「ふぞろいの林檎たちⅣ」

「ふぞろいの林檎たちⅣ」(山田太一/マガジンハウス)絶版

→テレビドラマシナリオ。平成9年放送作品。全13回の連続ドラマ。
パート3での病的なまでの異常性は失せ、
いつもの手堅い山田太一ドラマに仕上がっている。
つまり、安心して笑って泣くことができる。
考えてみたら、視聴者と俳優陣はおなじことをしているのである。
笑って泣いて、笑って泣いての繰り返しである。
これはことさら新発見というわけではない。
脚本家は我われの生きる現実をモデルにしているのだから、むしろ当たり前のことだ。
ありきたりな反復である。だれもがみんな――。泣く。笑う。泣く。笑う。
山田太一はありきたりに丁寧に向き合う。
ひとつひとつの泣き笑いを大切にする。
芸術家なんぞが無視して通り過ぎてゆく人間の細かな哀歓に光を当てるわけである。
泣くというのはすばらしい。泣かなかったら笑うこともできないのだから。
笑うというのもまた素敵である。人間は笑うために生きているのではないか。
ひとりで笑っているのはいささか病的である。どうせならだれかがそばにいたほうがいい。
一方、泣くのは、通常はこっそり隠れて泣くものである。
けれども、こちらも笑いと同様、だれかが横にいてくれたら、泣くのもずいぶん楽になる。
人間と逢おう。笑おう。泣こう。
山田太一ドラマのすすめる生きかたである。
いいかたをかえれば、人間のなしうるのはこのくらいである。
せいぜい泣いて笑うくらいしか、人間の自由はないのかもしれない。

人はどうして泣くのだろう。泣いていた人間がいつしか笑うのはなぜだろう。
人生は勝負だからである。人間世界には勝ちと負けがあるからだ。
勝ったときは笑う。負けたときは泣く。
(もとより人間は複雑だから勝ったときに泣き、負けたときに強がって笑うこともあるけれど)
ならば、ドラマは勝負を描くものだと定義できるのかもしれない。
勝ちつづける人間や負けつづける人間は少ない(まったくいないわけではない)。
ドラマが生まれるゆえんである。
山田太一ドラマの特徴は、負けることへのこだわりにあるように思う。
人間はどうしたって実人生で勝ちたいから、勝つドラマを好むものである。
しかし、勝つドラマというのは存外、大味である。
山田太一ドラマを見ているとわかることだ。
もしかしたら勝つことよりも、負けることのほうが、
よほど深い味わいを秘めているのかもしれない。
負けることのうちに人生の豊かさがどれほど多く眠っていることだろうか。
こう考えてゆくと、山田太一の描くドラマ世界が負に満ちていることに気づく。
たとえば劣等感、挫折感、屈辱感である。
山田太一は負を肯定する。負の豊饒(ほうじょう)に目を向ける。

先日、「ふぞろいの林檎たち」パート1の企画書を偶然から手に入れることができた。
シナリオを書き始めるまえに山田太一がテレビ局に提出したものである。
「月刊シナリオ教室」のバックナンバーに掲載されている。
この企画書から一行を引用したい。
たったの一行だが、「ふぞろいの林檎たち」シリーズすべてに共通するテーマだと思う。
山田太一ドラマの核心といってもいいのかもしれない。それはなにか。

≪しかし、「一流の人生」は果して、本当に「一流」なのか?≫

山田太一は「ふぞろいの林檎たち」で四流の大学生のドラマを描きたかったという。
林檎たちは三流ですらないのである。三流にも手が届かぬ四流の人生。
だが、この四流であるはずの「ふぞろいの林檎たち」はなんと輝いていることだろう。
一流と呼ばれる人間よりも、数段、人間として深いように思われる。
なにゆえか。負の効用である。
四流の人間が一流のものよりたくさん持っているものは負のほかには考えられぬ。
ドラマの林檎たちが、形の整った林檎よりも味わいがあるとすれば、
それはふぞろいであるがゆえだ。

「ふぞろいの林檎たちⅣ」に話を移そう。
林檎たちは、宮本晴江(石原真理子)以外それぞれ成熟した大人になっている。
だれもが(ひとりを除いて)いままでにはなかった落ち着きを見せているのが印象的である。
岩田健一(時任三郎)は熟練した営業マンとして活躍している。
仲手川良雄(中井貴一)は、運送会社の課長に出世した。
西寺実(柳沢慎吾)は妻の綾子(中島唱子)と実家のラーメン屋を継いでいる。
水野陽子(手塚理美)はベテランの看護婦長として病院になくてはならぬ存在である。
ひとり宮本晴江のみ、ふらふらアメリカで暮らしている。

