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「一遍上人語録」

「一遍上人語録 付・播州法語集」(大橋俊雄:校注/岩波文庫)品切れ

→一遍は鎌倉時代の仏僧で、マイナー教団・時宗の開祖とされている。
南無阿弥陀仏の系譜でいえば、法然、親鸞、その次にくるのが一遍である。
いちおう法然の孫弟子(聖達)のもとで長く修行しているから、
浄土教としてくくってもいいのだろうが、なぜか時宗なのである。
ちなみに、この語録においても百年近く先輩の法然についての言及はなし。
むろん、田舎のクソ坊主に過ぎなかった親鸞にも触れていない。
おそらく、存在さえ知らなかったのではないか。
唯一、同胞の僧で記述どころか敬慕までしているのは空也である。
南無阿弥陀仏の理論は、もっぱら浄土三部経(インド)と善導(シナ)によっている。
これは法然の編み出した理論をそのまま継承していると思ってよい。
ただし法然が評価した「往生要集」の源信ではなく、
彼とほぼ同時代を生きた空也の生き方に強い影響を受けている。
このため踊り念仏などというものを一遍はおっぱじめてしまったのである。
念仏のありがたさに親鸞は随喜の涙を流したが、一遍まで到達すると「をどれ」――。

「ともはねよかくてもをどれ心ごま弥陀の御法(みのり)と聞くぞうれしき」(P53)

実際に踊り念仏なるものを見てみようとユーチューブで検索してみたらヤバイのである。
踊り念仏自体は歴史を感じさせそれなりの情緒があって悪くないのだが、
笑うしかなかったのは関連検索でオウム真理教の「尊師マーチ」がヒットすることだ。
麻原彰晃を讃えるために信者たちが実に嬉しそうに踊っている(苦笑)。
その瞬間、「ああ、一遍はヤバイやつなのだな」と直感した。
にもかかわらず、ではなく、だから一遍は多くの人を救ったのではないかと思う。

いったい南無阿弥陀仏を最初に発見したものはだれだったのだろう?
当たり前のように法然だと思っていたが、
そのだいぶまえに空也が念仏布教をしているという話もあるからわからない。
人によっては南無妙法蓮華経のほうがいいのかもしれないけれど、
南無阿弥陀仏もまたとてつもない「おはなし」=思想だと感嘆する。
人間の生死にかかわる取り返しのつかない不幸をも癒すことができるのだから。
基本構造を確認したい。念仏を唱えたら極楽浄土に往生できる。
どうしてかというと阿弥陀仏には、巨大なちからがあるからである。
だから阿弥陀仏さまに南無(お任せ)しよう。
根拠は古い経典や高僧の解釈。これが念仏の基本システムである。
科学万能の現代にこんな「おはなし」は信じられないというかもしれない。
しかし、死後の世界のことは現代科学では説明しようがないのである。
究極的には南無阿弥陀仏の真偽を科学が判断することはできない。
要は、この「おはなし」を信じるか信じないかになる。
うまく信じられたら、まさにミラクルが起こるのではないだろうか。
南無阿弥陀仏は死の思想なのである。
死から強烈な光線を生に浴びせたら、この苦に満ちた娑婆世界の様相ががらりと変わる。
このからくりを知ったら何万人の鬱病患者が陽気に踊り出すことか!

それぞれの南無阿弥陀仏があってよい。
このたびは一遍の「おはなし」=南無阿弥陀仏を見ていきたい。
何度も「一遍上人語録」を精読したが、かなり質のよい「おはなし」だと思う。
親鸞も大好きだが、かの高僧の利権はいま五木寛之さんに独占されている。
日蓮利権は宮本輝さんのものでしょう。
今年に入って山田太一さんがさっそうと空也の利権をさらっていってしまった。
まだあまり手垢のついていない一遍あたりにツバをつけておくのも悪くない。
仏教は「おはなし」である。好きな「おはなし」を選べばいいのではないか。
なるべくオリジナルの仏典に触れることが肝要である。
なぜならいろいろ自分で解釈できる=「おはなし」を創れるからである。
法然や親鸞も言ってしまえば、それぞれの「おはなし」を創ったのだ。
仏教学者の「正しい」解説は味気ない。
仏教系の有名作家の創る「おはなし」もいいけれど、次第に物足らなくならないか。
自分で「おはなし」を創るのがいちばん楽しいのではないかと思う。
そのとき岩波文庫の仏教書は、ほどよく意味不明で役立つことだろう。

