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「沈黙亭のあかり」

2010.5.24

*ネタバレあり。観劇予定者は要注意。

5月23日、新宿紀伊国屋ホールで山田太一さんのお芝居、「沈黙亭のあかり」を観る。
さあ、どこまで本当のことを書けるかという話なのである。
氏はまさか覚えておられないでしょうが、
一度池袋でみなに混じって山田太一さんからコーヒーを奢ってもらったことがある。
今年、1月にはビールをご馳走してもらえるチャンスがあったのだが、
このときは直前になってわたしのほうから逃げ出した。
だれにこのことを言っても、「もったいないことを」とあきれられてしまう。
なにかが怖かったのである。
もっとも尊敬する作家・山田太一さんとわずかでも人間関係を作ってしまうのが怖かった。
なにより自分がものを書けなくなってしまうのではないかという恐怖があった。
追随者に堕してしまったら、自分の表現ができなくなってしまうのではないか。
山田太一さんの作品を「自分の眼」で観ることができなくなってしまうのではないか。

勇気を出して本当のことを言おう。
失礼ながら「沈黙亭のあかり」は失敗作だと思う。
メインテーマは、自死遺族である。家族に自殺されてしまったものの苦しみ。
まえに山田太一はテレビドラマ「本当と嘘とテキーラ」でこのテーマを扱っている。
わたしはこの作品を「自死遺族の気持をまるでわかっていない」と批判した。
「本当と嘘とテキーラ」は、その年のなんだったか――賞を受賞したはずである。
それでも自死遺族のわたしは「本当と嘘とテキーラ」を認めないぞと強く思った。
山田太一さんが、こんなブログをご覧にならないのは重々承知している。
けれども、「沈黙亭のあかり」は、わたしへの返答ではないかと勝手なことを思った。

山田太一作品の魅力は、他者への想像力だと思う。
本人は成功者なのに三流大学生やリストラされた中年の気持をよくわかるのである。
むしろ、本人以上に当事者の気持を汲み取ったセリフを書くことができてしまう。
代弁どころが、それ以上の真情を当事者よりも的確に表現してしまうのである。
ところが、天才・山田太一でさえ、自死遺族の気持はわからなかった。
成功者にはどう努力しても接近できぬ人間の暗部がある。
母親に目の前で飛び降り自殺されてしまったわたしには、
「沈黙亭のあかり」の空々しさに憤りさえ感じてしまう。わかったようなことを言うな!
愛する家族に自殺されてしまった人間を描いたコメディは書けるものではない。
パンフレットの対談を見ると、作者はコメディを意図した模様。
自死遺族を取り上げてコメディにするのは、いくらなんでも無理ではなかろうか?

簡単にあらすじを紹介する。
妻を自殺で亡くしたショックで耳が聞こえず言葉も喋れなくなってしまったマスターが主人公。
このマスターが経営するスナックが沈黙亭である。
15歳の娘を自殺で亡くした女性が客として沈黙亭に足しげく通う。
どうにかしてマスターの言葉を取り戻してあげたいと思うからである。
自殺してしまった娘にはもうなにもしてあげられない。だから、このマスターを!
ほかにも沈黙亭には珍客が訪れる。集団自殺を企てる4人である。
中年男女のカップル。それからネットがきっかけで知り合ったという若い負け組の男女。
ここのマスターは耳が聞こえないから秘密の相談をするのに都合がいいのだ。
ある日、事件が起こる。
集団自殺を企画していた4人が、どうしてかナイフを持って来店する。
どうせ自殺してしまうのなら、思い切ったことをしようではないか!
沈黙亭のマスターおよび客を皆殺しにしてみたらどうか?

このあたりの意識変容がまるでわからない。
作家は、たとえば秋葉原事件の表層部分のみ意識してこの箇所を書いたのではないか。
「自殺できないから他人を殺しちゃえ」とやけくそに考えてしまう人たち。
マスメディアでしきりにアピールされる部分を、作家は表面でしか理解していない。
現代の負け組の若い男女(どちらもいかにももてなさそう!)の絶望を軽くしか見ていない。
「自殺できないのなら殺しちゃえ」のなかにはもっともっと深い絶望がある。
老作家には踏み入れることができない領域だったのだろう。

