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「誰かへの手紙のように」

「誰かへの手紙のように」(山田太一/マガジンハウス)

→エッセイ集。山田太一さんの才能というのは、どのような性質のものだろうか?
世の中にはいろんなひとがいるもので(それでいいのだが)、
人間の能力はみなおなじと信じておられるかたもいる。
だから努力しろとなぜか自分にではなく他人に言うのがこういった人間の特徴だが、
かわいそうなひとだとわたしは思う。
なぜなら人生で身震いするほどの芸術作品と触れ合うことがなかったのだろうから。
不運にも、おのれを超えるものに出逢えなかったひと――。
こういった手合いが人間の持って生まれた才能を否定するのだろう。
話を戻して、山田太一さんの才能とはなにか?

「私は脚本を書く仕事をしている。
すると、ひとの身にならなくてはならない。といっても、
ひとの身になって優しくなったとか親切だとかいうのでは、まったくない。
私は格別優しくも親切でもない。
ただ仕事上の必要として、どの程度できるかはともかく、
登場人物それぞれの身に一応ならなければ台詞が出て来ない、
という立場にある」(P163)


ひとの身になるのが抜群にうまい! これが山田太一さんの才能なのだろう。
むろん、努力もそうとうあるだろう。
だが、すべてを努力に帰するのは、逆説的だが人間を舐めているようなところがないか。
ひとの身になる。わたしがもっとも苦手とするところでもある。
どうして山田太一さんは、ひとの身になるのがうまいのか。
脚本家の生き方と関係しているように思う。

「いきなり大振りな話で恐縮だが、たとえばカンボジアの内戦で家族を失ったとか、
アウシュビッツの生き残りだとか、
そういう人は以後その体験ぬきになにかを感じたり考えたりすることは難しいだろう。
だからその体験を自己形成の核に置く生き方をする人がいるのは当然だが、
一方で、なるべくそうした体験に縛られたくない、
現在の生活に限定して、なんとか個人的に生きたいという人も少なくないだろう。
どっちかといえば私は後者の方で、たとえばアメリカの黒人として生れたとしても、
なるべく黒人問題というような渦中から遠ざかって、
個人としての人生を生きることを願うだろう」(P139)


なるべく自己の体験に縛られたくない。なるべくひとの身になって考えたい。
この「なるべく」が山田太一さんの生き方である。
もちろん、こういった処世術は軽いとそしられることもあるだろう。
内省的な山田太一さんのことだから、
一見すると軽薄なわが身への自己嫌悪もたぶんにあったのではないか。
それでも脚本家は、なるべく自己を消そうと努めてきた。
皮肉にも、自己を消そうとすることで、個性豊かな作品世界が創造された。
個性はこれ見よがしに出すものではないのかもしれない。
隠そう隠そうと努めても、いや努めることによって発現するのが山田太一の個性なのだろう。
これは氏が青年期に愛読した福田恆存の思想にも通じている。
ひとの身になるから、脚本家は異様なほどに愛想がいい。ひと当たりがいい。
成功哲学の古典、カーネギーの「人を動かす」いわく、
成功する秘訣は「人の立場に身を置く」。
山田太一さんの脚本術は、またとない処世術でもあったのである。
脚本家は浮き沈みの激しいテレビの世界で40年以上も生き続けているのだ。
シナリオのみならず世渡りもまた天才的というほかない。
どちらも「ひとの身になる」ことを起点としているのが意味深い。

山田太一さんは道徳的な意味で、とても人間ができているのである。
以下に紹介するエピソードはどうだろう。

「小室等さんのことも忘れられない。
ある連続ドラマの音楽を小室さんにお願いしたのである。
私はその仕上りが気にくわなかった。演出家にそういうと、
しばらくして小室さんがそっちに向っています、という電話である。
「どこが気にくわないのか聞いてくる」といって出たというのである。
喧嘩をしに来たな、と身構えた。
まったくそうではなかった。実に軽く明るく生真面目に率直に、
どこが気に入らないかを聞いてくれた。
高圧的でも卑屈でもなく、見事にほどよくストレートだった。
今でも私は、自分を批判する人と向き合う時の手本だと思っている」(P56)


テレビのシナリオライターで山田太一さんほど、いわゆる成功を収めたものはいまい。
氏の脚本術だけではなく処世術もまた一流であったということだろう。
ひとの身になるのがうまい。すなわち、自己の御し方が天才的にうまい。
自身の大成功を、脚本家はどうとらえているのだろう?
いわゆる社会的成功をどう見ていたのだろう?

「学校や会社や業界での位置を高めたいという欲望に虚妄がないわけがない。
どうせ人は死ぬのである。地位を手にしたところでわずかな間である。
そのために自他をすりへらすのは馬鹿気ているが、
人はなかなか目先の欲望をふり捨てられない。
しかし大抵の人間は、心の底でその空しさにも気づいているのである」(P155)


「ひとの身になる」ことで山田太一さんは、数多くのものを手に入れている。
そのうちのひとつでさえ凡人の我われは狂喜乱舞することだろう。
ところが山田太一さんは、あまり浮かれた様子を見せない。自我肥大を見せない。
まったく無関心というわけではないのが心憎い。少しは喜びを見せるのである。
そうしないとひとから嫌味に思われることを処世の天才が知らないはずがないではないか。

以上のように山田太一さんの才能を検分すると、まるで妖怪かなにかのように思えてくる。
どうしてこうも人間としてマイナスの部分が少ないのだろう。
世間的に是認される最大公約数的な人間的魅力をほとんど身に備えている。
人柄がよくて、そのうえ運もいいのだから、なにか空恐ろしくなってくる。
いったい山田太一という人間の底にあるものはなんなのだろうか?
おそらく、自身もこればかりはわからないのではないか。
だから、書いているというところが山田太一さんにはあるのかもしれない。
才能あふれる脚本家は、人生でバカな上司から叱責された経験はないと思う。
だが作家は平凡なサラリーマンの味わう屈辱を、本人以上に理解してしまう。
さらに、そのことによって俗世における多大なる成功を手に入れる。
さらにさらに、その成功の無意味なることをもにおわせる。
山田太一という存在は巨大な一個の謎ではないか? まったく不思議である。

山田太一さんは人生でなにを獲得したのだろう?(これは経歴等でわかりやすい)
そして、多くのものを得ることでなにを喪ったのだろうか?

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