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「かるかや」

「かるかや」(室木弥太郎・校注/「説経集」新潮日本古典集成)

→説経節は演劇の歴史からも仏教の系譜からもたどり着けるため、
両ジャンルに強い関心を持つわたしが読むのは必然だったのかもしれない。
説経節は大衆芸能のひとつ。
全盛期は安土桃山時代で、町角あるいは寺の境内で大道芸のように行なわれた。
根無し草の賎民が旅をしながら行く地、行く地で小金を稼ぐ手段であった。
江戸初期には劇場に進出するようになった。
(人形)浄瑠璃と関係が深く、影響を与え合った。
書物として刊行されたのは、この江戸初期である。

イメージとしてはいまはなき紙芝居屋さんみたいなものか(わたしも未見だが)。
あれの紙芝居のないバージョンと思えばいいのではないだろうか。
もしくは絵のない音だけの映画みたいなものである。
どういうことかというと、芸術ではなく芸能ということである。
なによりもわかりやすい大衆娯楽なければならない。
それから文盲の百姓たちにも、聞いてよかったなと思わせるものである必要がある。
なぜなら、だれも不快なものにたいせつなお金を払いたいとは思わないからだ。

新潮日本古典集成「説経集」には作品が6つ収録されているが、
そのなかでいちばん「かるかや」が深いように思われる。
いろいろな面から考えさせられるということだ。
「かるかや」におけるもっとも強い主題は現世否定の精神ではないか。
現世で不遇な下層民はかならずや「かるかや」を聞いて感動したはずである。
現世否定とは、現世だけではないという思想である。
現世だけだと思うなよ。かならず現世よりも重要な長い後世があるからな。
ならば、現世なぞどうでもいいではないか。
現世がどんなに辛かろうが、後世のことを思えば辛抱することは可能である。
逆に言えば、現世で恵まれている現代のインテリが「かるかや」を鑑賞しても、
おそらく知的興味の対象程度にしか味わえないだろう。

「かるかや」は物語の発端からして現世否定である。
武士の重氏は散る桜を見て「老少不定」を悟り「後世の種」のために出家する。
このいわば軽率な行為が、のちのさまざまな悲劇の原因となるのだが、
思うにほんものの宗教、信仰というものはそういうものではないか。
信仰したら現世利益があるなんていう宗教はインチキなのだと思う。
むしろ仏道に入ることによって、まさしくそのために、
当人にさまざまな不幸や災いがふりかかる。
なぜかといえば、幸福だと人はものを考えなくなるからである。
あまたの災難に遭遇することによって、修行者は深い智恵に到達するのである。
この意味で「かるかや」は信仰の実相を深いレベルで描いた宗教文学でさえあると思う。

さて、13年が経過する。
重氏は出家して道心と名を変え、法然の弟子になっている。
出家時、道心は妻子に再会しても還俗(俗に戻ること)しないという誓いを立てた。
今度は息子の出番である。
父が出家したときには母の胎内にいた石動丸は母と父探しの旅に出る。
父は女人禁制の高野山にいると聞きつけた石動丸である。
母をふもとに残して石動丸は高野山に分け入る。
ところが、石動丸は父の顔を知らない。
「親子の機縁」が深いためか父子は再会する。
父の道心は石動丸が自分の息子だとすぐに気づくのである。
しかし、父であると名乗ったら親子の情にほだされ、いまの立場ではいられない。
このため道心は石動丸に、父を知っているが彼は死んだと嘘をつくのである。
このあたりはドラマチックで、大衆娯楽の本領発揮とも言うべきか。
下山した石動丸は母親が自分を待ちわびて死んでしまったことを知る。
実の父とは知らぬ道心に母の葬送を依頼する石動丸であった。
このときの道心の気持はいかばかりか。
13年ぶりに妻に再会するのだが、それは哀れにもなきがらなのだから。
出家したことを後悔もしただろう。
仏道修行の意味を深く考えさせられたはずである。

石動丸の不幸はこれだけではなかった。
母の遺品をたずさえ故郷に戻ったら、姉の千代鶴姫もまた死んでいたのである。
それも母と弟を待ちわびての心痛のためというのだから。
家族と死別するほどの悲哀はそうなかなかないのではないか。
どうして石動丸はこうも苦しまなければならないのか。
そう、父の重氏(道心)が出家したためである。
むろん、石動丸は父も死んだと思っている。
父、母、姉に先立たれた石動丸はどうするのか。
石動丸の心中を描写した場面を引用する。

「これは夢かや現かや。父には後(おく)れ、母には後れ、
まして千代鶴姫も、今はこの世にござなうて、死骨を見るぞ悲しやな。
かひなき命長らへて、せんなきこととおぼしめし、
共に果てんとおぼしめすが、待てしばし我が心、
我が身も死するものならば、
あとの菩提(ぼだい)を弔(とむら)ふ人もあるまじや」(P74)


石動丸はいったんは自殺を考えるが思いとどまる。
なんのためか。またもや後世なのである。
現世ではなく後世というのが「かるかや」の世界観だ。
死者のめいふくを祈るために石動丸は現世にとどまることを決意する。
天涯孤独の石動丸は高野山におもむき道心と再会する。
こうまで不幸が続いても道心は父であることを息子に告げない。
石動丸に出家するようにすすめる道心であった。
このとき道心が石動丸にかける言葉が「かるかや」全体のテーマだろう。

「後生大事と願はいの」(P75)

意味は「来世で極楽往生するよう、仏にひたすら頼みなさい」(注釈より)。
「かるかや」を聞いていた下層民はこのセリフに深い慰めを感じたのではないか。
ままならぬ世の中である。生きていても、しんどいことばかりだ。
ろくな薬もないから愛する家族と無残な死別を経験したものも多かったことだろう。
しかし、石動丸はどうか!
父、母、姉を亡くしても(父のみ実は生きているが)健気にも辛抱しているではないか。
まったく「後生大事と願はいの」である。
現世のことなんて、どうだっていいのである。後生が大事である。辛抱しよう。
いい話を聞かせてもらったと観客はたいそう感激したはずである。

最後はハッピーエンドである。
道心、石動丸の父子はその後、長いあいだ別々の場所で仏道修行を続け、
それから50年後の同日同刻に仲良く往生(死去)したというのである。

「この世にてこそ御名乗りなくとも、もろもろも三世の諸仏、
弥陀の浄土にては、親よ兄弟、父・母よと、御名乗りあるこそめでたけれ」(P77)


三世の諸仏の集う弥陀の浄土で家族四人は再会したというのである。
この世では不幸なままだったが、あの世で「めでたしめでたし」になるのだ。
むしろこの世で災難つづきだったそのぶんだけあの世での喜びが深まっている。
これはまさしく南無阿弥陀仏のからくりを絵解きしているといえよう。
南無阿弥陀仏の世界観を「かるかや」がいかに見事に物語として描き切っているか!
現世のことなぞ、どうだっていいのである。
かえってこの世では不幸ばかりのほうが、あの世で報われるのだ。
わたしは「かるかや」に深く感動した。

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