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山田太一講演会

2月26日、本郷台の栄公会堂講堂に山田太一先生の講演を聞きに行く。
テーマは「誰もが生きる物語」。
うちからだと片道2時間、交通費も片道で千円以上かかるわけである。
ファンというよりは、もはやストーカーに近いのだろう
以下に再現する講演会の内容は、すべてを未熟な聞き手の頼りない耳に依っています。
どこかおかしなところがございましたら、あらゆる責任はこの記事の書き手にあります。

さかえ区民サークル活動の紹介のあと、山田太一さんが登場する。
――このへんも、だいぶ変わりましたね。
僕は大学を出てから、大船の撮影所に通っていましたでしょう。
ですから、当時のこのへんは知っていますので。

ゴーストバスターズ。いきなり変なことを言うようですが、ゴーストバスターズ。
映画のタイトルでもありますね。幽霊の退治をする人たちのことです。
だいぶまえハワイでゴーストバスターズをしている人と逢ったことがあります。
ご夫婦で幽霊退治をなされていて、とても親切な方たちでした。
そのとき、こんな話を聞きましたですね。
ゴーストバスターズの夫婦が、依頼されてどこかのビルに行くでしょう。
幽霊がいると言われているビルです。
雨が降ると言うんですね。それまでは晴れていた。
ところが、夫婦がそのビルに近づいていくと、さあっと天気が変わる。雨が降る。
20世紀の科学を信じている我われにとっては、あれ? という話でしょう。
どこまで信じていいのか迷ってしまいますですね。
ご夫婦のしていたのは、天との連絡を取る、というようなことなのでしょうが。

話は変わりますが、雑誌の取材で、とある女性のライターと仕事をしたことがあります。
この方は、とにかく天気を気にするんですね。
この女性ライターも含めた一行は神社に行きました。
そのとき雨が降っていたんですね。小雨がぱらついていた。
彼女は、言うんですね。この場所は雨がもっともふさわしい。
自分たちがここに来たときに、雨が降っているというのはすばらしいことだ。
神社の取材が終わって晴れてきました。
つぎに海に出まして、船の上から断崖を撮影する必要があったんですね。
このライターはなんと言うか。「ついている」と言うんです。
どうやら彼女は、信じているみたいなのです。
天候が自分に幸いしてくれている、と信じている。
取材が終わったら、空港へ行きます。帰るためです。
このときは――雲が立っていたんです。
すると彼女は興奮する。こんなラッキーなことはない。自分たちは歓迎されている。
空港に行くまでの車でも、こんなことがありました。
彼女が空に虹が見えると言うんです。
そんなに言うんだからと我われも車をとめて外に出てみました。
けれども、虹なんかどこにも見えないんですね。
彼女は、いや、見える、あそこに虹が出ている、と主張します。
すると見えないと思っていた虹がうっすら見えたんですね。それは驚きましたですね。

この女性ライターと老人ホームに取材に行きました。
1時という約束をしていた。
5分まえに彼女が行く。入口からエレベータに行きますね。
エレベータが開く。すると、取材しようと思っていた老人がいるんです。
やっぱりだと彼女は言います。そういう予感がしていたと。
しかし、これはどうだろうか、とも思いますでしょう。
1時に約束していたのだから、5分まえに本人が登場するのは、
まあ、そんなに感動するほどのことでもないような気もいたしませんか。
彼女は言います。ラッキーだ。なんて私はついているんだろう。
こんなことも言っていましたですね。
腰が痛いときにテレビをつける。たまたま腰痛の特集をしているんですね。
ほら、自分はついている、という話になります。
これも、ちょっとよくわからないですよね。
そのとき腰が痛かったから、特集が記憶に残ったという可能性もありますから。
そんなにラッキーでもないんじゃないか、とも思うこともできます。

しかし、こうも思いますですね。それで幸福だったらいいじゃないか。
現実や自然は、味気ないものです。
そういう味気ない現実を生きているときに、
「自分をだれかが見ていてくれている」と思えたら、思えるのなら、
それでいいのではないか。

