「空也上人がいた」

*基本的にネタバレはなし。未読者も安心してお読みください。

「空也上人がいた」(山田太一/朝日新聞出版)

→御年76歳になる山田太一の最新小説を読む。
人が死ぬというのは、いったいどういうことだろう?
山田太一は宗教家ではないから、この問いに答えを出そうとはしない。
だが、老人が死ぬとは? 老人が死ぬとはどういうことだろう?
作家はこの小説で問いへの答えをにおわせている。
老人が死ぬとは、秘密(オフレコ)が消えてしまうということなのだろう。
意外と気づかない人も多いのだろうが、山田太一は芸能人でもあるのである。
いや、正確には芸能人ではない。とはいえ、芸能界に近いところで生きてきた。
浮き沈みの激しい芸能界に大学卒業後からずっと関わって生きてきたのである。
自己中心的で自己顕示欲の強い俳優と長年にわたって仕事をしてきた。
(むろん、そういうエゴが俳優を名優にすることを脚本家は知っている)

いろいろなトラブルがあったことだろう。
大企業たるテレビ局のエリート社員に、
気持を踏みつけにされるようなことも何度かあったのではないか。
これだけは許せないと思ったこともかならずやあったはずである。
しかし、業界で生きていくならば、自分を律していくしかない。
ある時期からは、タレントのキャスティング権まで有する大御所脚本家になった。
脚本家の自宅には贈答品がひっきりなしに送られてきたという。
だれかを主役に抜擢するということは、
べつのだれかの気持をないがしろにするということだ。
思いがけないところで他者から真剣な恨み節を
不意打ちのようにぶつけられたこともあったのではないか。
自責の念にかられたこともあったのかと思われる。
むろん、そんな感情は偽善に過ぎないことも知らないわけではないが、
成功者(権力者)ならではの、どうしようもない自責の念に苦しみもしたのではないか。

山田太一が芸能界のオフレコを暴露したらとんでもないことになるだろう。
たとえば、「ふそろいの林檎たち」の裏側だけでも世間は騒然とするはずである。
石原真理子の暴露本で、林檎たちのドロドロの一部は世に知られたが、
現実はあんなものではないのかもしれない。
もっと凄いのかもしれない。もっともっと凄まじいのかもしれない。
相手が生きているうちは言えないことも没したあとなら言うことができる。
ある人格者として知られる東大名誉教授は論敵の批判を大人ぶってずっと無視してきたが、
相手が死んだとたん子どものような悪口を著書に書きつけている。
山田太一だって腹の底にはいくらだって言いたいことがあるのだろう。
それは悪口ばかりでもないのかもしれない。
成功した大作家の味わっているのは、さみしさなのだろう。
かつての仲間=仕事の関係者が死ぬことで、オフレコもスキャンダルも消えてしまう。
近いうちに自分も死ぬことは決まっている。
自分が沈黙したまま死んだら、なにもかもなかったことになってしまうではないか。
それでは、あんまりだ、と脚本家は眠れぬ夜に思う。
しかし、言うまい。オフレコは墓場まできちんと持っていこう。
秘密は守る。暴露はやらない。
その代わりに、ひとつのフィクションを読者のまえに差し出した。
本当のことを言う代わりにひとつの嘘を創造した。
それが「空也上人がいた」である。

人間の秘密をめぐる物語である。登場するのは3人。
妻も子もいないひとり暮らしの81歳の老人のお節介から物語は始まる。
老人は73歳のときに過去を処分したという。

「会社勤めのころの日記とかね、
この不正だけは書き残そうなんて思ったノートなんかも、
主要な関係者が死んだりボケたりでね、
今更そういう旧悪をあばいたって、誰が関心を持つかと焼き捨てた。
その後、会社自体が大手に吸収されてなくなってしまった。
妻も死んでしまった。青山の家も売った。一生の結論を見てしまった。
ほとんど今は死後の世界を生きている」(P23)


孤独な老人はだれにお節介を焼くのか。27歳の青年である。
彼は先月まで特別擁護老人ホームで働いていた。認知症の老人の世話をしていた。
ところが、ある事情で辞めてしまう。
老人は、その青年をいたわりたいと思った。

