「ふぞろいの林檎たちⅡ」

「ふぞろいの林檎たちⅡ」(山田太一/新潮文庫)絶版 *再読

→テレビドラマシナリオ。昭和60年放送作品。全13回の連続ドラマ。
山田太一が別の本のなかで、こんなことを語っている(「街で話した言葉」)。
近所に小学校が新設された。
そこの校長先生から校歌を書いてくれるよう頼まれ、断わりきれずに引き受けた。
さらに災難はつづき、校歌の作詞者ということで運動会に招待される。
山田太一は正直に白状するのだが、自分の子どもが出ない運動会など退屈である。
かといって面白くないというような顔もできず、ずっと微笑を浮かべていた。

ところがである。突然、雨が降りだした。思いのほか大雨である。
生徒も父兄も校舎に避難する。運動会の中止も検討された。
校長の決断で、最後の全校リレーだけやることになった。
1年生から6年生まで、選抜されたものが走る。父兄もグラウンドに出る。
生徒はみんなずぶぬれである。これがよかったと山田太一は述懐する。
大雨のなかを懸命に走る1年生なんてものはたいへんいい。
学年が上がると走る距離も長くなる。なかには転ぶものもいる。
リレーが終わると全員が集まる。雨がザーザー降っている。校長先生がいう。
はじめての運動会は残念なことに雨でした。
でも、この運動会はそれだけにみなさんの忘れ難いものになるのではないでしょうか。
泣いている父兄もいる。山田太一も涙ぐんでしまう。
それくらい感動的に盛り上がっていたのである。

考えてみると、本来なら運動会に雨なんて降らないほうがいい。
けれども、この日は雨が降ったがために強烈な思い出になったのではないか。
こういうことはほかにもあるのではないのだろうか。
ネガティブなもの、マイナスのもの。通常なら歓迎せざるもの。除去すべきもの。
こういった負の事柄が、かえって我われを豊かにしてくれる。
かりにこの日が晴れであったならば、運動会は脚本家の心に残らなかったのである。
歓迎せざる雨のおかげで、感動的な運動会になった。

山田太一ドラマを考えるうえで、とても意味深いエピソードだと思う。
まずは自分の子どもの出ていない運動会は面白くないというくだり。
わたしがいまのテレビドラマを見ないのは、まさにこのためである。
いまのドラマは、まるで自分の子どもの出ていない運動会のようだと思う。
自分の分身がドラマに登場しないのである。
日々感じている切実な思いを、ドラマの人物と共有しているようには思えない。
これをひっくり返すと、なにゆえ山田太一ドラマに熱中するのかの答えになる。
かのドラマのなかには「わたし」がいるのである。
山田ドラマの多くが高視聴率を取ったのもこのためであろう。
たくさんの視聴者が山田太一の創るドラマのなかに自分を発見した。

つぎに山田太一ドラマにおける作者の位置について考えてみたい。
山田太一のドラマ世界では「わたし」がこんがらがっている。錯綜している。
どういうことか。山田太一作品はほかのドラマと比較すると、
作者の「わたし」が強く打ちだされているといえよう。
とはいえ、それは決して私小説的なものではない。
山田太一は自分の経験をドラマにしているわけではない。
にもかかわらず、ドラマのすみずみまで作者の個性が行き渡っているのを感じる。
この矛盾はいったいどういうことだろうか。

カギはネガティブなものにあると思う。人間におけるマイナスの部分である。
山田太一が創るドラマ人物は断じて作者の私小説的分身ではない。
取材を経て造形された架空の存在である。
山田太一自身とは姿形も心もまったく異なる人形だ。
この人形を創るとき、作者のこだわるのがネガティブな部分なのである。
コンプレックスや性格のゆがみのことである。頭の悪さ、顔の悪さもそう。
人間の悪意、嫉妬、狡猾、虚栄、自己嫌悪、不安、猜疑、孤独、絶望――。
脚本家は人間のネガティブな部分と徹底的に向き合う。
山田太一は内なるマイナスから他者をとらえ、
自分とはおよそ縁もゆかりもない人物を創り上げる。
このとき創作者の強力な武器になっているのが「わたし」である。
自分という人間のどうしようもなさ、やりきれなさをどこまで理解しているか。
老作家が女子中学生のせりふを書ける理由である(「本当と嘘とテキーラ」)。
どんな人間でもネガティブな負の部分を持っている。
このことへの信頼から山田太一は性別も境遇も異なる人物を創造するのだ。