モンテーニュがこんなことを書いていましたですね。
嘆く人がいるでしょう。今日は人生を無為に過ごした。
今日はなんにもしなかった。だから、よくない日だったと嘆く。
しかし、とモンテーニュは言います。
そんなことはない。生きていたじゃないか。
生きているというだけで、相当に細かな味を感じているものでしょう。
なら、それでいいではないか。
どうして存在していること、それだけでも奇跡だと思わないのだろう。
知性によって意味があると感じられることばかり重視するのはどうだろうか。
現実主義者は、そんなことをしても意味がない、なんてよく言いますでしょう。
意味がなくてもいいではないか。
そういう点からしたら、現実主義者というのは、
かえって現実の辛さ、現実の哀しさを知らないと思いますですね。

ラブソングを聴いていますと、あれでしょう。
永遠の愛があるんじゃないかと思えてきませんか。
現実主義者は、永遠の愛なんてないと言います。
ラブソングがうたいあげるような愛はない。
実際、そうですよね。恋はいつかはさめる。
大恋愛をして結婚しても、そういう昂揚はどうしても長続きしません。
じゃあ、どうして離婚しないのだというと、
恋愛が情愛のようなものに変わるからなんでしょうが。
情愛のようなもので関係が持続していくのが実際だ。
だったら永遠の愛はないのか?
おそらく、ないのだろうけれども、ほしいじゃないですか。
映画、ドラマ、小説というのは、こういうものを描くものだと思いますですね。
人間の願いを書くのが映画、ドラマ、小説ではないか。

現実というのは、方向性がないものでしょう。いいも悪いもない。
だから、切り取り方の問題だと思いますね。
悲惨な物語というものがあるでしょう。
そういう物語の作者は、ロマンティックな作品を否定したりする。
あんなものは現実を描いていないではないか。
しかし、僕は思うのですね。
そういう悲惨な物語も、願いを書いているだけではないのか。
現実が悲惨であってほしいという願いを書いているのではないか。
ロマンティックなものも、悲惨な物語も、
結局のところ作者はそれぞれのこうであってほしいという願いを
書いているような気がしますですね。
現実というのはこうだと決めつけられるものではない。
切り取り方の問題だと思いますね。現実をどう切り取るか。
若いときに感動したものを、歳を取ってから見ると感想が変わりますでしょう。
こんなつまらないものに感動していたのか、とあきれてしまうことがある、
どうしてかと言いますと、生きているうちに段々すれっからしになるからでしょうね。
現実はこんなもんじゃない、なんて言ってしまいたくなる。
とはいえ、すれっからしになった人が、それでもなお感動するものがありますね。
そういう作品は、夢の質がいいのだと思います。
夢の質が、作品の力なのかもしれません。
映画、小説、ドラマに接するときは、切り取り方の楽しさを味わうといいです。
語り口の楽しさです。語り口、物語のことです。
その語り口と自分の物語を合わせて生きようとしてみたらおもしろいかもしれません。

杉山平一さんという人がいます。関西の詩人です。
こういう詩を書いておられますね。
夕方うちに帰ろうと思うのはどうしてだろう。
うちに帰ればあると思っているからではないか。親の自分に対する子どもの愛が――。
ところが、このお子さんは亡くなってしまいます。
そのときのことを詩にしています。しかばねを焼いた美しい煙――。
続けて、このようなことが書いてあります。
人間は考える葦(あし)だって言うても、
子どもが死んだということは、どうにも受け容れられぬ物語だ――。

別の詩に、こんなことを書いています。
あるとき、あるところへ行った。そこで道がわからなくなってしまう。
ガソリンスタンドで聞こうと思う。
そこでふと気づくんですね。
まえに来たときも、ここで迷ってガソリンスタンドで道を聞いた。
まだ時間があるから道を聞くまえに、駅のほうへ戻って昼飯を食べようと思う。
うどん屋があり、ここへ入ろうか迷う。高いからほかへ行くことにする。
ここでも気づくのですね。こういうことがまえにもあった。
たしかにまえもこのうどん屋に入ろうか迷い、高いからやめた。
自分はどうしてかおなじことを繰り返してしまう。
そうして自分の限界というものを感じるのですね。
まったく自分は自由なんかではない。
さらにこんなことも思います。ここがおもしろいところです。
自分の父親もまたかつてここで迷ったのではないか。
自分の息子もまた将来ここで迷ってしまうのではないか。
自分だけではなく、父親や息子のことを考えます。
それぞれの限界に思いを馳せるのです。
これは類縁の限界を想像するということなんでしょうね。

