の喩(たとえ)。
お父さんは火事になった家のなかにいる子どもを救いたい。
このために「外に羊車、鹿車、牛車があるよ」というウソをつく。
子どもが焼け死んでしまったらたいへんだからだ。
四諦や十二因縁という釈迦の教えは、このウソのようなものだと言うのである。
法華経以前の大乗仏教の教えである六波羅蜜もおなじく。
六波羅蜜とは、「布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若」のことでこれもウソだと言う。
少なくとも、それほど大切ではないとお父さんは言う。
論理的に考えたら、詭弁もいいところなのである。
開祖の釈迦の正しい教えを、わけわからないおっさんがウソだと言うのだから。
しかし、「ウソも百遍繰り返せば真実になる」――。

たとえば、信解品第四、長者窮子の喩。
これなんかもまことにうまいウソである。
「あなたは本当にお父さんなの?」と言われたときのための教えだ。
お父さんは隠していたが、実は大金持だと言うのだから。
われわれは便所掃除をしている下働きにたとえられる。
「なあ、親切な上司がいただろう? それは本当はお父さんだったのだよ」
しかし、父であることを名乗るとわれわれが恐縮すると思って、わざとウソをついていた。
またもやウソである!
開祖の釈迦は親切な現場監督のようなものだと言っているに近い。
われわれのためを思ってお父さんが現場監督のふりをしていたと言うのである。
言うべきときが来たら言おうと思っていたが、いまそのときが来たと言う。
正直、われわれとしても
大金持のおじさんから本当の父親だと打ち明けられたら困ってしまう。
迷っているわれわれにお父さんはさらにウソを畳みかける。
薬草喩品第五、三草二木の喩。
お父さんは天で、われわれはさまざまな草木なのだと言う。
天は一様に雨を降らせるが、われわれ草木はさまざまな受け取り方をする。
それぞれ育ち開花していく。
これはお父さんの教えをさまざまな形で聞くのとおなじだと言ってくるのである。
「四諦も十二因縁も六波羅蜜もいいが、お父さんの本当の教えはもっといいのだよ」
だから、初期仏教の教えを完全否定しているわけではないのである。
ウソつき父さんは大人なのかもしれない。
「あいつはダメだ、こいつもダメだ」とやると反発を買ってしまう。
「あいつはたしかに偉い、こいつもまあ偉い、しかしおれはな、もっともっと偉いんだ」
としたたかなおじさんは言うのである。
このおじさんは本当にわれわれの父なのだろうか。
「当たり前じゃないか息子よ」と肩を叩かれると、
思わず「お父さん」と応えてしまいそうになる。

「みんなおなじ旅人じゃないか」とお父さんは言う。
化城喩品第七、化城の喩。
長旅で疲れていると、歩く元気もなくなる。
ぜひともみんなでゴールに行きたいが、途中であきらめてしまったら元も子もない。
このため、導師が神通力で仮のお城を見せて、あそこまで行こうと勇気づける。
本当はみんなでもっと遠いところまで行きたいのだが、当面はあの城を目的にする。
仮の城で休息を取り英気を養ったら本当のゴール目指してまた新たな旅に出よう。
この仮の城が釈迦の教えである四諦や十二因縁だとお父さんは主張する。
このように何遍もウソを繰り返されるとなにが真実だかわからなくなってくる。
お父さんは大金持の親友でもあるという。
「いいか、きみとぼくは親友なんだ」
五百弟子受記品第八、繋珠の喩。
われわれが親友のお屋敷で寝ているときに友は服の裏に宝珠を縫いつけてくれた。
そうとは知らずに、われわれは日々生活のためにあくせくしている。
本当は宝珠をもらっていることに気づいていないというのである。
またもや財物で子たるわれわれの気を引くお父さんであった。

さて、四諦や十二因縁、六波羅蜜は真実の教えではないとわれらが父はしきりに言う。
ならば、果たして真実の教えとはなにか。
以前に法華経を読んだときは、自画自賛だけで教えは書かれていないと思った。
しかし、このたびの読書では法華経の教えをしかと特定した。
いったい法華経の主たる教えはいかなるものなのか。
答えは如来寿量品に書かれている。
ウソにウソを重ねて法華経がもっとも言いたかった真実とはなにか。

