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「歎異抄 三帖和讃」

「歎異抄 三帖和讃」(親鸞/伊藤博之:校注/「新潮日本古典集成」)

→「新潮日本古典集成」は、表題の「歎異抄」と「三帖和讃」のみならず、
親鸞の書簡集「末燈鈔」、付録として親鸞の妻「恵信尼の手紙」を収める。
説明するとこうなる。
「歎異抄」=弟子の唯円が著した親鸞の語録。
「三帖和讃」=親鸞がやさしい和語を用いて仏を讃えた韻文。
「末燈鈔」=親鸞が各地の弟子に宛てた手紙で、回し読みされた。
「恵信尼の手紙」=妻の恵信尼から見た親鸞の姿がわかる。

「歎異抄」は何度も読み返しているので問題はなかったが、「三帖和讃」が苦しかった。
重度の不眠症のくせに睡魔に襲われるという貴重な経験をした。
「末燈鈔」のわかりやすさには驚いた。
とても難解な「教行信証」を書いた宗教家の手紙とは思えない。
いな、書簡とは、そういうものなのだろう。
「教行信証」は読まなくていいから、
「歎異抄」ついでに「末燈鈔」に目を通すのはいいかもしれない。
「和讃」も「岩波文庫」で読むよりは「新潮日本古典集成」のほうがいいだろう。
なお岩波版の「親鸞和讃」は新潮社版にはない聖徳太子への「和讃」を収録する。
ちなみに、読んだうえでの話はむろんだが、聖徳太子和讃はあまり重要ではないと思う。

いままで源信「往生要集」、法然「選択本願念仏集」、親鸞「教行信証」と、
南無阿弥陀仏の系譜をたどってきた。
親鸞の新しさを校注者の伊藤博之は簡潔にまとめているので紹介する。

「親鸞の浄土観の新しさは、源信が『往生要集』で強調した西方極楽浄土を
「方便の浄土」とみるところにあった。
人々が極楽図や阿弥陀仏の像を通して感覚的に思い描いてきた浄土を、
仮の浄土・方便の浄土とし、色もなく形もない「虚空のごと」き浄土、
言葉を媒介にしてのみ直覚される浄土を「真仏・真土」として、
明確に区別したのである」(P39)


つまり、親鸞は南無阿弥陀仏を未来形から現在形にしたということだろう。
極楽浄土は死後向かうものではない。未来として思い描くものではない。
浄土はいまここにあり。わが胸にあり。この信心の歓喜を浄土と言わずしてなんというか。
親鸞の称えたのは、いまを生きるための南無阿弥陀仏だ。

南無阿弥陀仏を追求する旅もこれで終わりである。
あらゆる信仰は、個人の領域でのみ芽生える。
わかりやすく言えば、信じる信じないは人それぞれ。
ならば、可能なのは、おのれの獲得した南無阿弥陀仏を語るくらいではないか。
むろん、だれかをおなじ信仰に引き入れようとは思わない。
人はひとり生まれ、死んでゆくのだから。

南無阿弥陀仏は涙と深く通じているように思う。
音の類似が、ふたつの親和性を象徴しているのではないか。
「なむあみだぶつ」と「なみだ」は、日本語として音が似ている。
(浄土真宗本願寺派では「なもあみだぶつ」と読む)
ふざけて言っているわけではない。本気で大まじめに書いている。

南無阿弥陀仏がわからないという人には、こういう説明をしたらどうだろうかと思う。
日本人は、喜怒哀楽のすべてで泣くでしょう。
喜んでいるのに泣くのが日本人の特徴ではないか。
五体満足の赤子が生まれる。このとき親は泣くはずである。
背後に「大きなもの」の存在を無意識的に感知して若い両親は泣く。
人間なんて無力に過ぎぬという認識が日本人を泣かせる。
この涙を言葉にしたら南無阿弥陀仏になるのではないか。
障害を持ったお子さんが生まれてくる場合もあるだろう。
両親は、どうして我われが、と「大きなもの」に怒りの矛先を向けるに相違ない。
しかし、結局のところ泣くしかない。
ふたたび、この涙が南無阿弥陀仏ではなかろうか。
死産ということもあろう。流産もありうる。
哀しいときにも日本人は泣く。だれに抗議をしても始まらない。無力。
この深い自覚に日本人が到達するとき、泣くほかないのだ。
楽しいときにも泣く。桜の花をめでながら亡き人を思い人は泣く。
みたび、この涙こそ南無阿弥陀仏ではないだろうか。

