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「一遍聖絵」

「一遍聖絵」(聖戒/大橋俊雄:校注/岩波文庫)

→一遍上人没後役10年後に完成したもので資料的価値が高いとされる。
すなわち、伝説化・神格化されていない。編者は一遍の異母弟、聖戒である。
有名人の血縁者がおのれの価値を上げたいがために編集する本があるけれど、
乱暴にいってしまえば同系統のものではなかろうか。
だとしたらば、資料的価値が高いという一般的見解も眉唾になるのだが。
聖戒が蓮如のごとくにやり手だったらば、いまの時宗の不遇はないのかもしれない。
一遍や親鸞といった天才宗教家は一代かぎりのもので、
どちらも教団運営の意図はなかったようである。
人物的魅力ゆえに、どうしてか人が集まってきてしまうのだろう。
教団を拡大するのは決まって後世の血縁者なのがおもしろい。
建前としては偉人の教えを広めたい。
本音は(まさかあるまいとは思うが)これは商売になるとの発見……。
あるいは「先生」と尊ばれることへのあこがれがあるのかもしれない。

果たして弟子は一遍の教えを理解していたのだろうか。
親鸞は唯円という優秀な弟子を持ったことで後世の評価が高まった。
実のところ、教団に必要なのは開祖のみならず優れた弟子なのである。
オウム真理教は麻原彰晃のみでは運営できず、上祐史浩の存在が不可欠であった。
一遍に話を戻すが、ほとんどの弟子は教えを理解していなかったのかもしれない。
というのも、言葉は悪いけれど、一遍と踊り狂っているような連中だぜ。
おそらく、一遍の教えにではなく人格に引かれて付き従っていたのだと思う。

そう考えると「一遍聖絵」にある次のエピソードは興味深い。
あるとき一遍が武家屋敷に行ったら酒宴のさなかである。
上人はいつものように屋敷の主人に賦算(ふさん)する。
賦算とは「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」と記した札を配ること。
酔っ払った武士は乱暴に言い放つ。
「この坊主は日本一のインチキ野郎だな。どこが偉いもんか!」
すると、宴会の客のひとりが問う。「なら、どうして札をもらったのか?」
このときの回答を一遍は激賞するのである。

「健治二年、筑前国にてある武士の屋形におはしたりければ、
酒宴の最中にて侍りけるに、家主装束ことにひきつくろひ、
手あらひ口すゝぎて、おりむかひて念仏うけて、
又いふ事もなかりければ、聖は去給に、此俗のいふよう、
「此僧は日本一の狂惑のものかな、なむぞのたふと気色ぞ」、
といひければ、客人のありけるが、
「さてはなにとして念仏をばうけ給ふぞ」、と申せば、
「念仏には狂惑なきゆへなり」とぞいひける。
聖申されしは、「おほくの人にあひたりしかども、
これぞ誠に念仏信じたるとおぼえし。
余人は、皆人を信じて法を信ずる事なきに、
此俗は依法不依人(えほうふえにん)のことはりをしりて、
涅槃(ねはん)の禁戒に相叶(あいかな)へり。
ありがたかりし事なり」とて返々ほめ給き。
げによのつねの人にはかはりたりけるものにや」(P33)


武士はどうして札を受け取ったか。
「念仏はインチキ(狂惑)ではないから」である。
一遍上人はこの武士を褒めそやしたのはどうしてか。
おそらく上人の周囲の弟子たちはみな一遍という人間を信じていたからだろう。
そうではないんだよ。南無阿弥陀仏という六字の名号がすべてなんだ。
人に依るな。法に依れ。依法不依人を知れ。
しかし、幾人の信者が一遍の真意を理解したことだろうか。
やはり一遍の言葉ではなく、
いままでまみえたことのない圧倒的な人間存在としての輝きに参ったのではないか。
さてまあ、初対面の武士から「此僧は日本一の狂惑のものかな」
といわれる一遍という男はいったいどのような人物だったのだろう。
悪口ではないが、カルト教団の教祖めいた胡散臭さを身にまとっていたように思う。
本物の大人(たいじん)は、どことなくインチキ臭いものなのではないか。
遠藤周作しかり、河合隼雄しかり、池田大作しかり。

