「だます心 だまされる心」

「だます心 だまされる心」(安斎育郎/岩波新書)

→著者プロフィールがむやみに長い人や、参考文献に自著を書き連ねる人は
怪しいという思い込みがあったけれど、この本は考えさせられる良書であった。
専門がオカルト批判だが、手品師でもある著者は、
だまされる快楽にも言及している。手品とはだまされるのを楽しむものだ。
そう、人間はだまされることに快感を感じるのだから困るのである。
八百長のプロレスほど怪しくはなくても、
基本的に小説も映画もだまされる愉楽を追求しているのだから。

主観と客観の問題を著者はわかりやすく整理する。
だますだまされるは、主観と客観の相違によっているからだろう。
どういうことかというと、主観的にはそう見えても、客観的には異なるということだ。
手品は主観的には魔術のようだが、客観的には仕掛けがある。
主観を過信してはならない。たえず客観をもって検証しなければならない。
オカルト批判が専門の科学者を自称する著者の主張である。

「人間の判断を文章や記号や式で表現したものを、一般に「命題」と呼びます。
a.3に5を足すと8になる、
b.『源氏物語』は紫式部が書いた、
c.一九四五年、アメリカは広島・長崎に原爆を投下した、
d.ピカソの絵は素晴らしい、
e.核兵器は廃絶されるべきだ、
f.人間は生まれながらに平等である、
などはいずれも命題ですが、
このうちabcは「客観的命題」、defは「主観的命題」です」(P132)


「客観的命題」と「主観的命題」を混合するものがいるから厄介なのだろう。
「客観的命題」は、その命題が正しいか正しくないかを
事実や論理に照らして客観的に判断できる命題だという。
一方で「主観的命題」は人それぞれの価値が問題となるので、答えは人によって違う。
これがオカルト批判の先鋒たる著者の明確な立ち位置のようである。
たしかにこれは正しく、たとえば「漱石の『こころ』は名作である」は「主観的命題」だ。
こう見破ったらこれについていくら議論しても(議論自体はそれなりに楽しいのだが)
客観的な答えは出ないことがわかろう。
しかし、「主観的命題」にもいちおう答えらしきものはあるから我われは困るのである。
たとえば、命題を自分で作ると「人を殺してはいけない」「自殺してはいけない」――。
これは「主観的命題」で本来なら答えはないが、
とりあえず法的権威(憲法)、人的権威(偉い人)に従うならば、
正しい答えがあることになってしまう。
そう、本来なら答えのない「主観的命題」の正否は権威者が決定するのである。
ところが、権威者同士で意見が食い違うことがる。
世俗的権威と宗教的権威が対立することもあるだろう。
世俗的権威のあいだでも意見の相違はあるはずである。
宗教的権威とまた別の宗教的権威の衝突がときに戦争になるのだろう。

しかし、と反論したくなるのである。ここからはわたしの意見になる。
本当に「客観的命題」など存在するのだろうか。
具体的にいえば、御しやすいものから「『源氏物語』は紫式部が書いた」。
これはわたしには確かめようがない。わたしが確かめられる問題ではない。
多くの権威者がこの説を支持しているから、そうなのだろうとしかいえない。
もしかしたら「源氏物語」を書いたのは男なのかもしれない、とも思う。
まあ、そういう事実が現われても多数派は揉み消そうとするのだろうけれど。
難易度を上げていくと、「一九四五年、アメリカは広島・長崎に原爆を投下した」。
これも教科書で知った事実というだけで、わたしが経験したわけではない。
多数派がそういっているというだけである。
もしかしたら原爆投下にソ連が関わっていたかもしれない。
もしそうなら「一九四五年、アメリカとソ連は広島・長崎に原爆を投下した」。
これが正しいということになろう。
さすがにこれだけはいかにも正しそうな、「3に5を足すと8になる」。
どうだ、これは疑えるのか。わたしは「3に5を足すと35になる」と思う。
そうではありませんか? 3に5を足したら35でしょう?
数学というルールの範囲内でなら8が正しいが、視覚から見たら35でも悪くない。
本書の有意義な論考をじっくり吟味(ぎんみ)したうえでわたしが主張したいのは、
もしかしたらかなりの「客観的命題」が「主観的命題」なのではないだろうか?
本当は「客観的命題」などないのではないかといいたいが(ああ、いっちゃった!)、
ここまでいってしまうと頭がおかしいのではないかと疑われるのを懸念する。

著者の出した命題から抜粋する(P160)。
「地球は太陽の回りを公転する」。
これは「客観的命題」か、それとも「主観的命題」なのか。
著者は「客観的命題」だという。
わたしは「主観的命題」ではないかと思う。
多数派および権威者は「客観的命題」だと主張するのだろうが、わたしはそう思わない。
なぜだろうと自問すると、あまり多数派や権威者を信じていないからだろう。
なにしろわたしが目にした事実ではない。
「宇宙はビックバンから始まった」はどうか。
多数派や権威者がこれを「客観的命題」にしているのはわかるが、
わたしはこれを「主観的命題」だと思っている。
人によってそれぞれ答えが違ってよい問題だと思う。
「神様が宇宙を作った」でも「宇宙は偶然に始まった」でも構わないと思う。
「霊は存在する」を「客観的命題」にしてしまっていいのだろうか。
もしかしたら「霊は存在する」も「主観的命題」かもしれない。

わたしが主張したいのは、
なにかの命題を「客観的命題」か「主観的命題」かに分けるとき、
まさしくその瞬間に「主観」が入っているのではないだろうか。
まず「主観」ありきで純粋な「客観」など存在しないのではないか。
皮肉をいえば、真理など多数派の意見に過ぎない、となる。
「3+5=8」は真理ではなく多数派の意見に過ぎないのではなかろうか。

新たな命題を作ってみる。「お題目をとなえたら病気が治る」(by創価学会)。
カルト嫌いの著者は、この命題を「客観的命題」と(主観から!)判断するだろう。
で、病気が治らない信者もいることを指摘してカルト宗教団体を批判する。
わたしは「お題目をとなえたら病気が治る」は「主観的命題」だと思う。
価値の問題である。つまり、突きつめれば、好き嫌いになってしまうのではないか。
わたしはお題目をとなえることで病気が治る例もあるのではないかと思う。
まあ、となえたら100%治るというわけではないとわたしは思うが、
そう信じている人をことさら批判するつもりもない。

ポイントは「わたしは思う(=主観)」である。

わたしは「人間は生まれながらに平等である」と思いますが、あなたはどうですか?
わたしは「核兵器は廃絶されるべきだ」と思いますが、あなたはどうですか?
わたしは「ピカソの絵は素晴らしい」と思いますが、あなたはどうですか?
わたしは「一九四五年、アメリカは広島・長崎に原爆を投下した」と思いますが、あなたはどうですか?
わたしは「『源氏物語』は紫式部が書いた」と思いますが、あなたはどうですか?
わたしは「3に5を足すと8になる」と思いますが、あなたはどうですか?

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