視聴者が山田太一ドラマに「わたし」を見るのもおなじ理由による。
我われはドラマのなかの人間が自分とおなじような弱さを持っていることに共感するのだ。
いま人間のネガティブな部分を弱さといいかえた。
脚本家、ドラマ人物、視聴者、この三者が弱さをもって通じているのである。
山田太一ドラマの感動は、弱さの共有として説明ができる。
弱い人間はみな強くならなければならないのだろうか。
そんなことはないんじゃないかな。弱いままでいいのではないだろうか。
むろん、強がりはする。だが、現実に打ちのめされる。自分の弱さに直面する。
このとき人間の選択可能な行動は泣くことくらいである。
果たしてこの泣き虫はみじめだろうか。みっともないだろうか。
そんなことはない。むしろ、強い人間なんかよりもよほど魅力的である。
よほど人間らしいではないか。
あたかも雨の運動会が晴れの運動会よりも感動的だったように、である。

「ふぞろいの林檎たちⅡ」を見てみよう。
きちんと形がそろっていて青果店で高値で売られるような林檎ではない。
ひと箱いくらにもならないような安価で取引されジュースになってしまう林檎。
ふぞろいの林檎たちを――。
パート2では林檎たちが社会に出ている。
ふぞろいゆえに舞台は三流大学から三流会社へ移行する。

ひとつ目のふぞろいの林檎は仲手川良雄(中井貴一)。運送会社に勤務。

良雄「俺なんか、ひでえもんだよ。仕事してると、時々、ふるえが来るんだ」
晴江「ふるえ?」
良雄「こんなことで一生暮すのか、こんなことして、二十代が終っちゃうのかって、
身体がぶるぶるって、ふるえるんだ。なんとかしたい。こっから脱け出したい。
みんな、やだ、みんな、やだ、みんな、やだ(とウイスキーをこぼして)ああッ」(P155)


ふたつ目は岩田健一(時任三郎)。この強い男も泣く。

実「なんのせいよ。なんのせいで、落ち込んでるのよ?」
健一「陽子(手塚理美)だ。
あいつ、嫌ったらしく、しっかりしようしっかりしようとしやがって。
人バカにしやがって(と少し泣く)」
実「おい」
健一「(壁に顔をつけて泣く)」(P245)


みっつ目は西寺実(柳沢慎吾)。
実の実家、西寺ラーメン店では綾子(中島唱子)がバイトとして働く。
実と健一はおなじ会社でどちらも営業マンとして勤務している。
健一が先に来て実を待つ。実は帰宅したが不機嫌である。

実「(カッと)知らねえから知らねえっていってんだよ」
綾子「(おどろいて見ている)」
健一「(笑顔つくって)おどろくだろ」
実「(悪かったと思い、冗談めかそうとして)だってよ、フフ、まったく、
あそこの資材課は、人バカにしやがってよ。人が(絶句してしまう)」
健一「どうした?」
実「(綾子へ)見てんじゃねえよ。
茶でも出せよ、お前(と急に早口でいい、目をまた伏せる)」
綾子「(ラーメンにかかる)」
健一「フフ、いるんだよな(綾子へ)ほんと威張る奴がいるんだよ」
綾子「(小さく)そう」
健一「(実の背中を叩く)」
実「――」
健一「昨日も顔見なかったろ。ちょっとしゃべろうかと思ってな」
実「(ベソをかいてしまう)」
健一「おい(と背中を押し)一人っ子ってのは、これだから困るよ
(綾子へ)こんなの亭主にしたら大変だよ。すぐこうやって泣いちまって」
綾子「いいの。可愛い(目を伏せたまま)」
健一「可愛いとよ」
実「(健一にもたれて泣いてしまう)」
健一「おい――」
実「――(泣いている)」(P533)


もうひとつだけ、ふぞろいの林檎を。
宮本晴江(石原真理子)と水野陽子(手塚理美)は、
国家試験をパスして晴れて看護婦の身である。
だが、晴江は自分が看護婦には適していないのに気づく。
晴江は酔って寮の二人部屋に戻ってくる。