ドラマに新しく登場するもののひとりが桐生克彦(長瀬智也)である。
視聴率対策として召喚された克彦は田舎から上京してきた青年という設定。
ふとしたことから健一、良雄、実の「ふぞろいの林檎たち」に出逢う。
19歳の克彦は、林檎たちをえらく大人だと感じる。
あの「ふぞろいの林檎たち」がとうとう若者から慕われる存在になったのである。
これがどうして四流の人生なんていえようか。
パート4で魅力的なのは、大人の男同士の友情である。
健一、良雄、実のそれぞれ逢うシーンがぞくぞくするほどいいのである。
現実には、ありえないことである。
四捨五入すれば40にもなる男が、そうそう学生時代の友情を維持できるわけがない。
だが、かれらならと思ってしまう。「ふぞろいの林檎たち」なら――。
健一、良雄、実の男三人は、気負ったところがなくなり、とてもいい関係を作っている。
上京したての克彦は、いわばかつての林檎たちの生き写しである。
大学に行っていないぶん、あるいはもっと世間的なレベルは低いかもしれない。
ふぞろいの林檎である克彦が、大きく成長した林檎たちにあこがれるのである。
学歴がなくても、会社は三流でも、こんな立派に生きている大人たちがいる。
田舎物の克彦は、正直に感銘を受けたと大人に告げる。
「ふぞろいの林檎たち」が嬉しくないはずはない。

実のラーメン屋である。客はひとりもいない。暇である。克彦が入ってくる。
克彦は実に「ふぞろいの林檎たち」には参ったと白状する。

実「お前ね」
克彦「はい」
実「十九で、そんなおべんちゃらいって、どうすんだよ」
克彦「べんちゃらじゃなくて――」
実「二人とも金なんて持ってねえぞ。貸すもんか」
克彦「そんなんじゃないです」
実「大体、岩田がちゃんとした大人かよう。ただ、でかいだけ」
克彦「あ(そうかなあ、と首を傾ける)」
実「仲手川が、どうして、すげえんだよ?
すげえなんて言葉から一番遠い奴だよ、あいつは」
克彦「友だちじゃないんですか?」
実「友だちだよ」
克彦「だったら――」
実「ほめなきゃ、おかしいか?」
克彦「まあ、普通は――」
実「俺たちはね、短所でね、つながってるの」
克彦「タンショ?」
実「そう。お互いの欠点を愛してるのよ」
克彦「はあ」
実「だから、岩田がちゃんとしてて、仲手川がすごいなんて、冗談じゃないわけよ」
克彦「はあ」
実「あいつらがね、ダメな奴だから愛してる」
克彦「ダメですか?」
実「ダメ。落ちこぼれ。パア。あいつらも、俺の欠点を愛してる。長所は愛してない」
克彦「はあ」
実「なまじ誰かが立派な奴になったら、もう愛さないよ。
ダメ同士だから、長続きしてる」
克彦「はあ」
実「だからね、俺たちになんか頼るなよ。
金はねえし、残業と接待でヒーヒーいってる。
俺なんかも、こう繁盛してちゃ、あんたの話なんか聞いている暇はねえ、
といいたいけど、なんだい、用は?」
克彦「はい」
実「うめえぞ、このラーメンは」
克彦「オレ――」
実「(ラーメンにかかっている)」
克彦「西寺さんも、思ってた通り、凄い人だと思います」
実「なんだよ、それ」
克彦「すげえいい友だち同士だなあと思います」
実「こら、なに企んでるんだ?」
克彦「企んでなんかいません。三人とも、凄いですよ」(P167)


山田太一のシナリオを初めて読んだのは十代のころだった。
「ふぞろいの林檎たち」である。ドラマの再放送を見たのはシナリオのあとだ。
当時、浪人生だったわたしは、大学ではこんな友人ができたらいいなと思った。
大学生になったら、こんな楽しいことがあるのだなと期待した。
むろん、現実とテレビドラマは異なる。
「ふぞろいの林檎たち」のような友情関係は極めてまれであろう。
十代のわたしの気がつかなかったことである。
二十代も山田太一作品のファンであった。
とはいえ、どこか不満があったのも事実である。甘いと思っていた。
現実は山田太一ドラマのようにうまくいくわけではない。
山田太一のテレビドラマは、どこかごまかしているという憤りがあった。
三十路に入って、考えが変わった。
山田太一ドラマの弱点だと思っていたところが、正反対に長所に思えてきたのである。
いうまでもなく、現実はドラマのように運ばない。
そのことが骨身にしみてわかったのである。
そうなるとむしろ、山田太一ドラマのフィクションが輝きを増した。
二十代はフィクションが現実らしくないからいやであった。
ところが、三十代になると、現実にはないフィクションだからこそ、
ありがたく尊く美しいのだということを理解した。
「現実にはありえぬフィクション」は欠点ではなく美点だと気づいたのである。

山田太一ドラマから教えられたことは多い。
第一は嘘のすばらしさである。
フィクションがあるおかげで、我われはどれだけ辛い現実に耐えうるか。
第二は泣くことの重みである。
人間は泣くことによっていかほど解放されるか。
人間にはどうしようもないことがある。どうしようもない。
一見、選択肢はないようだが泣くことは可能だ。
泣いて泣いて泣き尽くせば、あきらめることができる。
あきらめたらいつか笑える日が来るかもしれない。

「ふぞろいの林檎たちⅣ」で手持ちの山田太一作品はすべて読破したことになる。
とうとう終わりが来たかと感慨深いものがある。
山田太一ドラマにどのくらい笑い、泣かせてもらったことだろう。
ドラマのフィクションにどれほど慰められたことだろうか。
ありきたりですが山田太一先生に感謝したいです。ありがとうございました。

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