「飲酒運転で犯罪者になった 実録交通刑務所」(川本浩司/新風舎文庫)
→タイトルを見て、たいへんな本を見つけてしまったと思った。
飲酒運転というのは、他人事ではない。
わたしはペーパードライバーで今後車を運転するつもりはないが、飲酒運転は身近な問題。
飲酒すると、なにがいけないかというと、間違うことが多くなる。
飲酒運転をした人を責めるのは簡単だが、
どうして酒をのんだのに車を運転したのかと本人に問うのはあまり意味がないように思う。
というのも、酒をのむと正常な判断ができなくなるのだから。
酒をのむと理性が鈍るでしょう。だから、車に乗ってしまうのである。
飲酒運転で人を殺してしまった当事者はどのような思いをしているのだろう。
この関心から身をただして本書を読み始めた。
すぐに見当違いをしていたことに気づく。
本書の著者は飲酒運転で刑務所に入ったが、事故を起こしたわけではないのである。
免許取り消し処分中なのに、飲酒運転をやらかした。
そのうえ、スピード違反2回、酒気帯び運転2回、駐車違反5回。
この前歴があってこそのブタ箱送りということらしい。
著者は大企業の部長で妻とふたりの子がいる。
エリートが半年間、ブタ箱でクサイ飯を食った体験ルポと思うのが適切だろう。
考えてみたら、当たり前か。
もし飲酒運転で人を殺めてしまったら、とてもではないが本など書けない。
そもそも不謹慎だし、体験自体が言葉にならない壮絶な地獄だと思う。
著者は、刑務所で交通死亡事故の加害者と逢ったことを書いている。
その記述から、加害者の気持を推し測るしかない。
交通死亡事故というのは被害者はもちろんだが加害者も地獄だろう。
飲酒運転でなくても、人は事故を起こしてしまう。
なぜなら人間は間違う生き物だからである。
うっかりコップを割ってしまうのも間違いだが、
おなじ過誤でもブレーキとアクセルを間違えてしまったらとんでもないことになる。
どうして間違えたのかと司法に問われても人間には答えようがないのではないか。
なぜなら繰り返しになるが、人間は人間であるかぎり間違えてしまうからである。
著者は刑務所内のグループワークである受刑者からこんな話を聞いたという。
「五、六人の子どもを乗せ、ドライブ中、
スピードの出しすぎでコンクリートの電柱に正面衝突。
三人死亡、他は重傷。今まで喜んでいた子どもたちが、一瞬の事故で、
顔面から血を噴き出し、その場は地獄絵図のようだった。
いっぺんに二人の幼い子どもを失った両親は、私に向かって
『あなたのために、明るく幸福だった家庭が幽霊屋敷のようになってしまった。
これから何を目的に生きていけばいいのかわからない』と涙を流す。
そのことを考えると気が狂いそうになる」(P138)
これを聞いて大手重電機メーカー部長の著者は以下のように思う。
「運転者のほんの少しの油断がとり返しのつかない大惨事となって、
被害者と加害者を生む。車が悪いのではない。
すべてそれを運転する運転者に原因があるのだ」(P139)
本当にそうだろうか。運転者がそんなに悪いのだろうか。
わたしは「車が悪い」と思うのだが、こう思うのはおかしいのだろうか。
さらに大学ではラグビー部に所属していた有能な営業マンの著者は思う。
「彼らの重く恐ろしい体験を聞き、「もし自分だったら」と思うとともに
「自分でなくてよかった」と胸をなで下ろす」(P139)
どうして著者の川本浩司氏ではなく、ほかの人が苦しまなければならないのか。
事故で子どもをふたり死なせてしまった受刑者は模範ドライバーだったのかもしれない。
まあ、子どもの運転を任せられるくらいだから優良ドライバーだったのではないか。
いっぽう本書の著者といえば酒気帯び運転3回、スピード違反2回。
はっきり言わせてもらうがこのエリートは運転を舐めているようなところがないか。
ならば、どうして交通死亡事故を起こしたのは著者ではないのだろう。
本当に川本浩司氏の主張するよう「運転する運転者に原因がある」のか?