晴江「辞めたい。私は、此処(ここ)じゃ駄目なの。いきいき出来ないの。
このまま行ったら、うんと意地悪な看護婦になりそう。あーッ、息がつまりそう。
なんとかしなくちゃ、なんか他のもんにならなくちゃ」
陽子「他のもんて」
晴江「(涙ぐみ)なにが出来るんだろうなあ。
ほんとは私、なんなら向いてるんだろうなあ(と涙流れる)」
陽子「――考えよう」
晴江「考えたって、絵がうまいわけじゃないし、
文章書けるわけじゃないし、お芝居出来るわけじゃないし、
ダンス踊れるわけじゃないし(と泣いて陽子に抱きつく)」
陽子「あるわよ。きっと晴江にぴったしの仕事、なんかあるわよ」
晴江「(泣いている)」(P208)


「ふぞろいの林檎たちⅡ」第1回「会社どこですか?」は軍隊めいた行進からはじまる。
社員研修のシーンである。健一と実がこの研修に参加させられているのだ。
指導官は研修生全員のまえで説教する。

指導官「世の中、やり甲斐がぎっしりつまった仕事なんて、百万に一つよ。
公平な職場なんてものもありゃしねえ。大半は意味のねえ苦労や、
やり甲斐のねえポスト、自分には不向きの仕事なんてもんでいっぱいなんだ。
だからといって、次々やめてりゃあ、一生やめて歩かなきゃあならねえ。
いいか。他に生き方があるなんて思うなッ。世の中、甘い汁はねえ。
いまの仕事で力をつけるしかねえんだ。
しっかり腰をすえて、意味のねえ苦労でもやり甲斐のねえ仕事でも、
黙って立派にやり通す人間になるんだ」(P10)


要約すれば、強くなれ! である。
ふぞろいの林檎たちはそれぞれ強くならんとする。実際、おのおの成長している。
けれども、強いばかりではいられない。自分の弱さに気づく。
見目よからぬふぞろいの林檎は、なおさら弱さに敏感であろう。
おのれの弱さに直面したふぞろいの林檎は泣く。
だが、そのときかならずといってよいほど、そばにもうひとりのふぞろいの林檎がいる。
だから、このドラマは「ふぞろいの林檎」ならぬ「ふぞろいの林檎たち」なのである。

ドラマにも強いシーンと弱いシーンがある。
強いシーンとはストーリーをすすめるために必要な場面のこと。
比して弱いシーンは、あってもなくてもよいような場面のことである。
「ふぞろいの林檎たち」では、さりげないシーンがとてもすばらしい。
たとえ、そのシーンがカットされてもストーリーにはなんら支障がないのである。
必要とされていないという点では、ふぞろいの林檎とおなじである。
しかし、一見役に立たないこれらのシーンが、どれほどドラマを豊かにしているか。
ふたつ紹介する。

●看護婦寮の前
晴江「(外からコートで戻って来て振りかえり)じゃ」
健一「ああ」
晴江「御馳走(ごちそう)さま」
健一「そば屋じゃな」
晴江「この辺あんまりないのよ」
健一「分ったさ」
晴江「なにが?」
健一「気ィつかって(と胸の財布のあたりをたたき)そば食ってくれたの」
晴江「ひがんだこというんだね」
健一「フフ、ほんと」
晴江「今度レストランおごって」
健一「いいさ」
晴江「じゃ――」
健一「ああ」
晴江「遠いね、帰るの」
健一「いやぁ」
晴江「フフ(と行こうとする)」
健一「あ」
晴江「うん?」
健一「なんか悩んでるんだろ?」
晴江「――フフ(目を伏せる)」
健一「感じたけど、聞かなくて悪かった」
晴江「聞かれたって、しゃべる気ないし」
健一「ほんとに?」
晴江「楽しかった」
健一「ああ」
晴江「フッ(と手を出す)」
健一「(握手)」(P42)