鎌倉時代、一遍は疑いもなく新興宗教の教祖だったわけである。
いまでいえば幸福の科学の大川隆法みたいな存在だったことを忘れてはならない。
かなり不穏で危うい人物だと当時の権力者が思ったのは間違いないだろう。
歴史の淘汰を受けているから、一遍は偉人になっているだけの話で、
存命時は「それ踊れ! もっと踊れ! 踊れ踊れ!」
と声高にアジテーションをする危険人物だったのかもしれない。
町中にこんな集団が現われたら怖いでしょう?
これが一遍という男のやったことなのである。
おなじ浄土教でも寺院に座していた法然や親鸞と根本的な相違があるような気がする。

では、一遍の踊り念仏の根拠はどこにあるのか。
1.空也上人が行なっていたという言い伝え。
2.無量寿経の一節。
3.善導の著作「往生礼賛」。
以上3つから(=3つを「正しい」と思い)一遍は独自の踊り念仏を編み出した。
順々に本書から引いてみる。

1.「抑(そもそも)をどり念仏は、空也上人
或は市屋、或は四条の辻にて始行し給けり」(P41)

2.「曾(かつ)て更に世尊を見たてまつるもの、即ち能くこの事を信ず。
謙敬し聞きて奉行し、踊躍して大いに歓喜す」(P44)

3.「行者心を傾け常に対目す。
神(たましい)を騰(おどら)せ踊躍して西方に入る」(P44)


1~3を根拠として一遍の始めた踊り念仏はいかなるものだったのか。
まず無量寿経と善導の文を引用する。それから――。

「文の意は、身を穢国にすてゝ心を浄域にすまし、
偏(ひとえ)に本願をあふぎ、専(もっぱら)名号をとなふれば、
心王の如来自然に正覚の台に坐し、己身の聖衆踊躍して法界にあそぶ。
これしかしながらみづからの行業をからず、
唯他力難思の利益、常没得度の法則なり。
然(しかれ)ば行者の信心を踊躍のかたちに示し、
報仏の聴許を金ケイ(=楽器)の響にあらはして、
長眠の衆生を驚(おどろか)し、群迷の結縁をすゝむ。
是以童子の竹馬をはする、是をまなびて処々にをどり、寡婦の蕉衣をうつ、
これになずらへて声々に唱」(P44)


名号(南無阿弥陀仏)→踊躍

おそらく一遍は無量寿経と善導「往生礼賛」に同一単語「踊躍」があることを発見して、
踊り念仏なるパフォーマンスを発明したのだろう。
法然が「往生要集」、善導、浄土三部経から南無阿弥陀仏を発明したのと、
こと「おはなし」の創作に関してはおなじといえよう。
人は複数の「おはなし」を頼りにして新しい「おはなし」を発明する。
蒙古襲来の不安に脅えていた民衆は一遍の「おはなし」に飛びついたことだろう。
いや、一遍の教えは「おはなし」だけではなかった。
耳だけではなく手や足も必要とする「をどり」でもあった。
当時のインテリは踊る民衆に怖れに近い感情を抱いたのではなかろうか。
あるいは、そんな単純に救われてしまう底辺階層に憧憬を抱いたのか。
踊り念仏は断じてインテリのものではない。
貴族が庶民と一緒になって踊るはずがないことを考えたらわかるだろう。

さてさて、「一遍聖絵」は興味深い極楽往生の例が挙げられている。
これは一遍の爆弾発言「とく死なんこそ本意なれ」に通じているのだろう。
近松門左衛門の世話浄瑠璃を読めばわかるが、
南無阿弥陀仏は殺人も自殺(心中)も許容するような懐の広さがある。
念仏しながら殺人も自殺もできてしまうようなところがあるのだ。
念仏殺人をなかば肯定してしまったのが親鸞である。
果たして念仏自殺は許されるのだろうか。
聖(ひじり)=一遍上人はなんと口にしているか注意してお読みください。