さて、この現実はどういうものだと一遍はいうのだろうか。
鎌倉時代も平成の現代も、人が生きているということはおなじなのかもしれない。
目に見えるものがある(色界)。
人間は欲望する(欲界)。
目に見えないものもまたある(無色界)。
この三界(さんがい)に生きていることは古今、一遍も我われも変わらない。

「又云、三界は有為無常の境なるゆゑに、一切不定なり、幻化なり。
此界の中に常住ならむと思ひ、心安からむと思ふは、
たとへば漫々たる浪の上に、船を揺るがさでおかんとおもへるがごとし。
何としてか常住ならむ、何としてか心のごとくならん」(P147)


人生行路の半ばに達して、ひとつだけ腹の底まで理解したことがある。
人生は本当にまったく残酷無残にも思うようにならないということである。
ああ、一遍さんよ、人生「何としてか心のごとくならん」だよな~。
いい歳をしたオッサンが繰り返すのは大人気ないが、人生は思うようにならない!
考えてみたら、思うようになったことなど一度もないのだから。
しかし、それは鎌倉時代から変わらぬ世間の実相なのである。
どれほど多くの人間が思うようにならない人生に嘆き深く傷ついてきたことか。
なにがいけないのか。一遍は「思い」=「心」がいけないのだという。
思わなければいいのである。心などなければ思うようにならないことに苦しまない。
一遍は心の取り扱いを重んじる。

「有心は生死(しょうじ)の道、無心は涅槃(ねはん)の城なり。
生死をはなるゝといふは、心をはなるゝをいふなり」(P106)


心のみならず、わが身もまた頼りないもの。
決定しているのは名号=南無阿弥陀仏だけなのである。

「又云、決定といふは名号なり。わが身わがこゝろは不定なり。
身は無常遷流の形なれば、念々に生滅す。
心は妄心なれば虚妄なり。たのむべからず」(P88)


しかし、どれだけ言い聞かせてもわが身わが心から離れるのは難しい。
だから、一遍でいいのに何遍も繰り返すのだろう。
決定=名号(南無阿弥陀仏)。
わが身=無常。
わが心=虚妄。

「唯(ただ)南無阿弥陀仏の六字の外に、わが身心なく、
一切衆生にあまねくして、名号これ一遍なり」(P38)

「すべて思量をとどめつゝ 仰(あおい)で仏に身をまかせ
出入(いでいる)息をかぎりにて 南無阿弥陀仏と申べし」(P21)


一遍をとりこにした南無阿弥陀仏の正体を見ていく。

「他力称名に帰しぬれば、驕慢なし、卑下なし。
其故は、身心を放下して無我無人の法に帰しぬれば、自他彼我の人我なし。
田夫野人・尼入道・愚痴・無智までも平等に往生する法なれば、
他力の行といふなり」(P86)


自力の行者は、競争社会の成果主義のようなもので不平等である。
いっぽう南無阿弥陀仏は他力救済だから人々を平等に扱う。
死ぬのはだれもが平等といっているのとおなじだろう。

「中路の白道は南無阿弥陀仏なり。
水火の二河はわがこゝろなり。二河にをかされぬは名号なり」(P164)


二河白道(にがびゃくどう)はシナ僧・善導の言葉。
水の河(瞋恚)と火の河(貪欲)の中間に悟りの道=白道があるという。
この白道こそ南無阿弥陀仏である。

「又云、善悪の二道は機の品なり。顛倒虚仮の法なり。
名号は善悪の二機を摂する真実の法なり。
皆人善悪にとどまりて、真実南無阿弥陀仏を決定往生と信ずる人まれなり」(P171)


南無阿弥陀仏(他力)は、人間(自力)の考える善悪など超越しているということだ。
一遍によると、その悪が本当に悪か、その善が完全な善かは、人間にはわからない。
人間は善悪に迷いながら苦楽を生きる。

「又云、楽に体なし、苦の息(そく)するを楽といひ、
苦に体なし、楽のやむのを苦と云なり。
故に苦楽のやみたる所を無為と称す。無為といふは名号なり」(P187)