話は大きくなりますが、日本の文化を継承するというのも似た面がないでしょうか。
我われはどういう存在か。
膨大に積み上げられた過去の頂上にいま我われはいるという考え方があります。
一方で、中間地点に過ぎないという見方もあると思います。
我われは、過去と未来をつないでいく存在なのだという考え方です。
日本の文化などと言うと、ついつい芸術作品だとか大きなものを考えてしまう。
しかし、もっと小さなものの継承にも光が当てられていいのではないか。
たとえば「ためらい」「人見知り」、それから「大胆さ」、こういったものの継承です。
どれも一見すると、どうでもいいもののように思えます。
広い過去の日本人の生き方です。
いいところも悪いところもつないでいく人だと自分を思ったらどうでしょうか。
かつて三島由紀夫さんが、こんなことを言っていますね。
日本にはずっと続いているものがない。
だから、三島さんは天皇制の価値を訴えていくわけです。
これに対して福田恆存さんがこう言う。
対談で、三島さんから「日本にはずっと続いているものがないが、どう思う?」。
こう聞かれた福田恆存さんがさらりと言うのです。
ずっと続いているものならある。それは「私」だ――。
思い切ったことを言うな、と思いましたですね。「私」がずっと続いている。
つまり、ひとりではないということです。
ひとりではなく、つないでいる人なんだ。それぞれの継承をしている。
こういう考え方を、僕はちょっと素敵だなと思う。
モンテーニュの言う、自分の存在をないがしろにしちゃいけない。
それはこういう「私」のことを言っているのではないでしょうか。

考えてみれば、ホームドラマなんていうのは、こういう継承の宝庫でしょう。
継承ということを考えることで、
だいぶ「ひとりじゃないという感覚」が得られると思います。
そうなると、よき継承をしたいなどと考えてしまうのが我われです。
悪い継承をしてはいけない、なんて考えてしまう。
いいも悪いもなく、継承するということに価値を見出してはどうでしょうか。

いい悪いというのは理屈です。これは正しい。これは正しくない。
世界も日本も、こういった理屈で動いています。いいことをしよう。
しかし、いまの我われに絶対はないのですね。
イエス・キリストがこれは正しいと言ってくれません。
お釈迦様がこれは悪いと決めてくれません。
どこまでも相対的な価値観のただなかを生きざるをえない。
たとえば、映画を観るでしょう。こりゃひでえな、つまらないなと思う。
ところが、周りの評判を聞いてみると、おもしろいという声が多い。
ヒットしていたりする。
こういうときに、それは違うとはなかなか言えないでしょう。
「人それぞれか」と思って、自分の感想を呑み込むくらいが関の山。
これが相対でしかない、つまり絶対のない世の中なんですね。
尾形光琳がいいというのも、ディズニーがいいというのも、人それぞれ。
比べるのもどうかと思うけれど、ゴッホとサザエさんが同列に論じられてしまう。
少なくとも優劣はない、とされますでしょう。
これが相対主義の世界なんです。

ところが、相対ばかりだと我われは絶対的なものがほしくなる。
絶対的なものを求めすぎると、ヒットラーのような人が現われるのでしょう。
あまりに相対的に過ぎると、絶対的にふるまう人がよく見えてしまう。
「これはこうだ」と絶対的に言い切るひとが過分にもてはやされる。
宗教というのは、絶対的なものです。
たとえば、罪を犯したとするでしょう。
このとき仏様を信じられたら、こんなにいいことはありません。
仏様に懺悔したから自分はもう許してもらえたのだと思うことができるからです。
ところが、いまはなかなか仏様を信じられない。
天国とか地獄とか言われても、信じられない人が多いのではありませんか?
天国や地獄が本当にあると思っている人は少数でしょう。
天国を信じられたら、いいんです。
天国へ行きたいからという理由で、自分を律することができる。
地獄へ行きたくないから、現世での自分を律するという生き方ができます。
しかし、どうにもこうにもいまの我われは信仰がない。信仰を持てない。
ならば、どこに絶対を求めたらいいのだろうか。

ひとつは自然です。自然は絶対的である。
新燃岳の噴火なんかそうでしょう。天災はどうしようもない。
灰が迷惑だといっても、どこにも非難の持っていきようがない。
地震もそうです。地震がいつ来るかはわかりません。
いまこの瞬間に地震が起きて、この会場にいる人みんなが死んでしまうかもしれない。
地震は今日起きないかもしれない。起きるかもしれない。わからない。
人間の意思ではどうにもならないのが自然です。これは絶対です。
あるときガーって来て、みんなすべて奪っていってしまうかもしれない。
そういうときになってはじめて、人間はなにが本当に大事なのか思い知るのでしょう。
そういう天災のような絶対がないと、我われはなにが大事なのかわからなくなります。