「武蔵国にあぢさかの入道と申もの、遁世して時宗にいるべきよし申けれども、
ゆるされなかりければ、往生の用心よくよくたづねうけ給て、
蒲原にてまちたてまつらんとていでけるが、
富士河のはたにたちより、馬にさしたる縄をときて腰につけて、
「なんぢらつゐに引接の讃をいだすべし」といひければ、
下人「こはいかなる事ぞ」と申に、
「南無阿弥陀仏と申てしねば、如来の来迎し給と聖の仰られつれば、
極楽へとくしてまいるべし。なごりを惜む事なかれ」
とて十念となへて水にいりぬ。
すなはち紫雲たなびき音楽にしにきこへけり。
しばらくありて縄をひきあげたりければ、
合掌すこしもみだれずしてめでたかりけりとなん」(P62)


一遍上人はなんといっているか――。
「南無阿弥陀仏と申てしねば、如来の来迎し給」である。
南無阿弥陀仏と申して死ねば、ありがたくも如来が来迎してくださる!
自殺をここまで推奨する教えを、まさか仏教で見るとは思わなかった。
親鸞の「殺人OK」も衝撃的だが、一遍の「自殺OK」も相当なものではないか。
親鸞の場合さすがに殺人を推奨してはいないが、一遍ときたら!
一遍というのは、恐ろしい宗教家だったのではないだろうか。
ものすごい人間的魅力を持っていたはずである。
人生に深く傷ついた下層民を一遍上人はどれほど救ったことだろうか。
残念ながら弟子や子孫に恵まれず時宗は浄土真宗ほど後世開花しなかったが、
一遍は親鸞にも劣らぬ巨大な狂気を心中に持っていたのだと思われる。
もとより遊行での布教をもっぱら行なった一遍である。
住むところとてない捨て聖(ひじり)だ。
まったく教団結成の意図はなかっただろうから、
むしろ現在も時宗が残存していることを知ったら一遍は驚くのかもしれない。
そのうえいまの時宗が「長寿」を推奨していると知ったらどんな顔をするか。

そうそう、創価学会員さんへのメッセージを残しておこう。
「本の山」は宮本輝ファンが多く訪問してくださるので、お気を悪くなされてはいけない。
一遍は日蓮とほぼ同時代を生きているのである。
日本各地あらゆるところを旅して布教した一遍である。
おそらく、日蓮の弟子にからまれたこともあったのではないか。
一遍の弟子が日蓮信者に喧嘩を吹っかけられたのかもしれない。
法華経を最上の教えと信じるのが日蓮一派である(南無妙法蓮華経!)。
いったい名号と法華(の題目)はどのような関係にあるのか。
この問いに一遍はこう答えている。

「法華と名号とは一体なり。法華は色法、名号は心法なり。
色心不二なれば法華即(すなわち)名号なり。故に観経には、
「もし念仏せむ者は、これ人中の分陀利華(ふんだりけ)なり」と説り。
分陀利華とは蓮華なり。
されば法華をば薩達磨分陀利華経と名付たりといへり、
名号と分陀利華は一なり」(「一遍上人語録」P176)


法華=名号!

最後のところはごまかしに近いのだが、まあ、わかりにくいよな。
文庫下段の解説によると、サンスクリット語と漢字における
音写と意訳を問題にしているらしい。
「薩達磨分陀利華経=法華経」だから「名号=題目」という理屈だ。
「音写→意訳」=「薩→妙、達磨→法、分陀利華→蓮華」だから、
観無量寿経で「念仏者=分陀利華」と書かれている以上は、
念仏者と法華経信者をイコールにしてもいいのではないかという論法である。
まあ、日蓮サイドからしたら観無量寿経など認めないのだろうから、
これは浄土教信者のみが使える詭弁なのだろう。
しかし、法華経が観無量寿経より勝れているという証拠はどこにもない。
法華経の「オレ最強宣言」はあくまでも自称だから信憑性に欠ける。
科学的なことをいったら、観無量寿経も法華経も大乗仏典だから釈迦の真説ではない。
目くそ鼻くその世界なのである。