無為は老荘の言葉でしょう。無為まで南無阿弥陀仏になってしまうとは!
一遍の豊かな「おはなし」創作はどうだろう!
ここらでいままで挙がった南無阿弥陀仏をまとめてみたい。

1.南無阿弥陀仏⇔生死
2.南無阿弥陀仏=他力=平等
3.南無阿弥陀仏=二河白道
4.南無阿弥陀仏>善悪
5.南無阿弥陀仏=無為≠苦楽


いきなり「踊ろうぜ!」とかいうぶっ飛んだオッサンはどうしてそうなったのか。
やはりあれな人にはあれなあれがあるわけである。
一遍は熊野本宮大社に行ったとき、夢にあれが出てきて諭された、
あれを見ちゃう人と、いくら勉強しても見(ら)れない人にわかれる。
狂人と常人の二種類に人間は区分される。以下引用文で法師=一遍。

「熊野権現、「信不信をいはず、有罪無罪を論ぜず、
南無阿弥陀仏が往生するぞ」と示現(じげん)し給ひし時、
自力我執を打払ふて法師は領解(りょうげ)したりと云云」(P180)


夢にインスピレーションを求める天才は多い。
昨日今日明日という日常の連鎖を断ち切るものがあるとすれば、それは夢である。
一遍の信仰は夢によっているところが大きいのではないか。
ある晩、おかしな夢を見る。
夢から覚めたと思っていたら、そう思っているのもまた夢だったのである。
我われもこの程度の夢ならよく見るだろうが、一遍ほどの飛躍はできない。

「又云、夢と現(うつつ)とを夢に見たり。
<弘安十一年正月廿一日夜の御夢なり>
種々に変化して遊行するぞと思ひたるは、夢にて有けり。
覚(さめ)て見れば、少しもこの道場をばはたらかず、
不動なるは本分なりと思ひたれば、これも又夢也けり。
此事、夢も現も共に夢なり。
当世の人の悟(さとり)ありと、ののしりわめくはこの分なり。
まさしく生死の夢覚ざれば、此悟は夢なるべし。
実(まこと)に生死の夢をさまさんずる事は、
ただ南無阿弥陀仏なり」(P126)


親鸞の持つ犯罪者めいた狂気を一遍もまた有していたような気がする。
麻原彰晃ではないけれど、宗教を始めてしまうような人はおかしいのである。
開祖はみなみな狂っている。クルクルパーかもしれない。
にもかかわらず、ではなく、だから信者は救われるのである。
法然だけ少しましで、日蓮も道元もぶっちゃけ頭がおかしい人のわけでしょう。
一遍もいま生きていたら間違いなくカルト教団を始めちゃうタイプだと思う。
だから、おもしろいともいいうる。
ちなみに、いまでも時宗は細々と続いている。
藤沢に時宗総本山の遊行寺というのがあるらしいから今度行くつもりである。
そこのホームページを見ていたら教義にこんなことが書かれている。

「南無阿弥陀仏」とお唱えする、只今のお念仏が一番大事なことです。
家業に努め、励み、睦み合って只今の一瞬が充たされるなら、人の世は正しく生かされて、
明るさを増し、皆倶に健やかに長寿を保つことになります。
浄土への道は、そこに開かれるとする教えです。

「遊行寺ホームページ」
http://www.jishu.or.jp/



決して批判しているわけではないが、開祖の教えとは違うのね。
繰り返すが伝統宗教とはそういうものだから、難癖をつけているわけではない。
しかし、一遍その人はメチャクチャ非常識な坊主だったのだと思う。
家業繁栄の幸福なんて魔だと言い切っている箇所がある。
いまこれをいえる宗教家はなかなかいないのではないか。
一遍が狂人たるゆえんである。

「又云、魔に付(つき)て順魔・逆魔のふたつあり。
行者の心に順じて魔となるあり、行者の違乱となりて魔となるあり。
ふたつの中には順魔がなほ大事の魔なり。妻子等是なり」(P92)


魔は障りとなるもの。
逆魔(病患災難等)よりも順魔(妻子眷属等)のほうが往生の障害になる!
たしかにかわいい妻子がいたら、なかなか死にきれない。
こういう逆転の発想は本当におもしろいのね。
孤独な失敗者は、あまり死ぬのが怖くないでしょう。
重い病気になんてかかっていたら、かえって死が幸いと思えるくらいだろう。
ところが、家族に恵まれた富者は死ぬのがやたら恐ろしいと思うな。
このように死から見てしまうと現世の価値観がぐらぐら揺らぐでしょう。
南無阿弥陀仏の思想である。