「ふぞろいの林檎たち」は複数形によって、どれほど救われているか。

●道
健一「(ちょっととんで樹の葉をむしったりして)やっぱり、ちがって来てるな」
良雄「なにが?」
健一「学生の頃は、一晩中でもしゃべくってたのに」
良雄「そんなこというなよ。ちょっと持って帰った仕事があるんだ」
健一「いいさ。俺も五時半に、彼女と逢うし、それまで、床屋でも行ってくらあ」
良雄「ヨッと(ととんで樹の葉をむしる)」
健一「ウォッ(とまたとんで葉をむしる)」
良雄「(苦笑しつつ葉をちぎって捨てながら歩く)」
健一「(その良雄を見て)おう(とパクリと葉を食べムシャムシャやる)」
良雄「バカ。ホコリがすげえぞ」
健一「オエッ(とおどけて吐く)」
良雄「(笑う)」
健一「(笑う)」
 しかし、なんとなくノスタルジィを演じているようなところがある(P375)

COMMENT

coco URL @
08/14 01:30
. こんばんは。
山田太一、山頭火、宮本輝の名前を目にするたびに
Yonda?さんを連想する今日この頃(笑)

「どうしようもない」を冷酷にとことん曝け出すことで終われば
リアリティはわりとかんたんにモノにできますよね。
しかしそこで終わらせず、どうしようもない事実と格闘し組み伏せ
圧倒的説得力によって人生の肯定までもってゆく。
それができるのが上質の嘘(物語)ではないでしょうか。

人間救済のための必然として、宗教や物語が存在するのだと思います。
虚構の上にこそ有益な真実を築くことができる(カート・ボネガットのぱくり)
そんな力をもつ嘘がつけるのは、やはりえらばれし者。
近年とみに払底しているようですが。
Yonda? URL @
08/14 23:02
cocoさんへ. 

こんばんは、です。
暑い日がつづきますが、いかがお過ごしでしょう。
さんまの刺身を食べています。
あぶらがのっていて、とてもおいしい。
さんまといえば秋ですから、もう秋がすぐそこなのですね。
ともあれ、小さい秋を堪能しています。

リアリティって、なんなのでしょう。
毎日、テレビで勝ち誇っている成功者の面々もリアルなのですから。
けれども、こちらは打ちのめされるばかり。
失敗者を救済するような嘘を熱烈に求めてしまいます。

おっしゃるとおり(誤読?)、宗教はどうしようもなく嘘なのです。
その嘘を本当と信じるところに、信仰のある作家の強さがあります。
宮本輝の天才の秘密です。
嘘を本当だと信じた作家の目に、本当はいかように映るのか。
信仰を持つ以外、知りようがない世界です。
coco URL @
08/16 01:21
. さんまの刺身、旬にしか味わえない楽しみですね。
今はお盆休みです。読書とレンタルDVDの映画で時間を浪費しています。
五輪中継、興味ないのに見れば日本を夢中で応援してしまう。

>リアリティって、なんなのでしょう。
世の中は救いようもなく不条理で不平等である、ということでしょうか。

>宗教はどうしようもなく嘘なのです
嘘偽りです。嘘が原材料の錬金術。救いのための世界解釈。
魅惑的な諸刃の剣「絶対」も提供してくれます。
でも最近は、宗教よりスピリチュアル系?が流行っているようですね。

>嘘を本当だと信じた作家の目に、本当はいかように映るのか。
すべての事象に意味を見いだすことができるのでは、なんて。

残暑も厳しそうです。夏バテせぬようご自愛ください♪
Yonda? URL @
08/16 22:26
cocoさんへ. 

お元気そうで、なによりです。
中トロなんかより、さんまのほうがどうしてか好きなんです。
大衆ぶりたがる自分に嫌気がさすこともあります。
そのくせ非国民。
オリンピック、大嫌い。日本、応援しない。
だれがメダル取ったのか知らない。
(cocoさんに逆らっているわけではありません。
ごめんなさい。反省しているのです)
ともあれ、平和なことはいいことです。
戦争中なら自国の勝敗に興味を持たないわけにはいきませんもの。

> でも最近は、宗教よりスピリチュアル系?が流行っているようですね。

わたしも河合隼雄のファンだからおなじ穴のむじなでしょうが、
それにしても江原某にだまされる人が多いのには驚きます。
いえ、どうせ人間はなんらかの嘘をたよりに生きるものです。
とはいえ、もう少しましな嘘を、と思ってしまいます。

> 夏バテせぬようご自愛ください♪

お気遣い、ありがとうございます♪








 

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