自殺企画者4人はナイフでマスター、女性客、男性二人組のリーマンを威嚇する。
妻子に棄てられ「死にてえ」と嘆いていたサラリーマンは脅えてしまう。
「死にてえ」などというのは口だけであったのである。
沈黙亭のマスターは、ナイフをまったく怖がりもしない。それどころか――。
「ワタシヲ殺シテクダサイ」とホワイトボードに書き土下座するのである。
少しだけギョッとした部分である。
妻を殺してしまった(自殺させてしまった)自分は死んだほうがいい。
だから、どうぞ殺してください。
マスターの横に女性客もへたれこむ。娘を自殺させてしまった自分も死んだほうがまし。
どうぞ、構いませんよ、殺してください。
若い男女はナイフを持って突き進むが他人を殺すことができない。
なにをするか? 「ウワアー」とわめき頭をかかえこむのである。
このへんはひどく安っぽいと思った。
「人を殺すのは簡単ではない」という思い込みが山田太一のなかにはあるようだが、
あんがいちょっとしたきっかけで人は人を殺してしまうのではないか?
そう思うがゆえである。
舞台で登場人物にナイフを振り回されてしまうと、なにか白けた気分になってしまう。
「殺人事件」を描かないのが、山田太一の流儀ではなかったか。
言葉のナイフを振り回すのが、山田太一ドラマの魅力ではなかったか。

女性客が、この芝居のテーマを口走る。なんとも口が軽い女性ではないか。
「自殺は他殺で、他殺は自殺なのよ!」
自殺をするというのは、遺された近親者を殺してしまうことではないか?
他殺をするというのは、本当は自分自身を殺したいということではないか?
山田太一の卓見である。
おそらく作者は、この発想を得たとき、芝居がなかば完成したと思ったことだろう。
自殺と他殺は似て非なるものに見えるが、実は根っこのところで通じている。
自殺は、近親者を殺してしまうというのは本当にそうだと思う。
なかには自殺をできないから他殺に走るものもいるのであろう。

常連客の警察官が沈黙亭にやってくる。
集団自殺、いや集団殺人メンバーの男ボスは、意外な告白をする。
自分は14年前、バカヤロウをふたり殺した指名手配の犯人なのだという。
おいおい、と、ついていけなくなった。え、それ、なによ?
安っぽい刑事ドラマかなにかですか?
しかし、どんな安手のサスペンスでも、なんの理由もなく犯人が自首したりはしないでしょう。
この指名手配の犯人がナイフ片手に沈黙亭マスターに向かう。刺してしまう。
倒れこむマスター。悲鳴が上がる。ところが、ナイフは柄(つか)のままであった。
だれもが刺されたと思ったマスターは、実のところ無傷だったのである。
指名手配犯人は、やけに説明的なセリフをマスターに投げかける。
「これでおまえは一度死んだんだ。そう思え!」
指名手配の犯人は、警察官に引っ立てられていく。

舞台は溶暗して、翌朝――。
「一度死んだ」マスターは、案の定、耳も聞こえ言葉も話せるようになっている。
病気は治ればいいのか?
心因性の病気が治ったことで、マスターはただのオッサンになってしまう。
沈黙亭を名乗れなくなってしまう。店の個性がなくなってしまう。
どこにでもあるスナックになってしまう。
病気が治ることの悲哀を、山田太一は実にうまく描いていたように思う。
なにかを得ることで、なにかを喪う。なにかを喪うことで、なにかを得る。
どんなプラスのなかにもマイナスがある。どんなマイナスにもプラスがある。
心理療法家の河合隼雄と相通じる人生観を作家は持っているのだろう。

舞台は沈黙亭ひとつだから、人の出し入れのみが勝負になる。
どこまで作為を観客に感じさせない芝居に仕立て上げることができるのか?
いかにわざとらしくなく役者を舞台に入れ、出していくか。
作家の力量は、やはり一流である。
娘を自殺で亡くした女性客が今日もやってくる。
おなじ傷を心に持つ身。すぐに女性客はマスターが話せることに気づく。
ここで自死遺族の辛さを時間をかけて紹介するのだが、蛇足のような感じがした。
関連書籍に書かれていることを、丸写ししたような印象。
通常の人は自死遺族の苦しみを知る機会がないから、あるいは必要だったのかもしれない。

マスターは、以前と変わらず耳も聞こえず言葉も不自由なふりをする。
全員集合は、山田太一ドラマの法則である。
次々に昨夜の事件の参加者たちが沈黙亭に集まってくる。
マスターが治っていると知っているのは女性客のみ。
知らない人たちとマスターのやりとりは、いかにもコメディといったおかしさがある。
ダメリーマンは言う。もうみんなが集まることはないかもしれない。
乾杯しよう。「マスター、ビールをください」
マスターは耳が聞こえないふりをする。ビール、ビールをくれとメニューを突き出す。
ソファーに戻ったダメリーマンはクラッカーを鳴らす。パーン!
マスターがよろける。全員、マスターに注目する。
「聞こえた」とマスターは口にする。嘘をやめて本当のことをばらす!
事情を知っている女性客は、マスターをあたたかく見守っている。
バンザーイ! おめでとう! のハッピーエンドである。
終了30分前から「早く終わらないか」とわたしは何度も何度も腕時計を見たものである。
カーテンコールは万雷の拍手。わたしは一度も手を叩かなかった。
「山田太一さん、5250円を返してくださ~い」と泣きたくなった――。