もうひとつ、絶対があります。病気です。
どんなに健康に気を配っていても、病気になるときはなってしまいます。
しかし、病気になってはじめて、人の身になれるというところがあります。
健康な人は実感がないからどうしても病人のことはわからないのですね。
大病をしてから、人の心の冷たさ、
あったかさがわかるようになる人が大勢いるように思いますですね。
こう考えてみたら、疫病神(やくびょうがみ)というのは、
意外と我われの生活にうるおいを与えてくれているのかもしれない。

それから三つ目の絶対は死です。人間はだれもがひとりの例外もなく死ぬ。
かといって、「自分の死」は決して味わえませえん。
だから、この場合の死は「親しい人の死」になります。
もちろん、死んでさみしいというばかりではなく、
死んでくれてさっぱりしたとか、そういういろいろな感情を人は死に持ちます。
とはいえ、この死という限界があることによって、
我われはどれほど幸福感を得ていることか。
ずっと生きていると思ったら、これはもう拷問です。
「死ねば終わり」と思えることで、どれだけ楽になる部分があるか。
そう考えたらば、死は恵みでさえあるのかもしれない。

繰り返します。信仰を持てない現代の我われにとって、なお絶対者は存在する。
それは自然、病気、死の三つです。
この三つは、かなり平等です。死なんか本当にそうでしょう。
金持も貧乏人も、死だけは平等に訪れます。
そして、この絶対があることによって、どれだけ我われは豊かなものを得ているか。
病気を疫病神と神にまつりあげる考え方はおもしろいと思います。
おなじように死は死神に支配されています。
疫病神や死神といった神様に現代人はもっと感謝したほうがいいのかもしれない。

いろいろなところで言ってきていますが、食べ物の話は書かないようにしています。
食べられるだけで幸福だった戦争時代を知っているからです。
うまいと聞いたら新幹線でも飛行機でも乗って食べに行くというのは品がないと思う。
僕は、自分の食べている姿は醜いという思いがずっとありました。
こないだ高校生のころの友人と同窓会で再会しました。
こう言われたんです。おまえはとにかく顔色が悪かった。
当時どれほど飢えていたかということでしょう。
食べ物があるとすぐ食べちゃうんですね。犬みたいで恥ずかしいと思います。
マクドナルドの銀座一号店がオープンしたとき思ったものです。
道でものを食べていて恥ずかしくないのだろうか。
時代が変わったのだと思いましたですね。
飢えていたときは、白米だけでお祭り騒ぎでしたから。
父が白米をどこかから獲得して来るでしょう。
全員おなじ量にしようってことで、ハカリを持ち出してくるんです。
どっちが多いか、なんて妹と言い合ったりして。
そういって飢えているときに白米をなにと食べると思いますか。
白菜の漬物です。白菜でご飯を寿司のように巻いて食べる。
忘れられないくらいおいしかったですね。
どうしたら快楽が増すのか。快楽の秘訣は抑制することだと思います。
おいしいものを食べたかったら飢えているにかぎる。
抑制というのは、とてもいいものだと思いますね。
抑制している人間は素敵だと思う。
たまには絶食してみるのもいいのかもしれません。
まあ、バイキングに行くまえとかは、昼食を抜いたりするのでしょうが。

食べることは醜いと思いますね。結局は命を食べているのでしょう。
肉だったら、動物を殺して食べているわけです。
ヒューマニスティックな人というのもどうなのかと思いますね。
犬か人間かどちらかを殺すとなったら、やはり犬を殺すわけでしょう。
人間の善意の限界というものを知っておいたほうがいい。
あくまでも人間中心の世界なんですね。
人間が生きているというだけで、なにものかを傷つけているところがある。
ここから生きる哀しみといったような情緒が生まれるのでしょう。

明治のころにもう夏目漱石が言っているのですね。
最近の小説は泣かなくなった。
このころから涙を流すというのはよくないことだったのかと驚きます。
思えば、感情的なのは恥ずかしいとどこかで我われは思っています。
理性的であらねばならないと思い込んでいる。
だから、「さっきは感情的になってごめんなさい」と言ったりするのでしょう。
理性と感情を天秤にかけたら、常に理性のほうが重んじられるべきだと考えている。

