「聞く」と「読む」

どこかあきらめているところがある。
わたしのシナリオは耳で聞いてもたぶんわからないであろう。
どうか読んでいただきたいと思っている。
耳よりも目のほうをわたしは信じている。
耳は不自由なものではないか。というのも、耳は漢字を識別できない。
「ガッショウスル」と耳で聞いたとする。これがぱっと「合掌」に漢字変換できるだろうか。
目であったら「合掌」と「合唱」は容易に区別することが可能だ。
「ゲッコウスル」と聞いて即座に「激昂する」と変換できるか。
しかも、この場合、わたしは「激高」ではなく「激昂」を使っている。
この微妙な相違を耳で聞き分けることは完全に不可能というほかない。
食堂の名前などでも、おなじこと。耳は漢字を理解する能力を持たぬ。

音は発声者のスピードですぐに消え去ってしまう。文字は異なる。
だから、あれっと思ったら読むスピードを遅くすることが文字なら可能なのである。
ここは飛ばし読みして、重要な部分をじっくり読み込むということもできる。

シナリオ・センターの言い分は一貫している。
視聴者は耳で聞いている。だから、耳で聞いてわからないシナリオはダメ。
一見、正しいようだが、賢明なみなさまは疑問を感じるのではありませんか。
いったいだれがシナリオを聞くのだろうか。
コンクールの下読みはシナリオを耳で聞くのだろうか。選考委員も同様。
ディレクターはシナリオを耳で聞くと思う人はいますか。
役者はシナリオをもらったら、まずどうするか。
やはりシナリオは読まれるものなのではないだろうか。
最終的には、このようにありとあらゆる人間が読み込んで、
わかりやすく再構成されたシナリオがドラマとして視聴者の目と耳に届けられる。

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