とはいえ、一遍のいう「名号=題目」はあんがい良いところを突いてはいないか?
仏教とは縁のない人間からしたら、
南無阿弥陀仏も南無妙法蓮華経もおなじように抹香臭いだけでしょう。
わたし自身の感覚としても、名号と題目は似たようなものである。
基本的に、人間を超える大きなちからを認めようということでしょう。
ならば、南無阿弥陀仏でも南無妙法蓮華経でも大した相違はないのではありませんか?
どうして日蓮サイドが、ああも名号の悪口をいうのかわからない。
やはり後発商品(法然→日蓮)というやましさがあるのだろうか。
ともあれ、一遍の「名号=題目」発言はおもしろいと思う。
ひそかに思っていたことを、ピシャリと指摘された気がする。

一遍に寄り添っていた信者はどのような人たちだったのか。
全国遊行で疲労困憊の一遍は50を超えたころおのれの死期が近いのを悟る。
そのことをともに旅する弟子にも口にしている。
もういつまで一遍さんと一緒にいられるかわからない。
このときの弟子たちのさみしげな様子は胸打たれる。
どれほど「をのをの」一遍上人を慕っていたことだろう。
一行は明石浦にいた。淡路島の対岸にある港である。

「をのをの州蘆の夜雨に涙をあらそひ、
岸柳の秋風に情をもよをさずといふことなし。
漁翁釣をたれて、生死の海に身をくるしめ、
遊女棹をうつして、痴愛の浪にわかれをしたふさまゝでも、
生者必衰のことわりをしめし、
会者定離(えじゃじょうり)のならひをぞあらはし侍りける」(P128)


うまく謳いあげているな~と感動する。
孤独な漁翁や遊女が一遍に付き従っていたのだろう。
昼間は無心に踊躍していたのかもしれないが、夜半のこのさみしさはどうだろう。
一遍が没したのち7人の弟子があとを追って海に身投げしたという。
亡くなる20日ほどまえ一遍上人はこのように仰せになっていた。
8月2日のことだった。

「我臨終の後、身をなぐるものあるべし、
安心定まりなばなにとあらむも相違あるべからずといへども、
我執つきずしてはしかるべからざる事なり。
うけがたき仏道の人身むなしくすてむこと、あさましきことなり」(P129)


現代語訳はついていないから、自分で意味を推し測るしかない。
「――私が死んだのち、自殺するものがいるだろう。
すでに完全な信仰のあるものならばなにをしてもいいのだが、
そうではなくまだ現世に欲があるものは、そういうわけにはいかない。
せっかく人間として生まれてきたのだから軽々しく命を捨ててはならない」
このくらいで正しいのだろうか?
さて、一遍のあとを追って自殺した7人はどうだったのだろう?
「安心定ま」るものたちだったのか、「我執つき」ぬものたちだったのか。
「一遍聖絵」に答えは書かれていない。

「さても、八月二日の遺誡のごとく、時宗ならびに結縁衆の中に、
まへの海に身をなぐるもの七人なり。
身をすてゝ知識をしたふ心ざし、半座の契、同生の縁、
あにむなしからむや」(P141)


COMMENT

るう太 URL @
04/23 14:36
. 
空也上人がいた 一遍上人語録 一遍聖絵
これらの記事を読んでて思ったのは、こんなことです.
が、あんまり記事と関連してないかも

若→いろんな「おはなし」が流れているのを感じる
成→「おはなし」にまきこまれているのを知る
老→「おはなし」の外にでれるようになったと信じる

この三つの均衡がおかしくなると世の中苦しくなるのではないかと
言ってしまえば、老→「おはなし」の外にでれるようになったと信じる、が多すぎると他を圧迫するのでは
そうなるとこれからますます苦しくなる傾向なんでしょうが(高齢化)、一概に年齢だけで計れないような気もします

