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「しんとく丸」

「しんとく丸」(室木弥太郎・校注/「説経集」新潮日本古典集成)

→「しんとく丸」は日本の「オイディプス王」ではないか。
むかしギリシア悲劇「オイディプス王」を読み、ただならぬ衝撃を受けたものである。
思わず、ちくま文庫の「ギリシア悲劇全集」を読破してしまったほどだ。
「オイディプス王」を根っこに持つ西洋文化に空恐ろしささえ感じた。
しかし、日本にも「しんとく丸」があったのだ。
説経節「しんとく丸」は「オイディプス王」に匹敵するといっていいほどの
禍々(まがまが)しさを有している。呪われた感覚とでもいおうか。
日本仏教は実のところ上層(学問)仏教と下層(庶民)仏教のふたつが存在する。
「しんとく丸」の物語は下層仏教の精髄といったおもむきがある。
「親の因果が子に報う」「親の罰は子に当たる」「因果はめぐる小車」――。
こういった前時代的な黒々とした教訓が不気味な物語として結晶している。

物語は、大金持(長者)の家から始まる。
金がうなるほどあるところに不幸が忍び寄るのである。
金持の夫婦は莫大な財産があるため、なに不自由ない恵まれた生活をしていた。
金がありさえすれば、そうとうなことが自由になるものである。
唯一の悩みは、夫婦のあいだにどうしても子供ができないこと。
どんなにお金があっても子供だけはどうにもならない。
ここで夫婦があきらめていたら「しんとく丸」の悲劇は起こっていなかった。
しかし、夫婦はなんとかして子宝を得ようと京都東山の清水寺に参る。
どうか我われ夫婦に子供を授けてください、
とご本尊の観音様(観音菩薩、観世音菩薩、観自在菩薩)にお願いしたわけだ。
その晩に夫婦の夢に観音様が出てきて二人に子供ができない理由を教えてくれるのだが、
ここが「しんとく丸」の白眉(サイコー!)であろう。

観音様は夫婦に向かって、前生の因果のため子供ができないのだという。
夫のほうは前世できこり(林業従事者)であった。
仕事の必要からたびたび山林に火をつけて燃やしていた。
ある春のことである。
その地域にキジの夫婦が住み着き、母は巣に12の卵を生んだ。
そこに火が迫る。きこりが火をつけたのである。
キジ夫婦は谷水を口に含み何度も往復して消火しようと試みた。
しかし、火の勢いは強い。卵をなんとか移動させようとしたがままならぬ。
ついに父鳥が逃げ出した。そして、逃げろという。
「逃げろ。子供ならまたできよう。いまは子を捨てるしかない」
母鳥はどうこたえたか。
「情けない父親だ。この12の子供のうち、
一羽が巣立たないだけでも不憫なのに、ましてや子供をみな捨てることなんてできない」
そういうと母鳥は子供もろとも焼死してしまった。
一部始終を見た父鳥は、火をつけたきこりを呪いながら自殺する。
「あいつがまた人間に生まれ変わったら、金持にしてくれ。
貧乏子だくさん、長者に子なしというからだ。
そうしてあいつは明けても暮れても子供がほしいと嘆くのだ。
嘆きながら悩みにつつまれそのまま死んでしまえ」
このため、いま子種がないのだと観音様は言い聞かせる。

また観音様は妻のほうにも前生の因果があるという。
妻の前世は橋の下に住む大蛇であった。
あるときツバメの夫婦が近くに住み着き、12の卵を産み落とした。
夫婦は一生懸命、子供を養育していた。
ところが、ある日のこと、夫婦そろって餌を探しに行ってしまう。
これはいい機会だと大蛇は巣もろとも子供をみな食べてしまった。
戻ってきたツバメ夫婦の驚きといったらない。
これは大蛇に食われたかと気づいたが、それでもあきらめきれない。
せめて一羽でいいから子供を残してくれていたら。
絶望したツバメの夫婦はお互いの胸をくちばしでつつきあい心中した。
大蛇ときたらこの夫婦の遺骸もご馳走だと喜びながら平らげてしまったのである。
このため、いま子種がないのだと観音様は言い聞かせる。

