「姨捨」

「姨捨」(井上靖/新潮文庫)絶版

→井上靖の初期短編を集めたもの。
「四つの面」というタイトルの小説が印象深かった。
ここで作家は、中国六朝時代を生きた、とある偉人の逸話を紹介している。
ある日、友人がこの男のもとを訪れると、男は女との情事にふけっていた。
男は見られているにもかかわらず平然と戯れを終えるとこう言ったという。

「どんなところを見られても、俺はいっこうに平気だ。
だが、ただ一つ、厠(かわや)にはいっている時だけは、
絶対に扉を開けないようにしてくれ」(P268)


また別の日、友人が訪問すると男のすがたが見えない。
さてはと思い、ほんの悪戯のつもりで厠の扉を開けると、果たして男はいた。
言わずもがなだが、厠とはトイレのことである。
便所の中で男は、全裸で髪を振り乱し、短刀を口に銜(くわ)えていたという。
ほどなくして男もその友人も非業の死を遂げることに相成った。
作者は中国の古人に思いを馳せる。
ちなみに、男の名は郭○(←かくぼく:漢字が出ない)という。

「それにしても、全裸で、髪を振り乱し、短刀を口に銜えていた郭○の姿は、
凄(すさま)じくはあるが、
人間の持っているどうすることもできない悲しみや怒りに触れ、それと同時に、
そこにある救いがあるように私には思われる」(P270)


引用文の主語を井上文学に替えてもおなじことが言えるのではないか。
ためしにやってみよう。
井上靖の文学作品は、凄じくはあるが、
人間の持っているどうすることもできない悲しみや怒りに触れ、それと同時に、
そこにある救いがあるように私には思われる。
この主語は宮本輝とも山田太一とも、いや日本人のみならず、
ユージン・オニールともアウグスト・ストリンドベリとも代替可能であるように思う。
願わくば、いつかわたしの名前も、この文章の主語にならんことを!

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