問いが生ずる。人間存在を根底からくつがえす問いである。
果たして人は泣いているのか。「大きなもの」に泣かされているのではないのか。
このように考えたとき、
この「大きなもの」を阿弥陀仏と命名し得た仏教者の歓喜はいかほどか。
では、阿弥陀仏とはなにか。不思議だと親鸞は言う。思議がかなわぬ。
人間ごときの思いはかることのできぬもの――阿弥陀仏である。
どうして五体満足の子が生まれ、障害児がときに生まれるのか、人間はわからない。
ならば、思議できぬなら、どうしたらいいのか。

「仏智うたがふつみふかし
この心(しん)おもひしるならば
くゆるこころをむねとして
仏智の不思議をたのむべし」

「仏智を疑う罪はまことに深い。この疑惑の心の咎を思い知ったならば、
悔いる心をもととして仏智の不思議をたのむべきである」(P169)


仏智とは人智を超えたものである。人間のものさしではない仏のものさし――。

「罪障功徳の体(たい)となる
こほりとみづのごとくにて
こほりおほきにみづおほし
さわりおほきに徳おほし」

(さとりを妨げる悪業こそが功徳の本体となるのである。
罪障と功徳との関係は、氷と水の関係のようなもので、
罪障の氷が多ければ多いほど功徳の水も多いことになる」(P114)


人間世界ではマイナスはマイナス、プラスはプラスである。
しかし、仏の世界ではマイナスがむしろプラスになると親鸞は言うのである。
かるがゆえに「仏智の不思議をたのむべし」。しかし、どのようにすればいいのか?

「子の母をおもふごとくにて
衆生仏(ほとけ)を憶すれば
現前当来とほからず
如来を拝見うたがはず」

「子が母をしたうように衆生もまた仏を憶念すると、
業による障りが除かれて今生にも仏を見奉り、
浄土に生れたときはまちがいなく如来をまのあたりにすることになる」(P97)


アニメ「みなしごハッチ」のイメージである(ご存じですか?)。
「母をたずねて三千里」でもいい。
迷子の自分を心配してくれるお母さんはかならずどこかにいる。
疑うなかれ。母の愛を信じて生きろ。これもまた南無阿弥陀仏である。
以上は、子から見た母。つぎに母の子への声援を聞いてみよう。

「無明長夜(むみやうぢやうや)の燈炬(とうこ)なり
智眼(ちげん)くらしとかなしむな
生死大海の船筏(せんばつ)なり
罪障おもしとなげかざれ」

「弥陀の本願は、煩悩に覆われて長い夜のように闇(くら)い心を照らす
大きなともしびである。だから、真実を見る智慧の眼がくらいと悲しむことはない。
弥陀の本願は、無限に続く生死の苦しみの大海をわたして、
我われを浄土にとどける船であり、筏(いかだ)である。
罪障が重いからといって歎くことはない」(P154)


人智は無明(=無知)の暗闇から抜け出ることがない。仏智という光明に出逢わなければ。
ちなみに、南無阿弥陀仏、南無無碍光如来、南無不可思議光如来は同義。
「弥陀の本願」とは、簡単に言えば、法蔵菩薩の人類救済宣言である。誓言でもある。
これは仏典の「大無量寿経」に書かれている。
(法蔵菩薩が誓願を立てたうえ長い修行の結果、阿弥陀仏になったというのが主な内容)
親鸞は「それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり」と説く(「教行信証」)。
この先は、信じるか信じないかしかない。仏智に人智は及ばぬがゆえ。
「大無量寿経」の正否は人智には判断しようがない。

阿弥陀仏は母のごとく子たる我われを慈(いつく)しむ。
子が泣くときは、この母もきっと涙を浮かべていることだろう。
また阿弥陀仏は智慧の光明として無明の生死をただよう我らが凡夫を照らしたまう。