一概に年齢だけでは....、というのは一遍上人が浄土でではなく現役でバリバリとやっていた頃、老→「おはなし」の外にでれるようになったと信じる、ような人は少数だったのではと
それで一遍上人こそ、老→「おはなし」の外にでれるようになったと信じるの一人だったのではないか
老→「おはなし」の外にでれるようになったと信じる、はカーストに翻弄される衆生のカタルシスを呑込む"醒"の役目をになうもの
ぴったりのことばは、気違い
気違いは、この世の
若→いろんな「おはなし」が流れているのを感じる
成→「おはなし」にまきこまれているのを知る
に醒めた地平をしめしてくれた
若,成 は、老→「おはなし」の外にでれるようになったと信じる、を未だ理解していないが、老の存在によって、いろんな「おはなし」が流れているのを感じれるのだし、「おはなし」にまきこまれているのを知れるのだった
でもそれも均衡が大切で、今じゃ老 多すぎ
醒めた「おはなし」作家がそんなにいてもねえ

などと思いました
ありがとうございました
Yonda? URL @
04/24 07:47
るう太さんへ. 

記事全文お読みいただき、ありがとうございます。

もしかしたら、これからもこの頻度で長文コメントを?
ごめんなさい☆
こちらに受け入れる容量、ありません。
婉曲的にいうのは嫌味で傷つけるのではないかと思いストレート直球を。

自分の考えをまとめるためにブログを開設するのはいかがでしょうか。
まあ、うちのブログもそうですが、だれも無名人の記事など読んでくれません。
ですから、るう太さんには感謝しているのですが、ごめんなさい☆
ネット限定交流、苦手です。
るう太 URL @
04/24 21:51
. 
私のコメントのせいで、なんだかお気遣いを、すいません!!
了解。
Yonda? URL @
04/25 00:33
るう太さんへ. 

ありがとうございます。
善人と思われたいだけのつまらない男なのでしょう、わたし。
今朝からずっと後悔していました。
わざわざ記事を読んでくださり(これだけでも有難い)、
コメントまでいただいておいてひどくはないか。
本当に申し訳ありません。

了解コメントを拝見して、とても嬉しかったです。
正直申しまして、るう太さんのコメント、意味がよくつかめませんでした。
何度読んでも意味がわからない文章はしんどかったです。

どちらの知性がどうのという問題ではないのでしょう。
るう太さんはある程度、わたしのことをご存知でしょう。
その反対はゼロなのです。
おそらくるう太さんのコメントには前後の文脈があるのでしょうね。
それがわかれば――。

インターネットは宿命的に性別年齢がわかりません。
通常の会話の場合、この2要素が強く影響します。
それがわからない交流は難しい。
本当に思いました。

ブログというのは新しいジャンルのためマナーが決まっていません。
どういう振舞いをするのが常識かわかりません。
おそらく、これから徐々に文化ができていくのでしょう。

繰り返しになりますが、
るう太さんから了解コメントをいただけて本当に嬉しかったです。
うまく対応できず失礼しました。
るう太 URL @
04/25 10:15
(これも躊躇しつつ). 
いや、コメント欄なので短くおさめようっていうのが頭にあるのに、コメント欄を無視して暴走してるみたいな文章が悪いのだと

じゃ、コメント欄ってのは、名刺交換だとか天気話だとか程度のやりとりの場なのか、いやそういうもんだろう
みたいな話にもなってくるのでしょうが...

Yonda?さんのこのブログが、気軽に書かれてるとは思えない人間の力(りき)んだ暴投だととらえておいてください
だから、すいませ~~ん(とお~くで球(魂)拾って頂き)

次に生きれば
Yonda? URL @
04/28 21:20
るう太さんへ. 

> コメント欄ってのは、名刺交換だとか天気話だとか程度のやりとりの場なのか

たぶん、残念ながら、その程度の場でしかないのでしょう。
相手の顔がわからないと人生相談に答えられない――
と書いたのは福田恆存さんですが。
いえ、もちろん人生相談ではないことはわかっています。

さみしいときに、挨拶程度でもコメントがあると嬉しいんですね。
見知らぬ人とつながっているような錯覚を持てて。
かえって挨拶程度だからいいのかもしれません。
考えてみれば、わがままなものです。

よろしければもうしばらく見守ってやってくださいませ。
意識的にコメント間隔を空けてみました。








 

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