周囲の客のマナーが悪かったことも、芝居への集中度を下げた。
前列に4人いた老婆が最悪である。携帯電話を鳴らすのである。
芝居中、2度も鳴らした。ふつうとめるでしょう。
ずっと携帯のメロディを流したままにしておくのである。
おなじメンバーの老婆ふたりは、芝居中に大きな声で会話するのだから。
わたしの右ひとりおいて横にいた中年男性も携帯電話を鳴らしていた。
幼児の叫び声がときたま上がるのも不愉快極まりなかった。
老婆4人の観劇マナーの悪さは、終演後に他の客からも非難されていた。
わたしも加わり「もうあんたら芝居には来ないほうがいいよ」と怒鳴りつけた次第。

観劇仲間とコーヒー700円の喫茶店へ! 満員なのね。不景気ってホントかよ? と思う。
この「沈黙亭のあかり」の感想が正しいのかどうかはわからない。
わたし以外の4人は、みな口をそろえて「よかった」と仰せになるのだから――。
山田太一の近作、ドラマ「遠まわりの雨」より何倍もよかったという声も上がった。
感想はさまざまで、どれが正しいというわけではないのだとつくづく思う。
今度は一転して安い居酒屋へ。飲み放題が男1200円、女800円。
ここ当たりじゃない? メニューは単品で注文できるのだから。つまみメニューはお高め。
ラストオーダーは15分前だから良心的。あれは日曜日限定かな?
そうじゃなかったら覚えておきたい居酒屋さん。

酔っぱらってなにか暴言を吐いたかな。
ある女性から「二度と逢いたくない」と言われてしまいショボーン。
原因はなんだったのかな。ぶっちゃけ、美人が嫌い(=好きなわけだが)なんだよね。
美人さんから「あなたは本当に人を愛したことがあるの?」なんて聞かれちゃうと……。
「けっ、恋愛すりゃいいのかよ」なんて山田太一のようにひねくれてしまった。
「生きてりゃいいのか」「病気は治せばいいのか」「カネは儲ければいいのか」
こういった社会通念への反骨心から多くの山田太一ドラマが描かれている。
「恋愛すりゃいいのか」――。
美人はいいよな。どうせおれなんか相手にしてくれないくせに、
「あなたは本当に人を愛したことがあるの?」だと~。
バカヤロウ、バカヤロウ……バッカヤロ。
遠まわしに、こう言われているような気がしたのね。
あなたは恋愛経験が少ない(ない?)から
「遠まわりの雨」などという糞ドラマを絶賛するのではないか?
これはおそらく本当のことで、人は本当のことを言われると傷つくのである。
もっともこういう傷が創作への滋養になるのだから、かの美人女性への恨みは皆無。

社会性、社交性をなんとかしないとな。
山田太一さんは異常なほど愛想がよく、また人当たりがいいのである。
悪い話をまったくといっていいほど聞かない。
夜の新宿、雑踏で酔っぱらったわたしは叫ぶわけである。
「おれは山田太一さんを超えるようなドラマを書きたい!」
こんなロクデナシの大法螺吹きとは正反対の紳士――天才脚本家の山田太一さんである。
だれからも愛され、人生は成功ばかりの山田太一さんが、
どうして75歳にもなって、まだものを書くことができるのか。
創作の熱源は、いったいなんなのであろうか。
氏はいま小説をご執筆なさっているという。

(参考)俳優座「沈黙亭のあかり」↓
http://haiyuza.co.jp/info/chinmokutei.html

COMMENT

虚空 URL @
03/13 16:05
. 「なにかが怖かったのである。
もっとも尊敬する作家・山田太一さんとわずかでも人間関係を作ってしまうのが怖かった。
なにより自分がものを書けなくなってしまうのではないかという恐怖があった。」

これは違うと思うね。きみはお母さんを死なせた罪悪感があるから、山田太一と一杯やるような幸福を味わう権利がないと内心では思ってるんだろう。自罰感情のなせるわざ。

尊敬する作家と人間関係をもつと物が書けなくなるなんていうバカな理屈はない。








 

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