「煩悩まなこさへられて
摂取の光明みざれども
大悲ものうきことなくて
つねにわが身をてらすなり」

「念仏を称える時、すべての人はまさしく弥陀の本願力と出会うはずなのに、
煩悩に妨げられて、
われわれを摂(おさ)め取らないではおかない仏のはたらきをこばみ、
光明の前に眼をとじて光を見ようともしない。
しかし、仏の大悲はそのような凡夫を見捨てることなく、
常にわが身を照らし、はたらきかけをやめないのである」(P133)


親鸞は、智慧光明の源泉たる阿弥陀仏を海のイメージを用いて讃える。
人間はなにゆえ泣くのか。水分を摂取しているからである。
どこから水を汲むのか。井戸から河から、水道の蛇口から。
自然のサイクルを思い起こしていただきたい。
太陽が海を照らす。蒸発した水分が雲を作る。この雲が山で雨を降らす。
雨水は河となり山野をくだる。河が集まり大河となる。大河は海へ流入する。
太陽を中心とした水の循環が自然といってもよい。
このとき阿弥陀仏の起源を太陽に求める学説はたいへん興味深い。
人間はどうして泣くのか。
この問いに太陽(阿弥陀仏)があるから、と答えるのはひどい誤まりなのだろうか。

「弥陀智願の広海に
凡夫善悪の心水も
帰入しぬればすなはちに
大悲心とぞ転ずなる」

「すべての河の水が海に流れ入って一味の潮となるように、
弥陀の本願にそなわる深広な智慧のはたらきに触れると、
自力をはげまして善を修めようとする心も、煩悩に狂わされて悪を犯す心も、
たちまちに大慈悲心となりかわる」(P156)


この意訳のもとになったのは、和讃に付記された親鸞自身の手なる注である。

「さまざまの水の海に入りて即ち潮となるが如く、
善悪の心の水みな大悲の心になるなり」(P156)


河が流れ海に抱きとめられるのが自然ならば、
人間の頬を涙が流れるのも自然なのかもしれない。
問題は、この自然をなんと読むかである。親鸞は「じねん」と読む。
この自然こそ親鸞思想のかなめであるように思う。
親鸞の書簡集「末燈鈔」で最重要なのは第五書簡ではないか。
ここにおいて(「歎異抄」では決して説明が十分とは言えない)
「自然法爾」(じねんほふに)について詳述されている。冒頭を引用する。

「自然法爾の事
自然といふは、自はおのづからといふ、
行者のはからひにあらず、然といふは、しからしむといふことばなり。
しからしむといふは、行者のはからひにあらず、
如来のちかひにてあるがゆゑに、法爾といふ。
法爾といふは、この如来の御ちかいひなるがゆゑにしからしむるを、
法爾といふなり。
法爾はこの御ちかひなりけるゆゑに、おほよす行者のはからひのなきをもて、
この法の徳のゆゑにしからしむといふなり。
すべてひとのはじめてはからはざるなり。
このゆゑに義なきを義とすとしるべしとなり」(P190)


賢明なるみなさんをもってしても意味が取りにくいでしょう。
意味は無視して一度だけ音読してください。
「はからひにあらず」と「しからしむ」と、このふたつの類似語がやたらと多いでしょう。
これでもうわかったも同然。親鸞の説く自然(じねん)とはなにか。
人間の「はからひにあらず」して「しからしむ」るのが自然である。
人間の思いはからいを超えて、自ずから然らしめられているものが自然――。

自力で成仏が可能だという仏教思想がある(禅宗や密教など)。
これを否定したのが法然であり、親鸞である。
自力を否定したわけだ。おのれの無力を自覚せよと説いた。
そのうえで南無阿弥陀仏。南無の意味はお任せする。
阿弥陀仏さまにお任せする。これが南無阿弥陀仏の意味である。
自力往生はかなわぬものとあきらめ、他力(他の力=阿弥陀仏)をたのむ。
この他力の実相が自然であると親鸞は「末燈鈔」第五書簡で説いている。