著者は交通刑務所で飲酒運転で人を殺してしまった加藤という男と親交をむすぶ。
彼のケースもいろいろな人生の矛盾を感じさせる。
加藤が酒気帯び運転で殺したのは、統合失調症の青年だったのである。
精神病院へ入退院を繰り返していた家族の厄介者。
加藤は意地汚い金額交渉ののちに遺族に5千万(当時の価格)支払う。
刑務所を出て遺族の家を訪問したら、豪邸になっていたという。
仏壇は小さく汚いままだった。このことに加藤は義憤を感じる。
人間というのは恐ろしいものだと思う。人生はわからない。
統合失調症の青年は家族に迷惑をかけたが、
最後に巨大な金運を引き寄せたのである。
そして、酒気帯び運転で人を死なせた殺人者が、遺族の偽善性に憤る。
著者のエリート会社員は出所後、退職にはならず子会社に出向することになった。
そこで営業の手腕を発揮して大活躍したそうである。
家族離散の憂き目からも逃れることができた。かえって家族のきずなが深まったという。
万々歳の結末である。だから、本書を書いたのだと思われる。
ところが、そうはならなかったケースもある。
著者が市原刑務所で知り合い友人になったという山内和彦の場合だ。
山内和彦、元大手建設会社の現場所長。業務上過失致死罪。1年4ヶ月収監。
事故の内容は、わき見運転で死亡者1名、重傷者1名。
詳細はこうである。著者は語る。
「ある日、山内氏は会社のトラックで作業現場に行く途中、
わき見運転により道路で白線を引いていた作業現場に突っ込んでしまったのだ。
作業者のうち一名を死亡させてしまった。
さらに不幸なことに同じ作業現場で働いていた別の作業員にも
重傷を負わせてしまったのだ。
トラックはコールタールを溶かしていた大きな容器にも衝突した。
高温に熱せられていた容器は衝撃で倒れ、そばにいた作業者は高温の
コールタールを全身に浴びてしまい、大ヤケドを負ってしまったのだ。
死亡した人は、若くまだ年齢二十三歳だった。
大ヤケドをした作業員もまた二十一歳と、これから前途ある青年だったようだ」(P288)
ここから先は地獄である。自賠責、任意保険だけでは足りない。
マイホームを売却。会社からは解雇に近い退職処分。退職金もゼロ。
迷惑をかけてはならないと妻子と別れ、小さな建設会社に再就職。
少ない給料のなかから大ヤケドの被害者の治療費と生活費を払うといくらも残らない。
著者は、2年も音信のないこの友人のことを気にかけ、
おなじくムショ仲間の小宮という男と久しぶりに山内和彦を訪ねる。
著者は、山内和彦が首吊り自殺をしていたことを知る。
元妻の家にある仏壇に著者は線香を上げる。
ここから先の著者、川本浩司氏の述懐にわたしは強い違和感を覚えた。
「奥さまがいろいろ話したいことがあったらしいが、
われわれは話し合う気力もなく、山内氏の奥さまの実家を後にした。
道路交通法で刑務所に収監され、
そこで知り合った仲間が独りひっそりとこの世を去ったのだ。
さぞ、つらく苦しい日々だったのだろう。
私や小宮氏とは比べものにならない苦悩をたった独りで背負った苦悩や葛藤は、
計り知れないほど深かったに違いない。
自分の運命も呪っただろうし、悔しかっただろう。
あの世では幸せになってほしい。
私は心の中で山内氏の冥福を祈っていた。
しかし、事がどうであろうとも、親からさずかった尊い命。
それを自ら絶った彼の決断だけは許せず、強い憤りを感じていた。
「川本さん、泣いているんですか」
どうしたことか、いつの間にか熱い涙が私の頬を伝っていた。
「うん。自然と涙が出てな……。君だって、泣いているではないか」
小宮氏の頬にも幾筋もの熱いものが流れていた。
「涙が止まらないんですよ。被害者が苦なら加害者も苦だなあ」
小宮氏と私は、それからしばらく無言でいた。
山内氏には悪いが、彼の死によって「這い上がる強さ」と「這い上がれない弱さ」
を人間は両方もっているのだと教えられたように思った。
帰り道、小宮氏とは、こんなことがないように力強く生き、
生活しようと誓って別れた」(P293)
自殺したムショ仲間に金を貸してあげることもなかった有能営業マンの川本浩司氏は、
まるで自分が「這い上がる強さ」を持っていたかのような書き方をしている。
どうして自殺した不幸な山内和彦氏は死亡事故を起こしてしまったのだろう。
どうして酒気帯び運転で3回も捕まっている川本浩司氏は事故を起こさずに済んだのか。
なにゆえ山内和彦氏は自殺したのちも、
「這い上がれない弱さ」の持ち主と裁かれなければならないのか。
なにゆえ川本浩司氏は、暖かい家庭に恵まれ安定した会社員人生に戻れたのか。
さらには自著をこうして出版できるのか。
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