中国の古い皇帝が、ある美少年を寵愛していたそうです。
ホモだったのか、バイだったのかはわかりませんけれど。
この少年の母親が亡くなった。
少年は急いで母のもとに駆けつけたい。
そこで皇帝しか使ってはならない馬車で故郷へ帰りました。
どんな刑罰を受けることになるのかと少年は青ざめて帰ってくる。
ところが、皇帝は少年を許すのですね。
後年のことです。そのころは美少年ではなく髭が生えていたからかもしれない。
ちょっとしたミスが原因でこの少年は死刑になったと言います。
おなじことをしても殺される場合と、殺されない場合がある。
これが現実だと思うのですね。
皇帝のささいな感情ひとつで人間の生死が変わってしまう。
現実はこのように理性よりも感情で動くものなのかもしれません。
もしそうだとしたら、感情が発露しているものはいったいなんだろうか、
と考えてみるのも悪くないかもしれません。

自分の歌を見つける、探すということをもっとしてもいいのではないか。
物語というのはなかなか難しいかもしれませんが、
歌くらいならあんがい自分のものを見つけられるのではないでしょうか。
川崎洋さんという詩人がいます。詩は好きでよく読むんです。
「私の歌」という詩があります。
自分にぴったりするような歌はどこかにないものかと探していく詩です。
「~~でもない、~~でもない、あれでもない、これでもない」
ずっと否定が続くわけです。あれも自分の歌ではない、これも違うと。
おなじことを物語でやってみてもおもしろいかもしれませんね。
自分に似合う物語をあれでもない、これでもないと探してみてはいかがでしょうか。

先ほど紹介した詩人の杉山平一さんにこういう詩があります。
急行列車のことを書いています。
急行は各駅を飛ばしていくでしょう。とまらない駅がある。
そういう駅のホームに座っている人がいる。
詩人は思うのですね。「あれは私だ」――。
もちろん自分は急行列車に乗っているのですから、ホームに私などいるわけがない。
しかし、各駅停車の電車しかとまらないような駅のホームに自分がいると感じてしまう。
情けないものにどうしてか惹かれてしまう。
これは「私の歌」「私の物語」と似た側面がないでしょうか。
演歌なんかもかならず情けないことを描きますでしょう。
別れたとか、振られたとか。「着てもらえない手編みのセーター」とか。
これはロマンティシズムだと思いますですね。
人間の夢の部分、感情の部分に大きく関与しているのではないでしょうか。
どこかに情けない部分を切り取りたいという感情を持っているのではないか。

大和朝廷に最後まで抵抗したのが出雲だったと聞きます。
結局滅ぼされてしまうのですが、そのときこういう約束がなされたというのです。
人心を安定させるために役割分担をしよう。
目に見えるものは大和朝廷が担当する。
そして、目に見えないものは出雲大社に担当してもらう。
とても素敵な話だと思いますね。
当時は大昔とはいえ、なんと洗練されていたことか。
見えるもの――経済、お金や物質的なものがそうですね。
お金が目に見えるものかどうかというのは、それはそれで難しい問題ですが。
見えないもの――過去や感情がそうです。
脇にいる人なんかも見えないかもしれない。

ラフカディオ・ハーンという人がいます。
妻から聞いた日本の怪談を広く紹介した人です。
彼は妻が話す怪談を本当に怖くて仕方がないというように聞いていたらしい。
どこかで怪談を信じていたところがあったのではないか。
というのも、ハーンはアイルランド出身なんですね。
アイルランドといえば、さかのぼればケルトに行き着く。
ケルトの人たちは、この世にないものに強くあこがれた。たとえば妖精のようなもの。
こういう血筋もハーンという人間を考えるうえで見逃せないのかもしれません。
あるときハーンが避暑のため焼津に行きました。
夜、波の音がよく聞こえる。
ハーンはこう言ったそうです。波の音を聞いてハーンは言った。
「いままで生きていた(もう死んだ)人たちの悲嘆が聞こえる」――。
実際は、ただの波の音に過ぎないんですよ。
現実は味気ない。だが、味気ない世界に生きていると心細くなる。
そういうときにハーンのように波の音を聞けたらどんなにいいことだろう。