「多くの善男子よ、如来は多くの生あるものたちが、卑小な法を願っており、
福徳が薄く、けがれが重いものを見た場合には、これらのひとびとのために、
わたくしは若いときに出家して、最高の完全なさとりを得たと説くのである。
しかしながら、実際には、わたくしは仏と成ってからこれまで、
久遠(くおん)であることは、上述のごとくである。
ただ教化の方法として、生あるものたちを教化して、
仏道に入らせんがために、右のような説をなしたのである」(P371)

「このように、わたくしは仏と成ってからこれまで、非常に大いに久遠である。
寿命は無量・無数の効という非常に長い時間を経過しており、
つねにこの世にとどまっていて、滅することはない」(P372)


自分は久遠仏であるとお父さんはとうとう白状したのである。
自分は永遠である。永遠の仏である。自分は宇宙である。宇宙仏である。
そう、宇宙仏宣言が法華経でもっとも言いたかったことなのである。つまり――。

スーパーブッダ宣言である!

ここでお父さんは極めつけのウソをつくのだから。
如来寿量品第十六、良医の喩。
お父さんは医者でたまたま外国にいるとき、われわれは誤って毒薬をのんでしまった。
帰国したお父さんは子どものためを思って良薬を処方したが、
なかには毒薬のため混乱していて良薬をのもうとしないものがいる。
そこで一計を案じたお父さんはまた外国へ行く。
そうして「父、死す」というウソの連絡を送る。
父の死を嘆き悲しんだ子どもたちは冷静を取り戻し良薬をのむようになった。
元気を取り戻した子どもたちのまえにお父さんは姿を現わし、あれはウソだったと告げる。
初期仏教の不妄語戒(ウソをつくなかれ)なぞにはさらさら頓着しない思考法である。
人助けのためにならウソをついても構わない。むしろ、ウソこそ人を救う。ウソ万歳だ。
大乗仏典法華経は、仏教の開祖である人間・釈迦の死を、
このようなウソの物語で凌駕(りょうが)してしまったわけである。
偉大なるかなウソのちからよ!
釈迦が死んだというのは疑いえぬ真実である。
法華経はこの真実をウソで覆してしまうのだから!
人間・釈迦なぞ久遠仏(宇宙仏)の仮の姿に過ぎず
本当のブッダは永遠に存在していると説く。
これはまさしく「ウソも百遍繰り返せば真実になる」である。
そもそも、どうして釈迦の教えが真実で、法華経がウソと言い切れるのだろう。
四諦や十二因縁が釈迦の教え「だから」絶対的に正しいというのはおかしいのである。
開祖の釈迦「だから」正しいというのはおかしい。
釈迦の教えなど、考えてみたらあまたいる人間の意見のひとつに過ぎないではないか。
要は相対的ということだ。絶対的なものではないということだ。
比して、大乗仏典法華経の説く教えはどうであろうか。
法華経は相対ならぬ絶対の教えを説いているのである。
絶対的存在を考案しえたところに法華経の偉大さがあるとわたしは思う。

以前読んだときには法華経が価値あるものとは思えなかった。
このたび読み返し、これは仏教思想史上の最大革命ではないかと思いを新たにした。
重要なので繰り返すが、法華経のどこがすごいかといったら、絶対を作ったことにある。
人間を超えるものをほかならぬ人間が創造してしまった。
人間がどのようにして絶対的存在に至ったかは法華経を見るとよくわかる。
ウソを何度も重ねることで如来寿量品第十六のスーパーブッダ宣言に到達している。
法華経の成立年代は紀元50~150年と言われているが、
この時期のインド人は初期仏教の教えである四諦や十二因縁を足がかりにして、
ウソを積み上げることでまるで階段を登るようにしてとうとう絶対者まで行き着いたのである。
ウソを繰り返すことで人間以上のもの、超越者を仮構することに成功した。
たかだか絶対を創作するごときが、
なにゆえ偉大なのかわからない方もおられるかもしれない。
しかし、絶対を発明するということはものすごいことなのである。
なぜなら絶対がなければ、善も悪もはたはだ頼りない。
だれかが悪と言ったから悪というのでは、信憑性に乏しいのである。
なぜなら、また別の人がそれは悪ではない、と言うかもしれないからだ。
人間と人間が善悪の問題でいくら論議しようが最終的な結論が出てくることはない。
だが、絶対を仮構すると付随して絶対的善、絶対的悪も生じることになる。
これは人間の意見ではないから絶対的に不変な善悪という位置づけになる。
法華経が初期仏教からはとうてい考えられぬ仏恩(功徳)や仏罰を説くのは、
絶対者の存在を前提としているのである。
つまり絶対的善は仏恩(功徳)で報われ、絶対的悪は仏罰で裁かれる。
なにが絶対的善かといえば、絶対を説く法華経がその地位に就かざるをえない。
このため絶対を説く法華経が独善的になるのは致し方ないことなのである。