「なにより二十代の青年が老婆とはいえ異性の排泄物の始末と
尻と性器の汚れを拭きとるのが一日の大きな仕事で、その上
食べさせて風呂に入れて寝かせて、認知症ばかりで
気持の交流はほとんどないというのはすさまじいと思った。
本当に頭が下がる。もっとむくわれなければならない」(P44)


すべてのお節介はどのみち偽善であることを山田太一が知らないわけがない。
この老人のお節介の裏側には、
「八十にしては得難い感情上の体験」があるのだが、詳しくは本書をお読みください。
山田太一は「こんなことがあったらいいな」という夢を書く作家である。
76歳の小説家も余生で、そのような「得難い感情上の体験」をしたいのだろう。
むろん、そんなことはありはしない。いや、どうだろうか。
あるのではないか。あったらいいな。現実だけではやりきれない。
いつもの山田太一の創作作法である。

もうひとりの登場人物は47歳のケア・マネージャーの中年女性である。
3人の感情の行き違いが、巧みなセリフのやり取りを通して描かれる。
3人が3人とも、他人の言葉を額面通りには受け取らない。裏を読もうとする。
もっぱら作為を持って仕掛けるのは老人で、その真の意図を青年と女性が推理する。
人はそれぞれの立場でもって、まったくさまざまな思考をする。
他人と話していると「え、そんなことを考えていたの!?」と思うことがあるでしょう。
他人のことはわからない。え? と思う。
この驚きをいまなお新鮮な感情としてとらえることができる老作家の才能には恐れ入る。
そして、とてもおかしい。笑えるのである。人と人は違うからおかしい。

3人はそれぞれだれにも言えない秘密を持っている。
秘密は人間を強くする。「私」とはなにかといったら、最終的には秘密である。
だれにも言えない秘密が、その人を他人とは異なる唯一存在にしているのだ。
しかし同時に秘密は人間を孤独にする。
「空也上人がいた」のなかで3人はそれぞれの秘密を泣きながら告白する。
打ち明けられたほうは、その涙に一瞬当惑するが、決して裁いたりはしない。
秘密は人間を孤独にするが、ほかならぬ秘密で人と人がつながることもある。

「そうね。人にいえないことって、あれこれあるものね」と少し震えた。
「黙って。もう黙って」と私はいった」(P153)


この物語では、京都の六波羅蜜寺にある空也上人像が大きな役割を果たす。
老人と青年は空也上人の「おはなし」を共有することによって、
それぞれの自責の念を受容するにいたる。その「おはなし」とは――。

「空也さんはほら、醍醐天皇の第二皇子かなんかだろう。
そういうことはいっさい口にしなかったというが、
西光寺をひらいたというんだから並の出ではないだろう。
そういう人が仏教の組織なんかとは関係せずにね、貧しい衣で、
すりきれた草履はいて、死屍累々の鳥辺山を歩いて、
誰彼へだてなく葬(とむら)ったっていうんだ。悪人も善人もない。
善悪なんか突きぬけて、誰もが持ってる生きてるかなしさ、
死んじまうことの平等さ、そういうことを分ってる人って感じたんだなあ。
正面向いた仏像じゃなくて、一緒に歩いてくれる人っていう思いが湧いたんだ。
こういう人がいると助かるなあというくらいのことだ」(P82)


空也上人の「発見」は、まさしく山田太一の仕事である。
脚本家が好んでドラマで取り上げるのは陽の当たらない場所で生きている人間だ。
いまのテレビドラマが、陽の当たっている人間を描くのと対照的である。
空也上人でなければならなかったのである。
親鸞上人ではいけない。日蓮上人でもいけない。
おそらく大勢いる山田太一ファンがこれから六波羅蜜寺に押し寄せることだろう。
それは参拝といってもいいのかもしれない。
山田太一ファンはかならず空也上人像を見て深く感動するはずである。
しかし、それは実のところ、木彫の仏像に胸打たれているのではない。
山田太一の創った「おはなし」に酔っているのである。
本来なら、ひとりひとりが各々「おはなし」を創れたらいちばんいいのである。
けれども、多くの浅才無学な庶民にはそれができない(むろんわたしも含めて)。
かといって、消費を推奨するだけのドラマやCMには辟易している。
このため山田太一ドラマが、多数の視聴者に支持されたのだろう。
脚本家は「おはなし」(=物語)創りの天才なのである。

