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「ここに泉あり」

「ここに泉あり」(水木洋子/日本シナリオ文学全集9」理論社)絶版

→映画シナリオ。昭和30年公開作品。
「我が日本の地方における最初の職業楽団」の黎明(れいめい)を描いた作品。
戦後まもなくできた地方のプロ楽団を実際にモデルにしている。
夢と志を持った青年たちの物語である。
彼らの願いは、交通の不便な田舎にもクラシック音楽という文化を普及させること。
もちろん、食べるのさえたいへんな時代にこんなことをするのだから苦労の連続だ。
青年たちの夢と挫折、迷いと葛藤がユーモラスに描かれる。
夢を持った若者たちが無理といわれている難関に挑戦するお話は普遍的なのだろう。
もしかしたら戦後の日本民主主義からもっとも愛された筋書きかもしれない。
独裁者がいるのではなく、民主主義的に「みんなでがんばる」お話のことだ。
特徴は、夢や希望に向かって(ひとりではなく)みんなで前進すること。
日本人にとって民主主義は、「ひとりの意見」の尊重ではなく、
「みんなの意見」の最重要視を意味した。
この日本民主主義を美しく謳いあげたのが青春映画「ここに泉あり」である。

脚本家が書きたいことを書いているのがよくわかる。
ここを作家は書きたいのではないか、という箇所をメモしておいた。
先ほど映画のレビューをざっと見たが、まさしく客はそこで泣いているのである。
脚本家の書きたかったシーンで観客が感動して泣いているのである。
よく玄人ぶってこの映画のここが「うまい」などと饒舌に語るファンがいるが、
あれは最低ではないかと思う。やはり映画は感動するために観るものではないか。
知ったかぶって感動とは別の知的部分で映画を評価するのはアホだと思う。
とにかく脚本家の水木洋子は書きたいシーンを書いていた。
さらに、そこで観客は泣いていたということだ。
ならば映画監督にできるのは技術操作だけで、やはり感動は脚本家がつくるものとなろう。
ところが、映画ファンというものは監督から感動をもらったと誤解する。
いい悪いではなく、すべての手柄を監督が独占する仕組みに映画はなっているのである。
この不公平を解消するのはギャラなのだが、
水木洋子くらいになったらそれに見合う報酬をきちんともらっていたのだろうか。

感動シーンをひとつ抜粋しておく。
マネージャーの亀夫がひとりで引っ張ってきた楽団だったが、ついに解散に追い込まれる。
最後の演奏旅行ということで野を越え丘を越え僻地に出かける。
ぶじ演奏を終えた。子どもたちは喜んでくれた。最後にはみんなで合唱した。
帰ったら待っているものは――。

「○山の中腹
   帰途につく速水たち。
   雨上りの山間(やまあい)に浮ぶ虹の輪。
   子供たちの合唱が聞える。
   立ちどまる一同。
子供たちの声「みなさん、さようなら……」
   こだま――
亀夫「さよ……なら……」
   こだま――
亀夫「山奥の分教場へ帰って行くんだ。
 もう生の音楽を、きくことは一生のうち二度とないだろうって先生が云ってた……
 みんな炭焼か木樵(きこり)で一生を終るんだ……」
   合唱していく子供たちの姿は次第に見えなくなる。
   かすかに残る唄声――
   みんなは、じーんと耳をすます。
   涙をこらえていた亀夫、突然唸るような声を上げ、棒立ちのままむせび泣く。
   いつの間にか涙を浮かべている工藤。
   安藤だけは体力的に参ってしまっている」(P228)


ここまで彼らに感情移入してきた観客もここで一緒になって泣くのである。
皮肉をいえば、わかりやすい夢や困難があった時代の感動である。

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