ウソによる絶対の創作がいかに天才的かまた別の説明をしてみよう。
身もふたもないことを言うと、釈迦の教えは宗教でもなんでもないのである。
四諦八正道なぞ、言ってしまえば道徳に過ぎない。
十二因縁は宗教というよりも、ただ観念をもてあそんだだけの哲学だ。
バカにしたような言い方を許してもらえるなら、
しょせん金持のぼんぼんに過ぎぬ釈迦ふぜいが考えられるのはこの程度のものなのだろう。
はっきり言うと、人間・釈迦の教えはあまり役に立たないのである。
たとえば子に先立たれる逆縁という不幸がある。
小さな子どもを亡くしてしまい嘆き悲しむ親に初期仏教の教えが役に立つものか。
その苦しみの原因は執着で、だから執着をなくせば苦しみは消える(四諦)。
こんな空理空論を言われても、いったいなんの役に立とうか。
難病に苦しむ人間とておなじこと。
なまの苦しみのまえでは四諦も十二因縁も空々しい。
六波羅蜜のような説教をされても不快なだけである。
比して、絶対思想のいかにありがたいことか。
法華経の具体的形象は、
観世音菩薩普門品第二十五に書かれているように観音菩薩である。
観音さまはわれわれ人間を超えた絶対的存在である。
したがって、亡児を思い泣く親は観音さまにおすがりすることができる。
難病で日夜痛苦に悩まされている患者も観音さまにならおすがりすることができよう。
科学的な見地から言えば、観音さまが人間になにかしてくれることは断じてない。
しかし、人間は絶対的存在におすがりするだけで救われるものなのである。
以前、アル中が治ったという創価学会員から連絡をもらったことがあるが、
たいていの人間の不安は四諦や十二因縁を知ったところで消えたりはしない。
絶対存在に帰依することで人間の不安は落ち着きをみせるのである。
いかに絶対の思想が無力で弱い人間を救済するか!
たしかに強い人ならば四諦や十二因縁の教えでアル中など治せるのだろう。
けれども、弱い人間は苦悩に際して絶対的存在に支えてもらうほか生きようがない。
この絶対をまんまと創作(仮構)なしえたのが大乗仏典の法華経なのである。

この久遠仏(永遠仏、宇宙仏、スーパーブッダ)の考え方は、
仏教業界において「久遠実成(くおんじつじょう)」と呼ばれている。
この久遠実成はわたしの表現で言うならば、「絶対がある」ということだ。
「人間を超えるものが存在する」と言い換えてもよい。
古代日本に法華経が受容されたのは、この絶対性ゆえであろう。
法華経があれば、政敵を絶対的悪として葬り去ることができるからである。
自己の絶対的な正義も法華経に裏づけしてもらえるという理屈だ。
不謹慎な言い方をすれば、法華経は麻薬のように人間の精神をとろかすのである。
具体的には「あいつが悪い、おれは正しい、なぜならおれは特別だから」というように。
これは法華経の主張しているところとおなじだから因果なものである。
さて、仏教の総合大学ともいうべき日本天台宗は法華経を根本経典としている。
この天台宗で学んだ秀才・法然の言い出したのが南無阿弥陀仏である。
正確には南無阿弥陀仏はそれ以前よりあったが(たぶん空也の時代から)、
法然の独創はこの念仏だけで救われるとしたところである。
貴族だけではなく文盲の庶民でもだれでも口で南無阿弥陀仏と唱えるだけで救われる。
法然の教えは法華経を完全無視して、浄土三部経を根拠としたものである。
しかし、法然はほかならぬ法華経から南無阿弥陀仏を考えついたと思うのだ。
念仏とは、阿弥陀仏に南無(帰依)するという実践行為である。
法然は法華経の説く久遠実成(絶対)を経典ではなく
わかりやすい阿弥陀仏に仮託したのだ。
阿弥陀仏を絶対とすることで、この絶対に帰依する安心を法然は説いたのである。
はじめに法華経の絶対思想ありき、なのだ。法然は法華経から絶対思想をぱくった。
法然の弟子・親鸞になると和賛に久遠実成という言葉をそのまま使っているくらいである。
そうと知ってか知らずか師匠のぱくり元を節操もなく指摘したとも言えなくもない。