金持夫婦はどちらとも前世で他の生き物を自殺に追い込んでいたのである。
子供ができないのもむべなるかな。
親切にも観音様がこう教えてくださったというのに二人はあきらめようとしない。
まずはあろうことか観音様を呪うようなことをする。
それでもダメなら裏取引である。
もし子種を授けてくれたら、見返りに数々の財宝を奉納しようと誓文を立てる。
観音様ときたら、これに乗ってしまうのだから。
「なら子種を与えるが、その子が7つになったとき、
父か母のどちらかに命にかかわる事件が起こってもよろしいかな?」
子供ほしさにあまり先のことを考えず承諾する夫婦であった。
こうして生まれたのが男子しんとく丸である。

こういう裏事情をまったく知らずにしんとく丸はすくすく成長する。
13歳になったしんとく丸は初恋まで経験する。
相手はおなじく長者の美しい娘、乙姫である。
どこまでしんとく丸は運がいいのだろう。乙姫と両思いになることに成功する。
ところが、ここまでであった。
前世は大蛇だったしんとく丸の母親が不適切、不謹慎な発言をしてしまう。
「そういえばむかし観音様になにかいわれたけれど、
子はもう13になるのに父にも母にも災いは生じていない。
清水寺の観音様でさえ嘘をおっしゃるのだね。
なら我われも世渡りのために嘘をつこうではありませんか」
これを聞き逃す観音様ではない。いままで守ってやっていたのに不届き千万。
さっそく母親に病を与え、その日のうちに死に至らしめてしまう。
これはいってしまえば仏罰である。
もしかしたら仏罰こそ下層仏教、底辺仏教のよりどころなのかもしれない。
学問仏教からは仏罰という考え方は出てこないのである。
仏罰思想は底辺で足を引っぱりあうクソ庶民からしか出てこないはずだ。
かつては病人、貧乏人の巣窟だった底辺庶民派仏教団体S学会も、
仏罰という概念を実にたくみに(恐ろしいことに)嬉々として用いている。

前世はきこりだった父親は早々と後妻をめとる。
母の早い再婚に嘆いたのはデンマークのハムレットだが、
日本のしんとく丸は父のあまりにも早い再婚に嘆く。
我らがしんとく丸はハムレットのように能動的ではない。
父と継母のあいだに息子が誕生すると、あっさりすみに追いやられてしまう。
この後妻が悪い女であった。
しんとく丸がいなければ自分の息子が跡取りになると考え、清水寺に詣でる。
卑劣ここに極まれり。女はしんとく丸を呪うのである。
「観音様、どうかしんとく丸に死を与えてください。そうでなければひどい病気を!」
しんとく丸は業病ともいわれる、みなから嫌われるあの呪われた病気にかかってしまう。
顔や身体が醜く朽ち果てるハンセン病、らい病である。
同時に眼球もつぶれ盲目になってしまう。世界は真っ暗闇だ。
悪妻の助言を聞き入れた前世はきこりの父親は、らい病の息子を捨てることに決める。
このへんは黒々とした因果や宿業がもうもうと煙りながら燃え盛っているようで興味深い。
この父親は前世でキジに子供を捨てさせた張本人なのである。
因果がまわって今度は自分が子供を捨てるに至るわけだ。

清水寺に乞食として捨てられた、らい病のしんとく丸である。
彼としたらなにがなんだかまるでわからなかったはずだ。
いきなり天国から地獄に落ちたようなものである。
金持のお坊ちゃまから、業病をかかえた哀れな乞食に転落してしまったのだから。
我われは「親の因果が子に報う」を知っているが、
しんとく丸本人は事情をなにひとつ知らないのである。
彼は盲目のためなにも見えないが、この身体障害はどこか象徴的でさえある。
さあ、しんとく丸はどうするか。とくになにもしない。
乞食をしていると夢に観音様が出てきて熊野の湯に浸かれば病気が治ると教えられる。
しんとく丸はいわれたとおりに物乞いをしながら熊野に向かう。
この途中で目が見えないためうっかり乙姫のお屋敷に入ってしまう。
かつての自分を知る使用人からさんざんバカにされ、
生き恥にもだえながらその場をあとにするしんとく丸であった。
この噂を聞いた乙姫は心を痛める。
自分もみんなと一緒に笑ったと思っているのではないか。
しんとく丸の姿かたちは変わっていても、乙姫の恋心は変わらなかった。
乙姫は乞食にまで身をやつしたしんとく丸を追いかける旅に出る。
このとき乙姫が道中の安全を考え男装するのは、どこかしらシェイクスピア的だ。

