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脚色=「物語→ドラマ」

シェイクスピアは脚本家ではなかった。
なんて書いたら当たり前だろう、劇作家だろう、とお叱りを受けるかもしれない。
しかし、現代で言うような意味での劇作家でもなかったのかもしれない。
どういうことか。世界的文豪シェイクスピアの正体はなにか?
実のところ、男は脚色家だったのである。

シェイクスピアの芝居のほとんどに原作となる物語がある。
翻訳者の松岡和子氏が「ハムレット」の原形を調べたら、
驚くほどかの名作のあらすじは原作と近似していたという。
現在の観点から考えたら、シェイクスピアには独創性がないのかもしれない。
もちろん、松岡和子氏はここまで飛躍した主張はしていなかったように記憶している。

しかし、シェイクスピアはやはり一流のドラマ作家であった。
物語とドラマは異なる。
物語をどのように刺激的に芝居として仕組むかが作家の腕の見せどころなのだろう。
たとえ物語が決まっていても、ドラマはいかようにも変えることができる!

現代日本には脚本家が少ない。
大多数が原作の小説や漫画をドラマ化する脚色家である。
大きな失敗を避けたい商業制作では、既に知名度がある原作ものは安心なのだろう。
嘆いても仕方がない。
悔しかったら、自分が原作となるような創作をすればいいだけの話なのだから。
むしろ、脚色家は、わが祖先にシェイクスピアあり、と誇ってもいいのではないか。
ふと、そんなことを思った。

物語は決まっていても、ドラマは変えられる!
実際「夫婦が喧嘩をして妻が子どもを連れて家を出る」――。
このような単純な物語でも、芝居作者はその数だけドラマを作ることができるのである。
山田太一氏のような天才脚本家なら、この物語だけで10時間の連続ドラマを作るだろう。

では、物語とはなにか? ドラマとはなにか?
物語は個人的、ドラマは多数的という言葉が適切だと思う。
物語はめいめいのなかで完結する個人的なもの。
一方でドラマは大勢の人間が味わう、言うなれば複数形のようなもの。

「夫婦が喧嘩をして妻が子どもを連れて家を出る」――。
無数の夫婦がこの物語を経験したことだろう。
しかし、おのおの家族が味わった実質は多様である。
どんな夫がどんな妻から逃げられて、どのようなその人だけの悲喜を味わったか?
この個別性がドラマなのだと思う。

大きな物語は、みなおなじなのである。「人は生まれ死ぬ」――。
ところが、それぞれの人生の味わいは異なる。
「ハムレット」の物語は決まっている。
シェイクスピアは登場人物それぞれの悲喜を味わいながら彼だけの芝居を書いた。
作家は物語をドラマに分解する天才だった。

ドラマの登場人物はそれぞれ物語を持つ。
ならば、ドラマは物語の多重奏ということになろう。
ドラマを書くには、登場人物ひとりひとりの物語に耳を傾けること――ではないか?
これが今宵、脚色について考えてみた(=書いてみた)、とりあえずの結論になる。

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