「久遠実成阿弥陀仏
五濁の凡愚をあはれみて
釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)としめしてぞ
迦耶城(かやじょう)には応現する」


意味は――阿弥陀仏は実のところ久遠実成(宇宙仏)で、
なんだかんだと苦しむ愚かなわれわれをあわれみ、
みなさんのよく知っているインドのお釈迦さまとして、
迦耶城にお生まれになったのである。
この親鸞の和讃からご理解いただけるよう実際は浄土真宗も法華経の影響下にあるのだ。
親鸞の言う絶対他力の絶対とは久遠実成のことなのである。
法華経が絶対存在を説いていなかったら、浄土宗も浄土真宗も成立しなかった。
曹洞宗の道元が弟子をグーで殴れるのは法華経で絶対思想を学んでいたからである。
おのれを絶対的善と思わなければなかなか弟子を殴打できるものではない。
法華経のもっとも醜いところである自己愛精神を正しく受け継いだのが日蓮である。
法華経に記された常不軽菩薩の謙虚さや観音信仰のありがたさをまったく無視して、
さらには法然や親鸞の易行念仏を図々しくも模倣した挙句、
日蓮の完成させたのがいまでは創価学会で有名な独善的な南無妙法蓮華経である。

法華経はたしかに偉大な仏教経典ではあるが、内部のバランス感覚を忘れてはならない。
絶対を創作(仮構)する必要からどうしても独善的になってしまったのは仕方がない。
とはいえ、なかには身体障害者は、
法華経を誹謗したからそうなったのだといったようなことまで書かれている。
法華経の悪口を言ったら、かならず貧乏人、癩病、障害者、狂人になると
偏執的に強調している箇所まである始末だ(譬喩品第三、P132~136)。
最後の最後まで(普賢菩薩勧発品第二十八の最終記述)
仏恩(功徳)と仏罰を強調しているのは、まるで暴力団の脅迫のようで気分が悪くなる。
ほかにも、いわば父性的に物事を裁定する描写が非常に多い。
この父性強調のバランスを取るために設けられたのが、
常不軽菩薩品第二十と観世音菩薩普門品第二十五なのではないか。
観音菩薩はあらゆるものに変身して、まるで母親のようにわれわれをお救いくださる。
父性の強い法華経は観音菩薩の母性でバランスを取っているように思える。
このため法華経を信仰するならば南無妙法蓮華経と騒ぐのもいいが、
絶対を説いた法華経を大切に思いながら日本各地にある観音さまにお参りするのも
それほど悪いことではないと思うのである。
(正しい正しくないを問題にするなら、そもそも法華経がウソの集積なのである)
法華経の独善的かつ排他的な暴力性に酔いしれるのも楽しいのだろうが、
一方で常不軽菩薩のように偉ぶらずただただおのれの無力を自覚し、
そのうえで絶対=法華経=観音菩薩に深くこうべを垂れるのもまたいいのではないか。
後者のような法華経信仰があってもいいとわたしは思うのである。
南無阿弥陀仏=南無妙法蓮華経と恐ろしくも言い放ったのは時宗の一遍だが、
わたしもまた法華経信仰と念仏はとりたてて矛盾しないと思う。
なぜなら念仏の根底にあるのは法華経の説く絶対精神だからである。
絶対他力信仰は法華経に依っていると言ってもいいと思うからである。