フォースターというイギリスの作家がいます。
エッセイでこういうことを書いていますね。
「できるなら人生の本当の姿なんて見たくない」――。
小説家というのは、願いを聴き取る力を持っているかどうかではないでしょうか。
なんでもないことのなかから、人間の願いを聴き取る力です。
たとえば車椅子の人が立ち上がる。
一見するとなんでもないことですが、
そのときになにかを聴き取ってしまう人がいるかもしれない。
ハーンが波の音から死者たちの悲嘆を聴き取ったように。
現実に絶望すると人間は自殺します。
しかし、このごろ思うのですが、人間は絶望するようにできていないのではないか。
絶望は思いのほか長続きしないものなのではないか。
実際、死にたいと思っていても、ひと晩寝ただけでかなり変わるでしょう。
人間はあの手この手を使って現実を肯定しようとする存在ではないか。

最初に話したゴーストバスターズのことを思い返してください。
あれはひとりで幽霊を倒そうとしているのではないのですね。
仕事としてあるということは、かならず依頼してくるお客さんがいるわけです。
幽霊はいるのかいないのかわかりませんが、
言ってみたらゴーストバスターズと顧客は幻想を共有しているのですね、

広く共有されている幻想に、人間は平等だというものがあります。
あれは本当は権利のうえでの平等なんです。
しかし、憲法に人間は平等だと書かなければならない裏側の気持はどうでしょう。
人間は不平等なんだと大声で叫びをあげているようなところがありませんか。
人間は平等であるわけがない。不平等極まりない。
おそらく、だからこそ憲法に人間は平等だと書かざるをえなかったのでしょうね。
というのも、人間はあからさまに歴々と不平等だからです。
顔もまったくそれぞれ違いますでしょう。美人がいれば、そうでないものがいる。
頭のよさも人によってまるで違います。
金持の家に生まれるものがいれば、貧乏人の子として生まれるものがいる。
ここには個人の努力はまったく関係なく不平等としか言いようがありません。

人間は顔も背丈も選べない不可能性だらけの存在なんです。
反対に、可能性というのは魔であると思いますね。悪魔の魔です。
可能性によってどれほど無駄な悩みが増えていることか。
努力すればなんでもできるなんていうのは嘘です。むしろ害悪です。
あれはトップの人にインタビューしているから、ああなるのであって。
二位や三位の人は、じゃあ努力が足らなかったんですか。
四位の人はどうです。五位の人も生きているんですよ。だれもインタビューしない。
テレビの世界に長く関わってきたから、こういうことを思います。
俳優志望の人というのがたくさんいます。
とてもダメだ、俳優になんてなれない、という人はいいんです。
なぜなら、すぐにあきらめることができますから。
中途半端に可能性がありそうな人が困るんです。
あんがい年齢があがったら渋みが出るかな、とか思わせるような俳優志望者。
なぜなら、いちばんあきらめが悪いからです。
すると大きく出遅れてしまいますでしょう。
出直す時期を見誤ってしまう。
スポーツの世界ではオリンピックに出られなかった選手がいちばん辛いでしょうね。
オリンピックに出たらたとえダメでもなんとか人生に折り合いをつけられるかもしれない。
あきらめや自己限定は生きていくうえでとても大切ではないでしょうか。
僕も犯罪は書かないと決めています。犯罪寸前までは書くけれど、犯罪は書かない。

何度も繰り返したいのですが、可能性は魔ですからね。可能性は魔である。
マイナスを指折り数えてみるのも楽しいかもしれませんね。
顔がまずい。顔の可能性(=魔)が消えた。これで得点1です。
百メートル競争をしたらビリになってしまう。ラッキー。得点2。
頭が悪い。またひとつ可能性が消えた。よしよし。得点3になった。
ほかにもなにかマイナスがないだろうか。
どうか自分のマイナスを指折り数えてみていただきたいと思いますですね。
こんなふうにマイナスをとらえるようになったのはどうしてか。
僕くらいの年齢になると友人がどんどん死んでいくんですね。
もう周りにはだれもいないというくらい多くの友人に先立たれました。
そうすると共通の想い出がまったく消えてしまいますでしょう。
マイナスへの見方ががらりと変わりますですね――。


(編集後記)
繰り返しになりますが、記事内容の責任は未熟な聞き手たる筆者にあります。
話者の語った内容をうまく聴き取れなかった部分もかなりあることでしょう。
話し手の意図を大きく飛び越えて聴き取ってしまった箇所もあるかと存じます。
なにとぞご了承のほど、よろしくお願い申し上げます。

(参考)過去の山田太一講演会↓
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-2495.html

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