わたしはこの自然というキーワードで他力のこころがわかったように思う。
飛躍して独自な解釈をしてみる(あんがい飛躍ではないかもしれないぞ)。
自然(じねん)とはなにか。偶然でも必然でもないということではないか。
人間は偶然と必然のあいまを揺れ動きながらおのが生をまっとうする。
ふたつの考えかたがある。
人は偶然に生まれ偶然に死ぬ(=唯物論と言ってもいいだろう)。
人は必然として生まれ必然として死ぬ(=いわゆる運命論である)。
偶然と必然――。
人間は失敗すると原因を偶然に求めたがる(=運が悪かった)。
反面、成功すると必然だと思いたがるものである(=努力の結果)。
親鸞の他力信仰=自然法爾は、偶然と必然を広く包み込むのではないか。
偶然と必然を否定するのではない。
この二律背反を肯定も否定もせずに受容するのが自然ではなかろうか。
人間は偶然に生まれるのかもしれないし必然として誕生するのかもしれぬが、
まあ自然として生を授かったと考えるのがよろしい。
人間が死ぬのはまったくの偶然かもしれぬし定められた必然かもしれないが、
まあ自然の流れのなかで生をまっとうしたと考えるのがよろしい。
浮き世の儚(はかな)い成功や失敗もおなじように考えてみたらどうだろうか。
すべては自ずから然らしめられている。

偶然はまったき空虚を感じさせる。必然は絶対的で息苦しくなる。
比して、自然はどうだろうか。
人間は無力だが、人智及ばぬ「大きなもの」がちゃんと計算してくれている。
春夏秋冬を人間が変更することはできないが、かならず変化は訪れる。
なにによってか。自然の力があるからである。これを他力というのではないか。
人はなぜ生まれるのか。なにゆえ死ぬのか。どうして喜びと悲しみがあるのか。
すべては偶然なのか。それとも、すべては必然なのか。
これらの難問に、親鸞の南無阿弥陀仏はひとつの回答を与えはしないか。
いや、回答ではない。なぜなら南無阿弥陀仏は人間の思議を超えているのだから。
南無阿弥陀仏は、言葉にならない。
たぶん慰めのようなものを南無阿弥陀仏はもたらすのだろう。

「また他力と申すことは、義なきを義とすと申すなり。
義と申すことは、行者のおのおののはからふことを、義とは申すなり。
如来の誓願は不可思議にましますゆゑに、仏と仏の御はからひなり」(P195)


ひと言に要約すれば、人間を超えるものがある、ということに尽きるのだろう。
人力、自力を超越した力が人間世界にたしかに存在する。
これを他力という。これを自然という。
我われ人間がこの「大きなもの」に接触するのは南無阿弥陀仏を通してほかない。
しかし、人間の念仏は、実のところ他力=自然が言わせてくださっているのだ。
「大きなもの」を思うとき、人間のさまざまな悲喜の色合いがあざやかになる。
人間は無力ゆえ「大きなもの」からもたらされる悲喜を選ぶことはできない。
しかし、「大きなもの」=阿弥陀仏の光明は夕陽のごとく万物を照らす。
不可思議の光線を受けると、どのような悲しみも美しい輝きを放つ。
我われはこの輝きを味わうほかない。だが、これは大きな歓喜ではないだろうか。

親鸞の南無阿弥陀仏は現世の幸福を問題にしていない。

「仏号むねと修すれども
現世(げんぜ)をいのる行者をば
これも雑修となづけてぞ
千中無一ときらはるる」

「弥陀の名号をもっぱら称えるものでも、現世の幸福を祈るものは、
これも雑修と名づけ、千人中に一人も往生できないとしりぞけられる」(P123)


南無阿弥陀仏があれば成功と縁のない、
不幸つづきの人生でも立派に生き抜けると思う。死んでいけると思う。
南無阿弥陀仏があれば、
どんな人生のありかたもかなりのところまで肯定できるのではないか。
南無阿弥陀仏をこのたび学べたことをたいへんな僥倖と感謝したい。
この記事を書くのにどれほど骨を折ったか。
とはいえ、最後までお読みくださったかたは極めて少ないと思われる。
リアル友人にも「読んでくれ」とは頼めない長さである。
これだけは自分のために書きたかったと開き直るほかあるまい。
5年前のインドにおける仏教八大聖地の巡礼からスタートした旅が、
やっとのことで終わろうとしている。
仏教、牛歩の旅は、いまやアンチ念仏の日蓮を残すのみである。ありがてえ♪

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