最後に法華経の構造を整理する。
ここまで長々と書いてきて、それでもやっぱり法華経の内容は、
「ウソも百遍繰り返せば真実になる」(池田大作)だと思うのである。
たぶん、ウソをつくという行為は人間ならではのものなのではないか。
現実に逆らいウソをつくという行為のなかに、おそらく希望のようなものがある。
現実(事実)だけでは味気なくてたまらないからウソをつく。
このとき、ウソは絶望苦悩する人間にとって唯一の希望となろう。
ウソは不妄語戒で禁じられるような罪悪ではなく、
むしろなにごともままらなぬ苦ばかりの現世を生きる人間に許された
数少ない希望のひとつではなかろうか。もしかしたらただひとつの――。
ウソから希望、すなわち苦界を生きるちからが湧いてくるのではあるまいか。
こう考えたとき、法華経でいちばんのウソはこの箇所である(如来寿量品第十六)。

「仏のことばは真実であって、虚妄(いつわり)ではないのである。
かの医者が善い教化の方法をもって、
本心を失った子を病いから治療せんがためのゆえに、
真実は生きているのに、しかも死んだといわせた、
[それによってその子を全快させた場合に]、
これを虚妄であると説くものはいないがごとくである。
わたくしもまた、世界の父であって、多くの苦しみや患いを救うものである。
凡夫は心が顛倒していることによって、
真実は生きているのに、しかも滅したというのである」(P380)


ウソをつけって話なのである。真実は、釈迦は死んでいるのである。
人間はだれしも死ぬのである。いいですか、死なない人間はひとりとしておりませぬ。
しかし、釈迦は死んでいないと思いたい人たちがいた。
釈迦はいまも久遠仏(宇宙仏)として生きていると思いたい人たちがいた。
死は終わりではないと燃えんばかりの熱情で訴えたのが法華経のウソである。
本当ならウソ(虚妄)であるはずのことがなぜか仏典では真実になってしまう。
これが大乗仏典法華経から得られる希望――生きるちからなのだろう。
法華経は真実ではなくウソであるからこそ、われわれの生きるちからとなる。
ウソを真実だと思うとき、もしかしたら奇跡が起こるのかもしれない。
奇跡は起こらないのかもしれないが、
ウソを真実だと信じると生きるファイトが湧いてくるのかもしれない。
「ウソも百遍繰り返せば真実になる」――。
たしかに法華経信者は大勢いるから、
あの人たちのなかではウソが真実になっているのである。
そもそもはなからウソと真実は明確に区分できるものなのか。
狂ったようなことを書くと、ウソも真実もこの世には存在しないのではないか。
言い方を換えたら、ウソも真実も同一のものなのではないか。
法華経においてウソが真実になってしまっている(ウソ→真実)。
ならば、ウソと真実は元からおなじものだったのではないか(ウソ=真実)。
そうだとしたら、世界には本来的にウソも真実もないのではないか(ウソ=ゼロ=真実)。
物事をウソや真実だと判断するのは人間だが、
その人間を超越する絶対者の目から見たらウソも真実も存在しないとは考えられないか。
これを仏教業界では「諸法実相(しょほうじっそう)」というのではないかと思う。
諸法実相は方便品第二に出てくるらしいのだが、
現代語訳を繰り返し読んだけれども残念ながら該当箇所を発見することができなかった。
しかし、如来寿量品第十六に似たような思想を見つける。

「多くの善男子よ、如来が述べる経典は、
みな生あるものたちを済度し解脱させんがためである。
仏はあるいは自己の身体を説き、あるいは他の身体を説き、
あるいは自己の身体を示し、あるいは他の身体を示し、
あるいは自己のことがらを示し、あるいは他のことがらを示すけれども、
それぞれに説く多くの語ることがらは、
みな真実であって虚妄(いつわり)ではない。
それはなぜかといえば、如来はありのままに三界(欲界・色界、無色界の全世界)
のありかたを知見しているからである。
すなわち、如来は三界に生まれたり死んだり、
もしくは退いたり、出てきたりすることがあることなく、
また世にあるとか、なくなって消滅するということもなく、
真実でもなく、虚妄でもなく、
そのとおりでもないし、それとは異なっているのでもないことを知見し、
三界に住んでいるもの(=凡夫)が三界を見るようではない。
このようなことがらを、如来は明らかに見ていて、誤ることがない」(P371)