不幸な男を救うのは女であった。しんとく丸を救ったのは乙姫である。
らい病でただれた乞食の身体をお姫様は抱きしめる。
二人で清水寺に参ると、今度は乙姫に観音様から夢のお告げがある。
乙姫は夢の中で観音様から教えてもらう。
しんとく丸がこのような業病に取りつかれたのは継母の呪いのためである。
さらにどんな病気も治す不思議な鳥帚(鳥の羽で作ったほうき)があることを。
乙姫は鳥帚(とりぼうき)を見つけ、しんとく丸の病気を治してやる。
この鳥帚というのが心憎い。
しんとく丸の両親の前世を思い出してください。
父も母も前世で鳥類(キジ、ツバメ)の子供を殺して親の恨みを買っているのである。

さて、前世でキジを殺した父と継母はどうなっているか。
しんとく丸を追放して、うまくいっているのか。
否である。またもや禍々しい仏罰が下っているのである。
しんとく丸の父親は信吉という。

「これはさておき申し、河内の国におはします、
信吉殿にて物の哀れをとどめたり。人を憎めば身を憎む。
半分は我が身に報ひてござあるなり。
継母のかたちへは報はいで、信吉殿に報うてあり。
両眼ひつしとつぶれてに、これはこれはとばかりなり。
もはや御内(みうち)の者までも、思ひ思ひに落ちゆけば、
身は貧凍になりぬれば、河内の国高安にたまられず、
丹波の国へ浪人とぞ聞えける」(P203)


なんと父親の目玉もまた、しんとく丸とおなじようにつぶれてしまったのである。
そのうえ財産をなくし、いまは浮浪者となってしまっている。
親も子も時期は違えども交通事故に遭遇するといった不可思議なことがままあるが、
この眼病もそういった呪われた宿命を見事に描いているように思う。
一方で乙姫と結ばれたしんとく丸はギャクタマに乗ったようなもの。
深い因縁のある父と子は再会する。しんとく丸は鳥帚で父の目を治してやる。
のみならず、しんとく丸は仕返しとして継母と腹違いの弟を殺害する。
いちおうはこれで「めでたしめでたし」のハッピーエンドということらしい。
しかし、校注の室木弥太郎氏の指摘するよう、腹違いの弟に罪はない。
幼い少年は、しんとく丸に殺されるいわれがまったくないのである。
まさしくこれこそ「親の因果が子に報う」ということなのかもしれない。
とりあえずはここで説経節「しんとく丸」は終わっているが、深読みすると恐ろしい。
罪なくして母とともに殺された少年は強くしんとく丸を恨んだのは間違いない。
これはかならずや結婚後のしんとく丸と乙姫の新生児に報いが生じるはずである。
説経節「しんとく丸」は永遠に終わらない因果の連鎖を描いている。

繰り返すが、しんとく丸はどうして自分が苦しまなければならなかったかを知らない。
そう、我われもみな「しんとく丸」なのである。
どう考えても理由のわからない難病や災厄に見舞われるものが現代でも少なくない。
この苦しみへの回答として説経節「しんとく丸」は、
禍々しい前生の因果と毒々しい親の因果を黒々と説くのである。
あまたこの世に存在する致し方ない不幸に対するいわば処方箋である。
前生の因果と親の因果に苦しみ抜いたしんとく丸の生き方から我われも学ぼう。
しんとく丸は親を恨んではいない。
ただただ忍びがたき因果の重みをあるがままに受け入れ、盲目的に観音様を崇拝した。
これでいいのだろう。観音様を信頼するしかない。
いつかあなたやわたしのまえにも優しくて美しい乙姫が現れぬとも限るまい。
観音様(観自在菩薩)は般若心経に登場することでも有名である。
般若心経でもとなえながらわたしも因果の重みを引き受けようかと思う。

(注)もちろん、本稿にハンセン病差別を助長する意図はありません。

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