FC2ブログ

「さんせう太夫」

「さんせう太夫」(室木弥太郎・校注/「説経集」新潮日本古典集成)

→物語自体は「山椒大夫」や「安寿と厨子王の物語」で、みなさんもよくご存知だと思う。
このたび説経節で物語を再体験してみて、あまりの安っぽさにひるんだ。
これは物語パターンとして、そうとう浅はかなのではないだろうか。
連日のように精神病患者を診察する春日武彦医師の到達したシニカルな人間観に、
「こだわり、プライド、被害妄想」というものがある。
人間なんてどのみち「こだわり、プライド、被害妄想」に拘泥(こうでい)するほかなく、
その程度のひどくなったものが精神科を受診するのだという。
そして、説経節「さんせう太夫」は、
まさしく人間共通の「こだわり、プライド、被害妄想」を甘く刺激する物語となっているのだ。

物語を荒っぽく説明する。
名門武士の子である姉弟が人買いに奴隷として売られる。
同行していた母親は別のところに売られていく。
姉弟は奴隷としてこき使われる。
これはもう奴隷なんだから仕方がないのだが、偏向的に悲惨が強調される。
姉は弟を逃がす。その責任を取らされ姉は責め殺される。
弟は寺の坊さんの慈悲でかくまわれ、うまうまと逃亡に成功する。
のちに家系図のおかげで偉くなった弟が、かつての主人に残忍な仕返しをする。
姉の死を知り落涙し、母との再会に喜ぶ。

この物語を「こだわり、プライド、被害妄想」に当てはめると――。
人間はどいつもこいつも自分は本当は偉いのだと思っている(プライド)。
金で買われた奴隷なんだから仕方がないのに(現代のサラリーマンもそう)、
ことさら自分は他人に比べて苦しい思いをしているという不満でいっぱいだ(被害妄想)。
いつか偉くなったら当時の上司にたっぷり復讐してやるつもりだ(こだわり)。

上記のように考えるとなんだかげんなりしてきませんか?
さて、「かるかや」もそうだが、説経節は泣く描写が極めて多い。
とくに頻出する固有の表現は、「流涕(りうてい)焦がれて泣きたまふ」――。
これは本当によく出てくるので覚えてしまい、
散歩中などふと口をついて出てくるようになってしまった。
説経節の登場人物は人目もはばからずわんわん泣きやがる。
つられて聴衆も泣いたのだろうが、これは健康によかったはずである。

「さんせう太夫」における緊迫シーンは実に大衆娯楽的でよろしい。
奴隷の身分から逃げ出したつし王(厨子王)は寺に逃げ込む。
坊主はつし王を籠(かご)のなかにかくまう。そこに追っ手がやってくる。
「わっぱ」をかくまっていないかと問われる。
坊主が自分のほかだれもいないとうそぶくと、追っ手はなら仏に誓えるかという。
「わっぱはいない」と仏に誓文を立ててみろ。
坊主は「ふたつにひとつ」で迷うが、これは定番である。
住職の心中描写。

「今はわつぱを出さうかよ。又誓文を立てうかよ。
今わつぱを出せば、殺生戒を破るなり。
又わつぱを出さいでに、誓文を立つれば、妄語戒を破るなり」(P123)


少年を差し出したらおそらく殺されるのだから、
そうすると仏教で禁じられた殺生戒を破ることになってしまう。
しかし、誓文を立てたら、
仏教で禁止されている妄語戒(嘘をつくなかれ)を破ることになる。
結局、坊主は妄語戒を破り嘘をつく。
このおかげで後日、出世したつし王から厚遇されるに至る。
冷静に考えたら、ここはおかしいのね。
だって、正義は追っ手にあるのだから。
金で買った商品である奴隷が悪さをしたら厳しく罰するのが当たり前でしょう。
つし王など殺されるのが道理というものなのである。
とはいえ、民衆の願望を描いた「さんせう太夫」ではそうはならない。

まとめると「さんせう太夫」は勧善懲悪の物語である。
人間なんて全員が全員ひとり残らず自分は善人だと信じているから(私は悪くない)、
こういう物語が受けるのである(あいつのせいだ、いつか復讐してやる)。
それから作品のメッセージは「慈悲のすすめ」になるのだろうか。
他人には慈悲をもって接しよう。
そうすれば、つし王を助けた和尚さまのように「いいこと」があるかもしれない。
このへんは現世利益をにおわせていて物語ともどもいやらしいと思う。
しかし、「かるかや」よりも「さんせう太夫」のほうが無知な民衆には受けたのではないか。
観客が「さんせう太夫」の物語を身体中で味わい、
すばらしくいい気持になっただろうことは想像に難くない。

COMMENT









 

TRACKBACK http://yondance.blog25.fc2.com/tb.php/3003-5f4334e7