正しさだけを求めたという三枝充悳氏の訳は、美しくもわかりやすくもないが、
法華経の息吹を正確に伝えてはいるのだろう。
関係ない話だが、わたしはこの法華経現代語訳をたったの1日で読むことができた。
ということは、なかなかの名訳なのだろう。
さて、引用文中でわれわれのお父さん=如来はなにを言っているのか。
「如来はありのままに三界を見ている」
「如来の知見は、われわれ凡夫が三界を見るようではない」
川向こうの絶対(=如来)からこちらの三界を見ると、
無常世界とは違う見え方をするこということだろう。
如来(絶対)から見たら、真実と虚妄(ウソ)はどのように見えるのだろうか。
「如来は、真実でもなく、虚妄でもなく」と書かれている。

☆「如来(絶対)≠真実≠ウソ」

如来から見たら真実もウソもないというのである。
このため「ウソも百遍繰り返せば真実になる」も間違いではない。
「ウソ×百=真実」は正しい。
なぜなら、そもそも如来から見たら「ウソ=ゼロ(ない)=真実」なのだから。
代入したら「ゼロ×百=ゼロ」となり計算式として成立している。
法華経の流れを図式化したら「ウソ→真実→絶対」である。
もっと正確に言えば、最初はウソばかりで真実をでっち上げ、
今度は「これは真実である」と連発して絶対に至っている。
だから「ウソ×百→真実×百→絶対」としたほうがいいのだろう。
そしてようやく絶対に至ってから「絶対≠真実≠ウソ」とすべてをひっくり返している。
これが主に久遠実成と諸法実相を説く法華経である。
ふとした思いつきだが、こういう見方もできるのかもしれない。
最後にちょっと遊んでみたい。

1.久遠実成=「ウソ×百」

2.諸法実相=「真実×百」

3.法華経=「ウソ×百→真実×百→絶対」

*最後までお読みくださり本当にありがとうございます。
これは不勉強なわたしの間違った法華経解釈で、
あなたの正しい考えとは違うかもしれません。
あなたが絶対的に正しいということにわたしも諸手を挙げて賛成いたします。
どうか宗教問答や破邪顕正を吹っかけてこないでくださいませ。正直、めんどくさいっす。

COMMENT

I田D作 URL @
08/24 21:04
. 貴殿の法華経の解釈は正しいよ。南妙法蓮華経。
Yonda? URL @
09/06 23:13
I田D作さんへ. 

コメント、けっこうな励みになりました。
本場の人は南無妙法蓮華経ではなく、南妙法蓮華経というのでしょうか。
グーグル検索したら、法華経音唱の動画がヒットして、思わず聞き入ってしまいました。
- URL @
10/30 13:58
管理人のみ閲覧できます. このコメントは管理人のみ閲覧できます
Yonda? URL @
10/31 23:03
U祖8百さんへ. 

> いい意味で
> 貴殿の解釈、自由でいいッスね。
> しびれましたー。
> なかなかここまで自由な心の方、いないなー。
> 仏典解釈は人の自由でいいと思われ。
> じゃないと信仰の自由なんか意味ないし。
> 御本出されてます?ウチが出版社なら、
> 速スカウトしますわ。恭敬。

こんな長文記事を最後までお読みくださり、本当にありがとうございます。
それにご感想までいただき。そのうえ肯定的なもので。
どう感謝したらいいかわからないくらい、「ありがとうございます」です。
鍵コメントの取り扱いはいつも迷います。
こちらの不具合でメアド欄は開けませんので、
もし個人的な交流をお望みでしたらお手数でしょうが
そちらからメールをお願いします。
鍵コメントの公開にご不都合がございましたら、
おなじく鍵コメントかメールでその旨をお伝えください。
すぐに削除いたします。

しつこいようですが、こんな長文をぜんぶお読みくださり、ありがとうございました。








 

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