余談だが、わたしはべつに空也上人像を見にいきたいとは思わない。
たとえ見たとしても、「ふうん」くらいしか感じないだろう。
この態度を山田太一はとくに批判したりはしないと思う。
なぜなら、なにより醒めているのがこの作家なのだから。
ほかの作家が親鸞や日蓮に酩酊しているようには、山田太一は空也に酔っていない。
空也上人の「おはなし」を通じて孤独な老人と青年が一瞬だけ気持の交流を持つ。
しかし、それはほんの一瞬なのである。
そのうえたしかに心は通じあったけれども、お互いを全的に理解したわけではない。
以下に引用する場面が、この小説のなかでもっとも山田太一らしいと思った。

「しかし、二人で彫刻をほめていると、ほんとの彫刻はそっちのけで、
都合のいい話をしているような気持も湧いた。
すると、ほぼ同時に、吉崎さんもそんな気持になっていることを感じた。
二人とも、しばらく黙ったままでいた」(P125)


これが無宗教の人間の限界である。
しかし、信仰がない人間でも、ここまでなら交流できるという希望でもある。
作家・山田太一が描き続けてきた理想郷なのだろう。

この「空也上人がいた」の感想は、日を改めて3回読んだうえでのものである。
初読の際は、物語のうまさに引き込まれ、作者にいいように泣かされた。
伏線の張り方=語り口=嘘のつき方が絶妙にうまい!
読者の喜びを奪ってはならないと、ネタバレには細心の注意をしたつもりである。
先日、神保町の東京堂書店に行ったら売上が9位だとか。売れているのだろう。
富者をさらに富ませるのはなんだか悔しいが(笑)、おすすめします。
お暇がありましたら、どうか読んでみてください。

COMMENT

- URL @
03/01 12:37
たびたび. yondaさん こんにちは。
昨日 「キルトの家」後編に コメントしたものです。
私のノー天気なコメにも 丁寧なコメントを
返してくださって ありがとうございました。
それにしても 昨日、通りがかりで こちらのブログに出会った衝撃たるや。
ここまで 山田太一作品を 強く愛して吟味して すばらしい評論できる方がいるなんて、本当に驚きました。
たんに「山田太一ドラマ、大好き~❤なんかセリフも深いし~、キャストもなんか豪華だし~」という うすっぺらい姿勢で 観賞している自分を恥じました。

この『空也上人がいた』も 
「いまに ドラマ化になるかもしれないから 読んでみよ」と図書館で見つけて 軽い気持ちで
読んだのですが、さきに yondaさんのブログ読んでおけば良かったです。
そしたら 「ふかイイお話だった。しびれた」なんて
ありきたりな感想じゃなくて
もっと違う視点で じっくり味わえたのかも。
どうしても ドラマ化した場合の キャストは
ケアマネージャー役は 余貴美子・・・
ヘルパーの青年役は 視聴率とれそうな 嵐のだれかで・・・などと 不毛な皮算用をしてしまう俗な自分から脱せません(-_-;)
山田太一作品、新作は、いつまで観られるのかわからないけれど yondaさんの解説付きで いつまでも堪能したいものです。
また こっそり おじゃましますね。 


Yonda? URL @
03/02 20:23
名無しさんへ. 

NHKでテレビドラマ化されたらおもしろいですね。ぜひとも老婆の汚れた性器を薄モザイク程度でお茶の間に流してほしいものです。ケアマネージャーの排尿の音響もリアルに再現してほしいところ。これはNHKにリクエストの手紙を書かなければなりませんね。

嵐ですか。いまふと気づきましたが、わたし、嵐のメンバーをひとりもフルネームでいえません。スマップなら全員いえます。AKB48の前田敦子さんは荒川土手のロケ中に目撃しました。お人形さんのようでした。ああ、どうでもいい話ばかりすみません。脳を通さないで言葉を糞尿のように垂れ流してしまいました。








 

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