さらに一遍は恐ろしいことをいっている。
一遍の発言でもっともシビれたところだ。
「歎異抄」で殺人教唆をしたのは親鸞だが、「をどれ」の一遍は――。

「又云、およそ一念無上の名号にあひぬる上は、
明日までも生(いき)て要事なし。
すなはちとく死なんこそ本意(ほい)なれ。
然るに、娑婆世界に生て居て、念仏をばおほく申さん、
死の事には死なじと思ふ故に、多念の念仏者も臨終し損ずるなり。
仏法には、身命を捨(すて)ずして証利を得る事なし。
仏法にあたひなし。身命を捨(すつ)るが是あたひなり。
是を帰命と云(いう)なり」(P114)


これってほとんど自殺のすすめみたいなもんでしょう?
明日まで生きているこたあない! そう放言しているわけだから。

「とく死なんこそ本意なれ」

これは親鸞でも口にできなかったことである。
「歎異抄」の会話であったでしょう。
弟子「どうして浄土へ行きたくならないのでしょう?」
親鸞「わしもそうじゃよ」
だから、この部分だけ取り上げるのなら、
一遍は親鸞よりも深い浄土信仰を持っていたといえよう。
このレベルまで達してしまったら世界が激変するのではないか?
お子さんを交通事故で亡くした親御さん。さぞ苦しいでしょうね。
しかし、死後のことはわからない。
お浄土は娑婆など比べものにならないくらい楽しいところかもしれない。
少なくとも浄土教ではそう教えている。
ならば、遺族は亡児を思い悲嘆する必要はなくなるわけである。
なぜなら、先にすばらしいお浄土へ行くことができたのだから。
浄土信仰が一遍のように強まると、死刑がおかしな制度になってしまう。
死後の世界が楽しいのなら、罪人は娑婆世界で苦しませなきゃダメでしょう。
死刑であっさり娑婆にオサラバさせちゃいけないってことになる。
うーん、この論理についてこれる人はいらっしゃいますか?
一遍さんがかなりヤバイことはご理解いただけたと思う。

いったいこの坊主はどんな人物だったのだろう。
孤独な人だったのではないかと思う。

「又、常の仰に云、「いきながら死して静に来迎を待(まつ)べし」と云云。
万事にいろはず、一切を捨離して、孤独独一なるを、死といふなり。
所以(このゆえ)に生ぜしも独(ひとり)なり、死するも独なり。
然れば住するも独なり、添ひはつべき人なき故なり」(P188)

「おのづから相あふ時もわかれてもひとりはいつもひとりなりけり」(P59)


しかし、一遍には信仰があった。ひとりではなかった。

「となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏なむあみだ仏」(P66)

恒河(ごうが)=インドのガンジス河。

「又云、少分の水を土器(かわらけ)に入(いれ)たらば、
則(すなわち)かわくべし。
恒河に入(いり)くはへたらば、一味和合して、ひる事有(ある)べからず。
左(さ)のごとく、命濁中夭の無常の命を、
不生不滅の無量寿に帰入しぬれば、生死ある事なし」(P129)


「又云、信(しん)とは、まかすとよむなり。
人の言(ことば)と書(かけ)り。
人たるものゝ言は、まことなるべきなり。
我等は即(すなわち)法にまかすべきなり。
然(しかれ)ば衣食住の三を我と求る事なかれ、天運にまかすべきなり。
空也上人の曰(いわく)、「三業を天運に任せ、四儀を菩提に譲る」と云云。
是(これ)他力に帰したる色なり。
古湛禅師は、「労(わずら)はしく転破することなかれ、
只(ただ)天然に任す」といへり」(P196)


「信=人+言=まかす」

結局のところ、信仰とは人の言葉に賭けることなのだろう。
いや、人の言葉にまかす。南無阿弥陀仏に帰命する。あとは踊っていればいい。

※どうでもいいでしょうが、後日再読しました↓
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-3321.html

COMMENT

Bob URL @
09/22 21:43
. アホが知ったかぶりして
笑われてるぞ!!








 

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