FC2ブログ

「未来への記憶」

「未来への記憶(上)(下) ~自伝の試み~」(河合隼雄/岩波新書)品切れ

→ファンだから自伝をまるで娯楽小説のようにして読む。
ユング研究所の打ち明け話は楽しかった。
教える分析家同士でも対立が絶えず、
なかにはユングの悪口を平気で言う先生もいたという。
反面、ユングを大先生として奉ろうというカルト集団的な雰囲気もあったとのこと。
氏が行き先のそのときそのときで変わる行き当たりばったりの人生を歩まれているのに驚く。
河合隼雄の人生は、ほとんど計画性のようなものがなく、
その場で行き先を平気で変えてしまうのだ。
行動基準は「おもしろい/おもしろくない」である。
おもしろくなかったらやらないで、おもしろかったら先を考えずにやってみる。
兄弟に医者が多く金銭的に恵まれていたことも冒険する好条件だったようだ。
なにしろ当時スイスに留学することはたいへんなことである。
河合隼雄は妻と子どもを連れてスイスのユング研究所に行っているのだから。

「兄弟はみんな大賛成でした。それこそやりたいことをやれと。
それで、もし金に困ったら援助してやると言ってくれました。みんな医者ですからね。
しかし、援助してもらうのはスイスから帰ってからのことです。
土地を買ったり家を買ったりするときにね。
スイスへ行くときはあまり頼ることはありませんでした」(下巻P72)


自伝をぜんぶ読んで思うのは、
河合隼雄は河合隼雄になるべく生まれてきたということである。
河合隼雄になりたくて河合隼雄がいろいろと策を弄したというわけではない。
人生で起こる現象は、もしかしたらほとんど因果関係ではないのかもしれない。
どういうことかと言うと、だれかほかの人が河合隼雄になろうと思ってもなれない。
そのくらい河合隼雄は一回かぎりの偶然性を生きている。
河合自身も人生でなにか事件が発生するごとに、
それを裏でアレンジしているなにものかの存在を感じ取っている。

考えてみたら、人生における禍福はどれも一回かぎりと言えなくもない。
風邪をひくことはあるが、狙って風邪になることはできないのだ。
我われは風邪をひいたときに、なにか原因を特定する。
たとえば、昨日寒いなか雨にぬれたのが原因だ。
しかし、狙って風邪をひこうと思って、
雨のなかを薄着でいてもかならずしも思ったとおりにはならない。
精神疾患のアル中だっておなじで、なろうと思ってなれるわけではない。
ふつうは朝目覚めたらまた酒などのみたくなるものではない。
そのくせ依存症患者はアル中になった原因を探し出し特定する。
あれがなかったら自分はアル中になどなっていなかったと。
だが、だれかがアル中になろうと思っておなじことを経験しても、
まずなれないのではないだろうか。
人生で生じるあらゆることは、実のところ再現性がないとは考えられないか。
もう一回おなじことを意図してやろうと思ってもうまくいかないのである。
繰り返すが、狙って病気になろうと思っても、そうなれるものではない。
これはマイナスの話だが、プラスでもおなじなのだろう。
人生における現象の原因など本当はあいまいで、
いくらプラスの努力をしたところで成功したり出世できるものではない。

河合隼雄がスイス留学中にニジンスキー夫人と交わしたという会話が興味深い。
ニジンスキーはロシアの天才的バレエダンサー。のちに分裂病を発症。
河合はニジンスキー夫人から問われたという。
もし自分がニジンスキーと結婚しなかったら彼はこの病気にならなかったか。
というのも、ふたりが結婚するまでにいろいろあったからだ。
夫人は、ニジンスキーを同性愛相手から略奪したという経緯がある。
「自分のせいでニジンスキーは分裂病になったのではないか」
この問いに河合隼雄はこう答え、夫人はいたく安心したという。

「人生のそういうことは、なになにをしたのでどうなるというふうな
原因と結果で見るのはまちがっているのではないか。
ニジンスキーという人の人生は同性愛を体験し、異性愛を体験し、
ほんとに短い時間だけ世界の檜舞台にあらわれて、天才として一世を風靡した。
しかし、ニジンスキーにとっては
非常に深い宗教の領域に入っていったということもできる。
そういう軌跡全体がニジンスキーの人生というものであって、
その何が原因だとか結果だとかという考え方をしないほうが
はるかによくわかるのではないか」(下巻P151)


この挿話に関係して精神科医で哲学者のビンスワンガーの話が出てくる。
ニジンスキーの入院したのがビンスワンガーの精神病院だったのだ。
ビンスワンガーは、息子の自殺ののち「現存在分析」に深く関心を持つようになる。
この「現存在分析」は河合隼雄の考え方、生き方ともおなじなのだろう。

「じつは、そのビンスワンガーの息子の自殺が契機になって、
ビンスワンガーは「現存在分析」ということを言い出すのです。
どういうことか簡単にいってしまえば、
そのときの一回かぎりのこと、存在そのものが非常に大事であって、
いわゆる自然科学的に簡単に説明したりするということはできない、
という考え方ですね。(中略)
要するに、他人のことは分析したり、何が原因で何が結果だとか言えるけれども、
自分のことというのはそんなことではない。
患者さんが自分のことを必死に考えているときに、
他人がとやかくその原因や結果とか言うのはおかしい。
ビンスワンガーはそこから出発したのじゃないかと思ったのです。
つまり、自分の息子の自殺の原因を考え出すと、人はいろいろ言うし、
自分でも考えているでしょうが、そんなものではない。
息子は死んだんだという事実、それがほんとに大事だ、
というふうに思ったんじゃないかとぼくは思う。これはぼくの推察です。
ぼく自身も、自殺した人の「心理」について
原因-結果で説明するのは好きではありません」(下巻P146)


いかに我われが「原因-結果」の思考法に毒されているか、である。
人間に関すること、人生の諸問題は、
「原因-結果」を考えないほうがはるかによくわかる。
たぶん因果的思考を捨てるほうが、世界はいきいきと豊かに見えてくるのだろう。
河合隼雄の人生は一回かぎりのものであった。
そのことはもうこの偉人が亡くなっているから本当によくわかる。
そして、我われの人生もまったくおなじなのだ。

COMMENT









 

TRACKBACK http://yondance.blog25.fc2.com/tb.php/2854-02a9e612